King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

朝の整い、秋聲で辺りの秋を聞く

2019年10月03日 11時10分13秒 | 珈琲

すんなりと楽しめないことは齢をとり経験を積むと多くなります。

可能性と残された時間と常に考えていると齢のせいであきらめていることや

出来ないと決めつけていることに気が付きます。

そんなことはなく、本人が思うほど可能性は少なくないという経験も最近はします。

 

サウナで整うという感覚を広めて漫画が実写化され深夜のドラマで放送していますが、

それは見ると不思議な感じがします。というのは私自身温泉に行き、宿にサウナがあれば

必ず入り、水風呂も入ります。しかし、それを三セットも入ってり出たりを繰り返したり

椅子に座って休んだりという事はしたことがなく、整ったという感覚もないと言っていいと

思います。しかし、それ以上に汗をかくという事ではサウナ以上の大汗を毎日かいていて

ランニングの最中にランニングハイのような感覚に陥ったり、快感は走っている時と

その後の風呂の中や寝入る時の心地よさなどいくつもの快感タイムが訪れるのです。

 

これは逆に走らない日は不安になるという逆効果もあり、走らないではいられない義務感のようなものも

出来てしまいます。

 

それでも大汗をかくことではサウナ程度ではないことや得られる快感の多さや健康効果など

いくつもあり優越的に語れるのですが、なぜかそのサウナで整うのもいつかやってみたいと

思うようになりました。そんな折原作の漫画も見かけてこれがいわゆるブームの元かとみて

見ると漫画の絵はドラマの作りからするとかなりへたくそな絵でドラマの荒川良々が出た回などは

その出来とおじさんの聖地としてのサウナへの肯定感はいや増しました。

 

ただメタボの聖地とかおじさんの残されたフロンティアとあげつらえるだけでなく、新種の

サウナはおしゃれで男女で入ることもできたりと益々おじさんの居所は狭まるかのような

高級店や多彩な施設は増えているようです。

 

ドラマではかく有名サウナや特徴あるサウナを紹介するのですが、あえて言われる動線とか

水風呂の温度とかのこだわりに必然と整う、そういう仕組みとかこだわりが意外とうなづけて

しまうだけに誰でも行ける聖地やストレス社会にこれはやらなければならないのではとさえ

思わせます。

 

とはいえ私にはランニングと珈琲と季節を感じて日々を生きる一連の整いポイントがあり、

さらに整う必要もないのです。

 

逆に日々の忙しさがその整うポイントを増強してくれることもあり、さらなる進化は

もっと珈琲が売れて忙しさとホッとする時間のコントラストがます方がサウナに逃げなくても

よいことであり、私がその珈琲で毎夜感じる整いの時間にさらにいつも思い描くのはあの真っ白に

なった新雪が降り積もりさらにリフトで降り立つトップにはいつも新雪が積もり誰の滑った

跡もないさらさらでふわふわな斜面に飛び込むように滑り出すあの感覚です。

 

そんな快感の地が噴火で廃止されもう立ち入れないこととなった事や全く警戒のない山が突如

噴火したことなどあんなに簡単に約束されたような幸福の地が実はいつもあるとは限らないという

これはこの先また立ち入る山でも繰り返されるかもしれないことであり、いくらでもある斜面でも

必ず新雪の心地よさがあるかというとそうでもないという事が解るばかりです。

 

私にはあの時に滑ったあのゲレンデとかあの斜面とかいつも思い出す新雪の記憶はあるものの、

アクセスするタイミングとか雪質とかその心地よさを増強するいくつもの要素が存在することも

経験して、この記憶の中の幸福感も再現可能かというとな必ずしも同じように快楽と幸福感が

もたらされるかというとなんか違うとか記憶の崩壊につながる思い出は思い出だけで楽しむ方が

安全なことも知るのでした。

 

こんなことを突き詰めていくと自分だけの斜面とか今アクセスできる極上の斜面となるとこれだけ

追い求めるともっと危険な選択となり、色々と困難な選択となることも予想されます。

この毎日の朝の珈琲で感じるような日々の生活を考えると今の珈琲を焼きランニングとバスケの試合と

冬のゲレンデとでできていることであり、これを続けることが私にも求められていることなのかと

ぼんやりと漠然と思うのでした。


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