外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

続:小野田さんを日本人はのみこめない

2021年11月09日 | 小野田寛郎さん
続:小野田さんを日本人はのみこめない

あるモデル、または原作に基づいた作品の場合、ここが違う、捏造だという話がでるものです。その場合は「モデル」が基準でそれとどう違うかというところに注意が向きます。小野田さんの場合、そう単純なことにはなりません。なぜなら、小野田さん自身が一つの表現になっているからです。その山場は、鈴木青年によって下山を決める過程です。それについては、いままでのドキュメンタリーなどでも、映画『オノダ』でも十分に掘り下げていません。ヒッピーのような青年が筋金入りの諜報部員を説得した、という目新しさは触れるのですが、なぜか、どうしてか、は、いまに至るまで素通りしています。

信じること、疑うこと
映画『オノダ』の場合、「信じる」ということを主軸に据えたからだということもできるかもしれません。二日にわたる鈴木青年の観察と出会いの過程で小野田さんが下した決断は「信じる」ということからはでてきません。それは「疑う」ということからでてきます。「疑う」というと疑心暗鬼が思い浮かびますが、疑心暗鬼は自分の枠組みに閉じこもり外部を恐れることから生じます。諜報員の「疑い」は極力自分から離れ敵の立場でものを考えるということです。

それができるのは、自分の目的がはっきりしていて、それを判断の基準にすることができる場合です。小野田さんの場合、命令遵守といえるでしょう。しかし、それは、大和魂とか軍人精神というばくぜんとしたものではありません。それは何か。生きるため、生き抜くため。ということです。小野田さんは、苦境に陥ったとき、行動の選択肢を数え上げます。その範囲で自らの行動を定義して、それを遵守するという生き方です。それは帰国後も小野田さんの行動原理でした。それがあって初めて、自分の周りで何が起きているのかゆらぐことなく判断し行動できるのです。

こうした行動原理の一つが、「敵を疑う」ことです。調査団のビラで肉親の名前が間違っていたことや、兄の呼び声が上ずっていたということ、これらから諜報員は何を予想するでしょう。敵が肉親を強制して言わせているということではないでしょうか。通常の生活ではこんなことをしませんが、よど号事件のとき、韓国の金浦空港の周りに機内から見えるように北朝鮮の看板を掲げたということを覚えていますか。私たちでも時にこのようなことを考えることがあるのです。

ところで、一方、少しでも疑心暗鬼に陥ると生きる力が奪われます。映画では十分とは言えないですが、島田、小塚がやられた理由はそこにあると描かれています。島田は射撃の名手であったのですが、無意識に敵に身を晒してしまいました。(映画の)小塚はかすかな色欲による戸惑いのため射撃をためらってしまいました。

日本軍の勝利を信じるということと、敗北を疑うことの違い
人は米軍による北ベトナム爆撃(北爆)を日本軍に対するものだと思ったということで小野田さんを笑うかもしれませんが、昭和19年(1944年)の時点では、だれも中共が勝利してベトナムで代理戦争が行われることなど予想できなかったことを忘れているのです。一方大陸の日本軍は壊滅を免れていたのですから、日本本土の政府はかいらいで、命令系統が大陸に残存している日本軍によるものだというシナリオも否定できないです。ここで注意すべきは、小野田さんはそうだと結論しているのではなく、そうであるかもしれないと思ったことです。そうであれば、疑いつつもその原則を遵守し行動するしかありません。ときどき、島民といざこざを起こしたり、のろしを上げて遠くから見ている友軍にメッセージを送るということもありました。

しかし、日本軍敗北の可能性が高まってくるとともに、投降か、米軍のレーダー基地に60歳になる前に突撃して果てるかという選択が現実の問題となってきました。そのような時に現れたのが鈴木青年です。小野田さんはあらゆる観点から鈴木青年を点検したでしょう。そのなかでは、映画に少し出てくるようにサンダルにソックスを履いているので日本人であろうという推定も含まれます。それでもどういう人で何のために来たのか分かる筈はありません。北爆も知らないわけですから、フラワーチルドレンも反戦ももちろん分かりません。分かる筈がないのです。

鈴木青年
そのような時に、小野田さんは鈴木青年に話しかける決断をしたのです。それは一般的な常識に反する行為です。これだけ疑わしい人間なら危うきに近寄らず、という選択肢が有力です。小野田さんは自ら作成した疑うべきチェックリストを何度も見直したことでしょう。二日間鈴木青年を観察しましたが、結論は、「分からない」ということでした。どういう動機で来たのか、背後に何があるのか全く推定できない。「分からない」ということは、危険をもたらすチェックリストのどこにも入らない、危険の確率は考えられる限りとても低いという結論です。

一方、鈴木青年の方は、下心がまったくなかった、少なくとも小野田さんはそう推定しました。少しでも行動にゆらぎがあれば、調査団の兄の声の末尾がひきつったのに注意したように疑ったことでしょう。しかし、何も見いだせなかったのです。少し俗な言い方かもしれませんが、鈴木青年はイノセント、無邪気だったのです。諜報員の徹底した査察にひっかからなかったのは邪心のなさだけなのです。私はここに「小野田の物語」の頂点があると思うのですが、どうお考えでしょう。

ちなみに、小野田さんは夕刻、太陽をバックにして、忽然と鈴木青年の前に現れて「おい」と声を掛けます。鈴木青年は後年、小柄な小野田さんを巨人のように感じたと述べています。そこは映画には描かれていませんが、三八式歩兵銃を鈴木青年に向け様子を探る場面は、前回述べたようにこの映画のクライマックスと言えるでしょう。

日本人にとっての小野田さん
さて、日本人にとっては、「小野田の物語」は何を意味するのでしょう。題に示したように「日本人には小野田さんはのみこめない」というのが40年以上たっても変わらぬ印象です。ある人は、「何々なので、小野田はある種の精神疾患(アルファベットで示される比較的新しい病名)なのは明らかだ」と述べます。その「何々なので」の部分には、日本本土の政権は傀儡で、米軍の北爆は日本軍に対するものだという、今から見るとたいていの人が莫迦なというようなことが入ります。現代の目で歴史を歪曲する態度の一つがここに現れているでしょう。某大新聞の映画評では、その後の小野田さんの「戦争は避けねばならない」という発言を引用し、一方で、小野田さんはゆがんだ情報の犠牲者である点で現在のフェイクニュースと同じだと言います。しかし、フェイクニュースは情報過剰で起きるのに対し、小野田さんの場合は情報が極めて乏しい状況でした。その記者は小野田さんが晩年まで靖国神社で毎年のように講演をしたことなどには触れません。一つの枠にはめるだけで、対象を見ようとしない態度でしょう。

ユーチューブで当時の報道映像を見ますと、空港で人々が日の丸をふって出迎え、小野田さんが笑顔で手を振って応える場面が出てきます。これを見た外国人はなんと思うのでしょう。ナショナリズムの高まりでしょうか。私個人の当時の記憶では、ナショナリズムの風潮はまったくありませんでした。パンダを見るごとく小野田さんを珍しがっていただけだと思います。いくらなんでも、日の丸なしではまずいでしょう、というだけでした。小野田さんによるスターのような返礼も、つづく記者会見での態度とは大きく矛盾し、作られたものだと分かります。三島の自決が昭和45年(1970年)、横井さんが現われたのが1972年、そして石油ショック後に話題を提供してれたのが小野田さん(1974年)でした。つぎに何が出てくるのだろうというぐらいの好奇心で人々は見ていたように思います。

捜索隊の態度にも時代がもたらす偏見が濃厚です。情に訴えれば出てくるという態度です。肉親の名前を間違って書いたビラを配ったりする点などを見ると、役所が仕事をしていることを示すだけでそうしたようにさえ思えてきます。新聞も一部や二部を置いて行ったとしても偽造されたものと考えらてしまう可能性があります。小野田さんが諜報員だと分かっていたのなら、もっと詳しい戦後史の資料や、高性能ラジオと多量の電池を置いてくることもできたのでしょうが、そうはしなかった。多額の税金をかけた調査だったのにこうした点が抜けていたのです。

しかし、こうした一連の日本人の反応には、戦後の日本人の実相というものが現われていると言えないでしょうか。それは2021年に至ってどう変化したでしょうか。三島由紀夫が日本人ののどに突き刺さったままと言えるとしたら、小野田さんは日本人にはのみこめない、という所以です。





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