King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

即興曲の連続と何でエリーゼのために

2009年07月06日 01時04分38秒 | ライブ・コンサート・展覧会
昔の作曲家というのは超天才といわれ、現役において
すでにスーパースターという人も最後はボロボロで
落ちぶれたしまったり、身体的にどこか病んでしまったり
と幸せな人生の人や世に最後まで愛された人というのは
まれです。

しかし、そんなクラッシックという分野がなぜ今も
繰り返し演奏され何度もあの曲はああだこうだといわれ
続けるのでしょうか。

最近では、流行の音楽でも個人の携帯プレーヤーでの
できごとで、世にいつも流れていて国民全てに愛される
などというものはなくなりました。

しかし、国民誰もが知っている世界中の人が知っている
メロディは今でもあるのです。

今日は、いつも聞きにいく地元のピアノ演奏家が川越
でコンサートをやるというので、川越の散策とピアノの
コンサートを楽しむ休日を堪能しました。

幸いなことに、天候もくもりと梅雨の降ってばかりの天候も
この日は少しお休みしてくれました。

往きは、いつもお出かけのときに定番のレッドアローで
いつもの時間に起きていつもの時間の電車に乗り、所沢
で乗り換えてそこからまたレッドに乗り継いで本川越に
着きました。

川越は今、テレビのドラマの舞台になっているとかでなぜか
人がたくさん散策していました。

今の時期なら、箱根や鎌倉が旬なんじゃねえのかといぶかしみ
ましたが、そのドラマの影響で中高年の団体がやたらいました。
話し声などから判断すると結構遠くの方からやってきて地元の
人が案内しているパターンが多いようでした。

私は、興味があったのは建物と自家焙煎の珈琲屋さんだけ。

みやげ物のいものなんたらなんて全然興味なしです。さらに
駄菓子の店も今となってはあえて足を向けたいとも思いません。
ただ、商店街や蔵の街並みは立派な観光資源だと思います。

古い店や商店が並ぶさまは秩父を思わせます。しかし、商店街や
機織工場が残る街並みは今はなく、空き地ばかりが目立つ山間の
町になってしまいました。

そんな昔の商店街の雰囲気がまだ少し残る大正ロマンあふれる
建物や、戦国時代から武士ゆかりのちでもあり、いざ
鎌倉への交通の要衝で、古くから栄えたのでこれだけ蔵の残る
おもしろいところになったのでしょう。

でも、埼玉県の都市の特長として、ちゃんとした整備計画が
整うまでに開発が進んでしまい、無秩序な発展と開発により
駅周辺の煩雑な町とそれに続く住宅街の連絡の悪さと閉店した
商店街など行政の無力さを示すものです。

それと、埼玉県に限ったことではありませんが、首都圏に
向かう交通ばかりが発展して、東西の交通網の不整備で
何事も中央頼みのお任せ行政も浮かび上がります。

よく美濃部都政と畑県政で道路行政や整備は大きなマイナスに
なったといわれます。

確かに効率の良い近代化がなされて、内需主導型の強い経済も
リゾート法などというばかげた法律など作って浮かれなければ
案外県北の工業化と東西交通網環首都圏交通の発展とともに
都内だけに集中しない産業分散も成功したかもしれません。

しかし、これが民主主義の残したものであることは間違い
なく、無駄の多い行政ばかりがはびこるこの国の問題点
でもあります。

大分話がそれてしまいましたが、蔵の街を楽しんだ後、
昼は割烹の店で天丼を食べ、これが実においしく、よく
観光地で食べるエビばかりの天丼と違い野菜と魚の配分が
よく、色々な味のてんぷらのうまさを堪能しました。

そして、よいよもうひとつの楽しみの珈琲屋ですが、
これが地元でよく行く店と良く似た店でびっくりして
しまいました。

ブレンドがNO1から5あるのも同じだし、お変わりすると
次から半額になるシステムも自家焙煎なのも同じです。
ですが、この店は自家焙煎を特別宣伝することもなく、
スペシャリティ珈琲の店とその特別入手の豆を強調して
いるところが入店のきっかけになりました。

飲んだのは、本日の旬というケニアの農園の豆でした。

ここの店も金属フィルターで淹れていてなんだかうちの
珈琲と同じ感じでした。

段々もうこれ以上の珈琲はないというところまできて
いるような感じを受けてしまいます。

よいよ御三家といわれる珈琲にご対面する時が来たと
感じますが、結果もおなじになるような気がします。

それと同じに、今回のコンサートも同じような感想を
持ったのです。

珈琲の豆がよければある程度の抽出技術で味が極端に
変わることはなく、焙煎の時期や仕方さえ間違えなければ
そうたいした差はないということです。

同様に、ある程度のピアノの技術者であれば、そうできに
差があるものではなく、超一流と一流の差はあるものの、
聞く側の欲求により、受け取り方は差がありますが、出来は
そうプレーヤーにより差が出ないというものです。

そして、この地元のプレーヤーは曲演奏に関しては、実に
実直であり、律儀という印象を持ちました。

今回は、手元がよく見える位置で見たのでその技術の高さは
申し分なく捉えられましたし、後は表現者としてどれだけ
のものを伝えようとするかという点では、ランランのような顔芸
でもなければ、早弾きという点では十分なものがあり、その正確
さも十分な表現があり、ただ、表現者としての情熱がどれだけ
聞くものに伝わるかだと思います。

それが実直さがあるだけに、パフォーマンス能力が今後どのように
変化するか興味があるところです。

音楽家は、時に病気やハンデや性格破綻などを持ちますが、それを
芸術家の魂として持ち合わせるから人々をより感動させより引き寄せ
たりするのでしょう。その時に不利な物がない十分に普通の人が
実直さだけで勝負したらどうなるのか、世の評価は今後どうなるのか
まあおもしろいではないですか。

ピアノ弾きは、これからまた人生を重ねてその解釈や実直さも変化
するでしょうし、精神に変化も受けるでしょうから、それを見、
世の中の評価も知ることとなるとすればそれはそれで楽しみだといえます。
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