外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

小野田寛郎さん(3) 小野田さんは、なぜ出てこなかったか。

2014年03月11日 | 小野田寛郎さん

小野田寛郎さん(3)

小野田 鈴木

小野田さんは、なぜ出てこなかったか。

このコラムは、英語教育、学習をテーマにしていますが、英語学習は、国語学習と気っても切れない関係がありますから、言語一般の話しは、むしろ積極的に取 り上げる予定です。

「小野田さんはなぜ出てこなかったのか」について一言。
前のコラムで触れた戸井十月は、01:08:24あたりで、「いまだに僕は(---)、不思議なのは、30年間近く(---)、ジャングルの中でがんばれ たんですかね、何故ですかね」」と尋ねています。

「出てこなかった」原因には、小野田さんの方と日本側の両方があるはずですが、戸井さんは小野田さんの方 の原因のみを考えています。このインタビューの性格上、仕方がないことでしょう。

では、日本側の原因は何か。小野田さんは「命令が下達されなかった」ということを繰り返し述べていますが、そのことをもう少し掘り下げてみましょう。小野 田さんの言ってる通り、前に投降した人間が、「住民とフィリピン政府に処刑されるのを恐れている」と言ったから、日本政府は「命は保証する」ということだけ言い続けたのでしょう。しかし、 少し考えれば、継続して威嚇活動、サボタージュを続けているわけですから、小野田さんが作戦計画を忠実に行っているのではないかと、考えることもできたわ けです。そうだとしたら、「投降命令」を命令系統を踏まえて伝えることの方が有効だということになります。従来の呼びかけと平行し て行うこともできるでしょう。軍人は命令と名誉によって動くものです。

なぜそうしなかったのでしょう。たぶん、1974年当時の「時代」の風潮のなかで、そういうことを思いつかなかったのでないかと思います。たとえ、中野学 校でいっしょだった末次一郎のような人が提案したとしても(実際、提案したかどうか分かりませんが)、受け入れられない雰囲気があったのではないでしょうか。誰も がなんとなく前提している当時の考え方は「人命尊重」です。1970年、日航機、よど号が「日本赤軍」のメンバーのよって乗っ取られた事件でも、「人名は 地球より重い」という考えにの下に人質が解放されました。そういう考えに捉われて、「殺さないから出て来い」と言うことばかり呼びかけて、小野田さんの考 えていることに思い及ばなかったのではないかと思います。(三島由紀夫が生きていたら何といったか、考え込んでしまいます。)


小野田さん 朝日


私たちは無意識に、その時代の考え方や雰囲気に支配されていて、何を言うにしても、行うにしてもそれを前提しています。ある意味で、それは言語の本質で す。まるでそれがないかのように無意識に使っていながらも、相手とのコミュニケーションが成り立つというのが言語です。ですから、その言語の外側にいる 人、つまり外国人には言葉は通じません。小野田さんのように基本的な母国語は共有していても、29年間に変化し、醸し出された無意識の共通言語の外側にいる人には通じなかったの でしょう。このことは私たちが言語を使う、また習う場合にも教訓となることです。言葉を相手に届ける場合、自分たちが無意識に前提していることを疑ってみ ることなしには通じない場合があるのです。

言語以外のことに触れる予定でしたが、結局、言葉の問題に戻ってきてしまいました。

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ついでに:

では、なぜ出てきたか。小野田さんのイメージの対極と言えるドロップアウトの「ヒッピー」、鈴木紀夫青年だけが、小野田さんの説得に成功した理由も考えてみる価値があります。小野田さんによると、鈴木青年だけが、島の住民と親しく交わり、「島の山猫」、「森の王様」について、住民の感触を得ていたからだということです。政府も、家族、戦友たちも、フィリピーノと対等のコミュニケーションを持とうとしなかったのでしょう。住民が「島の山猫」を最もよく知っていたにも拘わらず。

鈴木青年は1987年に、雪男を探しに行ったヒマラヤで死去しました。その死を悼んだ小野田さんは、寒さには弱いにも拘わらず、ヒマラヤの遭難地点を訪れました。「鈴木君はなぜ、(---) 急にこんな危険な場所にテントを移動したのだろうか。きっと彼は、雪男を見たのだ。(---) 私はそう信じたかった。」

(『たった一人の30年戦争』東京新聞:1995)



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