あけましておめでとうございます。
坂には「上り坂・下り坂・まさか」と言われる「坂」があると言われますが、
昨年は一月の市川での毒入り餃子事件から始まって「まさか」の連続であったように感じます。
宇宙船から地球を見たり、
峠で満天の星空を眺め、遙か彼方に灯る人家の明かりを見ると、人は何と小さな存在なのだろうと思います。
また森の中に身を置くと、私たちは自然によって生かされていると、改めて思います。
自身の置き所を何処におくかによって視線が全然違ってくるものであります。
自らの身は、地球の大地の上に身を置き、森羅万象の中に生かされている命であります。
では、心の置き場所はどこに…。
親鸞聖人は、「心を弘誓の仏地に樹て」と示され、
自身の迷いの執われ心や、日の善し悪し、風水…等の迷信をあてたよりするのではなく、阿弥陀如来のご本願を究極の依りどころとすると教えて下さいました。
源信僧都はお念仏のみ教えは「濁世の目足」と示され、
お念仏こそが濁った世の生き抜く智慧の目であり、進むべき方向を示す足となって下さると示されます。
今年一年もみ教えを聞き、智慧の目で自らを省み。
お念仏によって知らされる慚愧と喜びの日々送りたいものであります。
南無阿彌ば仏…
坂には「上り坂・下り坂・まさか」と言われる「坂」があると言われますが、
昨年は一月の市川での毒入り餃子事件から始まって「まさか」の連続であったように感じます。
宇宙船から地球を見たり、
峠で満天の星空を眺め、遙か彼方に灯る人家の明かりを見ると、人は何と小さな存在なのだろうと思います。
また森の中に身を置くと、私たちは自然によって生かされていると、改めて思います。
自身の置き所を何処におくかによって視線が全然違ってくるものであります。
自らの身は、地球の大地の上に身を置き、森羅万象の中に生かされている命であります。
では、心の置き場所はどこに…。
親鸞聖人は、「心を弘誓の仏地に樹て」と示され、
自身の迷いの執われ心や、日の善し悪し、風水…等の迷信をあてたよりするのではなく、阿弥陀如来のご本願を究極の依りどころとすると教えて下さいました。
源信僧都はお念仏のみ教えは「濁世の目足」と示され、
お念仏こそが濁った世の生き抜く智慧の目であり、進むべき方向を示す足となって下さると示されます。
今年一年もみ教えを聞き、智慧の目で自らを省み。
お念仏によって知らされる慚愧と喜びの日々送りたいものであります。
南無阿彌ば仏…