ネットを「公」と思うなら書く事なんていずれはなくなるさとは思うよ。はっきり言って、ブログを一年以上続けられた人は偉い。よく書き続けたと誉めてあげたい。俺には無理だ。
俺のやってるコレは「独り言」でブツブツしている。こんなもんなら二三百年だって平気で続けられる。俺のやってる事は単なる己の個人情報(有害物質)の垂れ流しで規制もクソもない。クソそのものだ。
自分の流す情報に規制を設け、その範囲内で個人情報の操作を行いながら意見を発表する事を「対話」と言うのなら、正にそれって「対話」だなと思う。それに対して「フルチン」は、あくまで「独り言」なのだ。
パンツを脱いだ時点でそれは「個」となる。「フルチン」を世界発表しても「対話」はできない。だが、「表現」はパンツをはいているはいていないにかかわらず、人目に触れた時点で「表現」となりうる。「表現」に「対話」は必要だが、不可欠な物ではない。
己の肉体そのものがすでに「表現」なのだ。ロビンソン・クルーソーののろしの跡さえ表現だ。存在そのものが「表現」であり、表現者の意識、無意識にかかわらずそこにいて、誰かに見られる可能性そのものが「表現」なのである。
表現の主体は常に受け手にある。だからこそ、表現者は愛されねばいけないのだ。愛される為の「対話」なら必要だと思う。
俺のやってるコレは「独り言」でブツブツしている。こんなもんなら二三百年だって平気で続けられる。俺のやってる事は単なる己の個人情報(有害物質)の垂れ流しで規制もクソもない。クソそのものだ。
自分の流す情報に規制を設け、その範囲内で個人情報の操作を行いながら意見を発表する事を「対話」と言うのなら、正にそれって「対話」だなと思う。それに対して「フルチン」は、あくまで「独り言」なのだ。
パンツを脱いだ時点でそれは「個」となる。「フルチン」を世界発表しても「対話」はできない。だが、「表現」はパンツをはいているはいていないにかかわらず、人目に触れた時点で「表現」となりうる。「表現」に「対話」は必要だが、不可欠な物ではない。
己の肉体そのものがすでに「表現」なのだ。ロビンソン・クルーソーののろしの跡さえ表現だ。存在そのものが「表現」であり、表現者の意識、無意識にかかわらずそこにいて、誰かに見られる可能性そのものが「表現」なのである。
表現の主体は常に受け手にある。だからこそ、表現者は愛されねばいけないのだ。愛される為の「対話」なら必要だと思う。
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