外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

日本人は小野田さんをのみこめない

2021年11月03日 | 小野田寛郎さん
日本人は小野田さんをのみこめない

映画『オノダ』について、あと2回

『オノダ」に対する浅いコメント
フランス映画『オノダ ー 一万夜を越えて』についての反応を見てみましたが、「見た」と言っても、あらかじめ頭にある枠組みに入れるだけで、ちゃんと見たのかどうか疑わしいものもかなりありました。これは、大きくマスコミの反響を呼んだ作品にはつきもので新しいことではありません。

まず、壮年期の小野田さんがそっくりだということに対する驚き。ついで、本当の小野田さんは違うとか、偏見だとか。反対に、今までの小野田像を覆すとか、見えなかったことが分かった、などなど。

反響を呼んだもの、世間の話題になったドラマ、文学はつねに「現実とは違う、歪曲だ」という世評にさらされます。監督がいくら「実際の小野田さんではなく普遍的な寓話を描いたのだ」と述べても、それは耳には入らないかのようです。つまり、文学、芸術の基本以前の、ゴシップ、週刊誌的な水準に下がってしまった論評がでてくるのです。

こういうことは世評の高いものにはつきものです。たとえば、じっさいの事件を下敷きにした三島由紀夫の『金閣寺』を主人公のコンプレックスで説明して分かった気になるということがありました。『金閣寺』は、当時の理想主義、たぶん共産主義などでしょうが、それが自己の理想を破壊するという自己矛盾、アイロニーを主題にしたとても現代的な悲劇で、そこを世界で評価されたのです。

映画『オノダ』以前の小野田寛郎さんが1974年にでてきたときにも、ヒーローだ、軍国主義の復活だ、殺人犯となるのが怖かったから出てこなかった、など、ともかく自分の持っている枠になんとか押し込めようとするばかりでした。人は問題を解決するために原因を追究するだけではなく、ただ安心したいので、ある原因を押し付けるということをしがちなものです。(先ごろ行われた衆議院選挙の結果の「原因分析」などにもその匂いがあります。)

監督の小野田像
さて、日本人にとっての意味は後に譲るとして、アラリというフランス人の監督が「寓話」と述べたことは正当なのか、的を射ているのか、という問題。現実の人間や、すでにある作品をどこまで改変、創作していいのか、というのは中級レベルの文学の問題(?)です。

最近、死後40年たつ向田邦子の作品のリメイク、また向田その人をモデルとした作品を見ましたが、どうも許容範囲を越えているものばかりです。。その理由は、単に向田を冠にすれば、視聴率が稼げるという非文学的な理由で作られているからででしょう。そうした作品では、向田自身と向田作品は改変者の創作物になってしまっていて、向田自身とは関係ありません。『オノダ』は、アラリによると、ある普遍的なものの寓話であるということで、視聴率に左右される日本のドラマとは次元は違うでしょう。問題はその寓意が正当なものか、十分生かされたものかという点です。

ここまで筆を進めると単にりくつを言っているように見えるかもしれませんが、『オノダ』の作品自体の統一感はかなりしっかりしています。いくつかのコメントは、作品を芸術にしているこの「統一感」を無視して、部分部分で批判をしているように見えます。(たとえば、メモをとる場面が何回か出てきますが、諜報員は証拠を残さないためメモはしないのだ、とか。)

「信じる」
監督は、「信じる」ということの意味をテーマにしていると述べています。イッセー尾形演じる、谷口少佐の「何年たっても迎えに来る」という言葉に対する信頼ということです。これが全編の枠組みとなっていて、この枠組みの前に起きたこと、後に起きたことには一切触れていません。しかし、じっさい、小野田さんと谷口との関係に「信じる」というテーマを読み込んでよいか、という問題があります。小野田さんは命令順守しただけではないかと。しかし、命令ということは信頼関係があって初めてその本来の機能を果たします。私には、このテーマの取り上げ方は了解できました。3時間のドラマの展開は、この「信じる」ということを枠として、小野田さんと3人の部下との対話で成り立っているという二重構造になっています。最後に、もう一度、このテーマが現れます。別の俳優が演じる一人になった小野田さんが、「信じることがなくなった」空虚に直面するところで映画が終わります。

監督は、「フランス人が撮ったかどうか分からない映画を撮るのが理想だ」、と言っていますが、監督の言葉に反して、この作品はこの点でフランス的なものになっていると言えるかもしれません。つまり、フランスはカトリックの国だということです。いかに最近では宗教色は薄れたといえども、「神を待つ」ということがフランス人の深層心理に潜んでいるのではないでしょうか。そういえば『ゴドーを待ちながら』という同じくカトリック国のアイルランドの作家の戯曲もありました。

命令と負けず嫌い
このシリーズの一回目に述べましたが、じっさいの小野田さんは母親から先祖伝来の短刀を受け取ったのですが、映画では父親から「お前の体はお国のものだ」と言われて渡されます。たぶん女優が見つからなかったか、使いたくなかったからだとは思いますが、ひょっとすると、母親にすると、映画のテーマが横に広がってしまうことを恐れたのかもしれません。小野田さんが現われたときに、インタビューでご母堂は「短刀を渡した真意は自決ではなく戻ってくることの願いだった」と述べています。小野田さんもその意味は分かっていたのでしょうが、小野田さんは言葉で表わされた明快な意味のみを自己の行動基準とします。じつは、小野田さんの著作を読むと、10代からの母親との抜き差しならない関係が語られています(ブログの小野田シリーズにも一部再録)。男の子と強い母親とのある種、典型的な関係です。空港で再会しても通俗ドラマのように抱き合うことはありません。母親は涙ながらも儀礼的な挨拶をするのみ。小野田さんの方は母親を置いて島田さんと小塚さんの遺族にかけよります。ここには下手なドラマより劇的緊張があります。しかしここを掘り下げると映画が違う方向に広がってしまうことになるでしょう。

生き抜くこと
青年期の小野田さんを演じた俳優さんが、優秀な兄へのコンプレックスがあったのではないかと述べていますが、これは、いかにも現代の若者らしい意見です。しかし的外れの感があります。二人の兄への対抗心はあったかもしれませんが、それを吹き飛ばすようないたずらもので、中学では剣道で和歌山県有数の腕前でした。左腕に竹刀が刺さったときは、医者に麻酔なしで手術すれば痛いが治りは早いぞ、と言われそうしたという、負けず嫌いぶりでした(鈴木青年との最初の写真で、左の二の腕を差し出しているのは手術跡を肉親に見せるため)。コンプレックスというのは弱さの表われですが、むしろ負けず嫌いという表現の方がふさわしいでしょう。中学をでたあと、家出同然にして大陸に渡り、兵役まで商社員として活動していました。

小野田さんにとっては与えられた状況のなかでできる限り自己を生かす、つまり負けず嫌いという原則が、ルバング島以前も以降も、貫かれています。如何に困難な状況でも分析し、害のない方向へ向かい行動するという原則です、そこには軍人精神とか大和魂という既成の行動様式はありません。そのかわり、明快な言語で自分のすべきことを定義し守ります。これこそ30年間生きのびる力であったのです。欲望に捉われたり、自己の職務に疑念を持ったすることは、小野田さんの表現を借りれば「生きる力をその分そぐ」ことになります。これはレトリックではなく現実であって、映画でも、もっと描けると思った点です。

それでも、小塚を通してこんな場面が描かれます。偶然捕虜にした女の現地人の髪を小塚がなでます。小塚が好色だという設定です。カメラは目を開けて観察していた女を映し出しますが、直後、女は小塚の拳銃を奪い暴発させ、小塚は奪い返した銃を女に向けます。しかし、撃てない。そこでオノダが殺害するという展開です。脚本は、殺したのが女だという事実(生き残ることの非情さを表現したい監督の創作。小野田さんは女子供には銃を向けなかったと強く述べている)、それに、相手が発砲した後での正当な殺害、という面を余すところなく描いて、小野田さんがすべて覚えていると言った50数回に上る原住民への「必中弾」を一つの場面で描いていると言えるでしょう。ところで、島田が殺害されるシーンは、映画ではそっけなく描かれていましたが、射撃の名手と言われた島田が、疑いや揺らぎのなかで、抑制を失い、無意識に敵に体を晒してしまうという場面に展開できたのではないかと思いました。この小塚のシーンは、小塚を通して、小野田さんが生きるために自分のすべきことを定義し守る人間だということを印象付けます。この点はあとでもう一度触れます。

疑うこと
与えられた条件で最善を尽くす小野田さんの方針のなかで、なかなか理解されないのが小野田さんが情報工作員だったということです。これは次回に書き加えたいことですが、ここでも少しは触れておきます。日本の捜索隊が肉親を使って出てくるように言いますが、ビラのなかの肉親の名前が間違っていたり、また、ハンドマイクで呼びかける兄の声が上ずっていたという点などで、小野田さんは敵の偽装工作だと判断します。現代人の目から見るとなぜそんなに頑固に固執するのか、またはフィクションに捉われているのかと思いがちですが、ちょっとでもスパイ映画など見た人なら、肉親を脅しておとりにするのは工作の基本とも言える技術だと分かるでしょう。小野田さんとしてはそんなものには引っ掛からないぞ、と思うのは当然です。日本が負けたのは捜索隊が置いていった新聞などで分かるではないかと現代人は思いますが、「負けたらしい」では行動の基準にはならない。どんな策略があるかも分からないのです。

「疑う」、このことは、小野田さんにとって、ひげをそったり、排泄物を深く埋めたりすることと同様、日々の、しかし一つして見逃すことができない行為でした。しかし、この点では、監督の見方に弱さがあるように思います。さきほど「信じる」という監督のテーマを肯定的に書きましたが、それだけでは、「オノダの物語」の最後のクライマックス、つまり鈴木青年によって可能となった「投降」の意味が弱まってしまうのです。100%ではないとしても、なぜ鈴木青年に心を許したのか。鈴木青年は世間ではまったく信用のない男、つまりヒッピーのような存在です。政府が巨費を投じて捜索隊を出しても出てこなかった小野田さんがなぜ出てきたのか。これは実際の小野田さんの問題としても十分述べられていないし、映画でも筋の上で第一に大切な点であるにも拘わらず、十分表現されていないと言えます。それでも、両手をホールドアップしている鈴木青年に銃口を向ける長回しのシーン、これはとても印象的なシーンです。
では、次回に、鈴木青年をなぜ信じたか、ということに触れます。続いて、日本の問題としての小野田さん、本稿のタイトルにしてある「日本人は小野田さんをのみこめない」に移ります。





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