外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 3/5

2018年11月08日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 3/5

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三回目に扱う部分はたいへん短いです。それはある一つの単語をめぐってのことだからです。(岩波文庫:p.21-22)

文明論の概略和綴じ三回目の前に、諭吉さんの英語修行 付録:福沢の英文手紙(1862)をアップロードしました。「文法的間違い」などは指摘しませんでしたが、「間違い」自体が、まちがいなく英語学習開始3年後の福沢の文章、英語力だということを明かしています。以前「シリーズ・日本人の英語」で扱った伊藤博文の場合、公職についたあとの英文ということもあり、間違いは見つからないものの、添削を受けた後の、あるいは代筆しもらった後の英文に違いありません。津田梅子なども伊藤の顧問だったそうです。

さて、二回までで、福沢が論理、レトリックともに、とてもよく考えて書いていることが分かりました。各回の下には原文のコピーもあげておきました。フリガナを増やしましたのでぜひ眺めてください。現代語訳も2種類以上出ているようですが、原文に挑戦しましょう。現代の日本語には失われたリズムがあることが分かるでしょう。慶應義塾塾長だった小泉信三さんは以下のように書いておられます。

小泉信三福沢の文の一つの特徴は、そこに漂う固有の明るさである。彼の文は、前述の通り、文字を厳選してこれを吝(おし)むという流儀ではなく、滾々(こんこん)として湧き出る文字を湧き出るに任せて筆にしたかと思わしめるものであるが、斯くして列(つら)ねられた文字が構成する文章は、滔々洋々として朗誦すべく、かつ不思議に誦者を楽しからしめる一種の調子の余人を追従を許さぬものを持っていた。更に福沢の文には豊かな感情が溢れ、ユモアがあり、適切機警の観察はあるいは人の意表にでて、あるいは、人の頤(おとがい)を解(と)くものがあった。(『学問のすすめ』解題)

頤を解く:大笑いさせる

今回扱う一語、それは「交際」です。前回までに、A: 理論的主張、B: 実際への適用、C:  比喩や例示の3つを柱に、「基準の必要」、「議論を紛糾させる点」を合わせて6項目の論点について展開してきました。これらは、現代の私たちにも参考になる、議論の必要条件でしたが、あくまで抽象的な論理にとどまります。これらの実際の具体的な言語活動で向上させていくには何をしたらいいか。そのために必要なものを福沢は「交際」と呼びます。短い箇所なので、原文を見てみましょう。

論点7.「交際」が実際の上記の紛糾を避け、言語活動を向上させていく手段である。

福沢交際昔封建の時に大名の家来、江戸の藩邸に住居する者と国邑(こくいふ)に在る者と、その議論常に齟齬(そご)して同藩の家中殆(ほとん)ど讐敵(しゅうてき)の如くなりしことあり。これまた人の真面目を顕(あら)はさゞりし一例なり。是等の弊害はもとより人の智見の進むに従て自から除くべきものとは雖(いへ)ども、之を除くに最も有力なるものは人と人との交際なり。その交際は、あるいは商売にても又は学問にても、甚しきは遊芸酒宴或は公事訴訟喧嘩戦争にても、唯人と人と相接してその心に思ふ所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和はらげ、所謂(いはゆる)両眼を開て他の所長を見るを得べし。人民の会議、社友の演説、道路の便利、出版の自由等、すべて此類の事に就て識者の眼を着する由縁も、この人民の交際を助るがために殊に之を重んじるものなり。

「交際」とは、現代私たちが使う「不純異性交際」、とか「交際の範囲が広い」という使い方よりずっと広い意味で使われています。上で「その交際は、あるいは商売にても又は学問にても、甚しきは遊芸酒宴或は公事訴訟喧嘩戦争にても、唯人と人と相接してその心に思ふ所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和はらげ、所謂(いはゆる)両眼を開て他の所長を見るを得べし。」と述べているように、友好だろうと敵対であろうと、他者と直接接して自分の考えを述べることを言います。あえて言えば「引きこもり」の反対。「相接して」というところが重要ですから、現代のスマホ、ラインの類は、福沢さんに言われせれば本当の交際ではないでしょう。一方、この間の「福沢の英文手紙」には、少しぐらい間違ってもいいから交際への意思をはっきり示したい、という意図が現れていると思いませんか。

ここで一言しておきたいのは、福沢が新しい語、とりわけ翻訳語を作り出すとき、その語の定義にはとても用心深いということです。上に述べたように具体例の提示も怠りません。演説、討論、競争など多く私たちが使う語は福沢の発明によるものが多いのですが、liberty、rightsなど現代社会の土台を支える語の訳にはことのほか腐心しています。『翻訳語成立事情』の著者、柳父章は、「福沢の、思想の道具としてのことばに対する感覚の鋭さは群を抜いていた」(岩波新書p.154)と述べています。近いうちに別のブログで扱いたいと思います。

この「交際」という語は、soicityの訳語を見出す過程で生まれました。福沢ものちに社会という語を使い始めますが、西欧的な概念である社会に対応する考え方は日本になく翻訳には苦労したようです。江戸末期の日本において存在する概念は藩であり、国にとどまりました。以下にsocietyの出てくる英文を福沢がどう日本語に移したかを見てみましょう。

Society is, therefore, entitled by all means consistent with humanity to discourage, and even to punish the idle.

故に人間交際の道を全(まっとう)せんには、懶惰を制して之を止(とど)めざるべからず。あるいはこれを罰するもまた仁の術と云うべし。(『西洋事情外編』)

threforeそれゆえ、(be) entitled to~する資格がある、means手段、(be) cnsisitent with~と矛盾しない  discourageやる気をなくさせる、punish罰する、 the idle怠け者

福沢夫妻「それゆえ、社会というものは、人間性と矛盾しないあらゆる手段を用いて、怠惰な人に注意を促し、罰することさえ許されるのである」というぐらいが、現代の人の訳でしょうが、名詞としての「社会」が日本語にないので、品詞の対応を捨て、状態を表す表現を動作の表現に変えて、文全体で主旨を伝えようとしています。ここでは、societyのもつ、「つきあい」というもう一つの意味の語感が福沢の念頭にあったと思います。

今回、「交際」という福沢がよく使うキーワードとでも呼ぶべき単語に拘泥して、少し話をずらしてみました。次回、論理とレトリックに戻ります。前回までは、「必要条件」について論じていましたが、論理の問題とはいえ、よのなか、十分条件でも必要条件でもないけれど、注意しなければならない点がたくさんあります。前回までのように明快というわけにはいきません。そこで福沢も最期にこれを持ってきたのでしょう。

4/5へつづく





 

 

 

 

 

 


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