宮 康平という人を知っているだろうか
「まぼろしの邪馬台国」という本を書いて有名になった人
まぁでも僕はさだまさしのトーク集から知っただけだが・・
宮崎という名前だが長崎・島原の人だ
島原鉄道の重役だった彼は、戦後天皇陛下のご行幸、各地を訪れてる折
是非とも島原にもおいでいただきたい一心で自分のところの鉄道のレールの幅を御召列車の車輪の幅にするために基礎からの大工事を決行して、大きな犠牲を払いながらその大望を果たした
それはそれは苦労の連続でそのために彼は目の病気を患うことになり
ついに失明をしてしまった
それでも陛下がおいでになるその時にはなにがなんでもそのご案内をしたくて
列車の中で風景の移り変わりを電車の揺れによってその位置を推測しながら
立派にその役目を果たしたという
陛下は彼の目が見えない事には少しもお気づきにならず
最後にお別れしたその後に御付きの人から今の案内をした人は実はこの度のご行幸のために苦労をされて失明をされたのです
とお聞きになられた
陛下はつかつかと宮崎の許に戻られて彼の手を握られ
「お疲れ様でした。ありがとう」 とおっしゃられた
その陛下のメガネの反射光が一瞬だけ彼の最後の記憶の光となってずっと後々まで残っていたという
目を患ってほどなくして、彼の奥さんは家を出た
なんとまだ小さな乳のみ子を残して
その子をあやすためにできたのが 島原の子守歌
山崎ハコ 島原地方の子守歌 /198
おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
梨の木 育ちよ
何の なしやら 何の なしやら
色気なしばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
鬼(おん)の池ん久助どんの 連れんこらるばい
帰りにゃ 寄っちょくれんか 帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家じゃけんど
唐芋飯(といもめし)しゃ 粟ん飯 唐芋飯しゃ 粟ん飯
黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
おろろん おろろん おろろんばい
おろろん おろろん おろろんばい
私は島原の 私は島原の
梨の木のある家で育った
何の梨だろう・・・何の梨だろう・・・
色気も何も無しですよ そうですか
早く寝なさい 泣かないで おろろんばい
鬼池の久助さんが 連れに来ますよ
帰りには寄ってもらえませんか 帰りには寄ってもらえませんか
(貧しい)あばら家ですけど
薩摩芋のご飯や粟ご飯 薩摩芋のご飯や粟ご飯
(白米ではありませんが)黄金色したご飯ですよ そうですか
おろろんおろろん おろろんばい
おろろんおろろん おろろんばい
http://matiere.at.webry.info/200811/article_2.html より
宮崎康平の弟子の位置にいた人が二人いたという
そのうちの一人が鐘ヶ江管一
この人は島原市長の時に雲仙普賢岳の大土石流が起き、ヒゲの市長として大活躍もし大きな苦労もされた
そしてもうひとりがさだの父親その人だったという
いつも宮崎が言ってた言葉が
「貧の友は真の友」
小さいころから宮崎の元を訪れていたさだにとっても忘れられない言葉だという
鐘ヶ江氏とさだの父親がその役を成す
さだ少年のバイオリン奏者としての挫折を残念がった宮崎はグレープとしての彼の歌を聞いてみたいと言った
「さださん、おもしろかぁ。やらせてみましょう」と父親に対して頼もしい後押しをくれた
彼は「精霊流しを題材に曲を作ってみないか?」 というヒントもくれたのだとか
いかん、もう1時を過ぎてしまった・・・
焦っとる
今日は書かないつもりだったのになぁ・・・
大体書きたいことを考えずに始めるからこうなるんよ
ネタのない時はYouTube。 これも考え直さないといかんかも
いつも応援してくれてた宮崎康平が亡くなる直前
「まあぼー いい曲を書いたなぁ」
「もう俺を超えたかもしれん」 と言って褒めてくれた
「でもなぁ、これ以上詞を難しくするな。聞き手がついて来れん」
奈良・大和路 「まほろば」さだまさし
いろんな世界で、あちこちで、バトンが手渡されてゆく
「まぼろしの邪馬台国」という本を書いて有名になった人
まぁでも僕はさだまさしのトーク集から知っただけだが・・
宮崎という名前だが長崎・島原の人だ
島原鉄道の重役だった彼は、戦後天皇陛下のご行幸、各地を訪れてる折
是非とも島原にもおいでいただきたい一心で自分のところの鉄道のレールの幅を御召列車の車輪の幅にするために基礎からの大工事を決行して、大きな犠牲を払いながらその大望を果たした
それはそれは苦労の連続でそのために彼は目の病気を患うことになり
ついに失明をしてしまった
それでも陛下がおいでになるその時にはなにがなんでもそのご案内をしたくて
列車の中で風景の移り変わりを電車の揺れによってその位置を推測しながら
立派にその役目を果たしたという
陛下は彼の目が見えない事には少しもお気づきにならず
最後にお別れしたその後に御付きの人から今の案内をした人は実はこの度のご行幸のために苦労をされて失明をされたのです
とお聞きになられた
陛下はつかつかと宮崎の許に戻られて彼の手を握られ
「お疲れ様でした。ありがとう」 とおっしゃられた
その陛下のメガネの反射光が一瞬だけ彼の最後の記憶の光となってずっと後々まで残っていたという
目を患ってほどなくして、彼の奥さんは家を出た
なんとまだ小さな乳のみ子を残して
その子をあやすためにできたのが 島原の子守歌
山崎ハコ 島原地方の子守歌 /198
おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
梨の木 育ちよ
何の なしやら 何の なしやら
色気なしばよ しょうかいな
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
鬼(おん)の池ん久助どんの 連れんこらるばい
帰りにゃ 寄っちょくれんか 帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家じゃけんど
唐芋飯(といもめし)しゃ 粟ん飯 唐芋飯しゃ 粟ん飯
黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
おろろん おろろん おろろんばい
おろろん おろろん おろろんばい
私は島原の 私は島原の
梨の木のある家で育った
何の梨だろう・・・何の梨だろう・・・
色気も何も無しですよ そうですか
早く寝なさい 泣かないで おろろんばい
鬼池の久助さんが 連れに来ますよ
帰りには寄ってもらえませんか 帰りには寄ってもらえませんか
(貧しい)あばら家ですけど
薩摩芋のご飯や粟ご飯 薩摩芋のご飯や粟ご飯
(白米ではありませんが)黄金色したご飯ですよ そうですか
おろろんおろろん おろろんばい
おろろんおろろん おろろんばい
http://matiere.at.webry.info/200811/article_2.html より
宮崎康平の弟子の位置にいた人が二人いたという
そのうちの一人が鐘ヶ江管一
この人は島原市長の時に雲仙普賢岳の大土石流が起き、ヒゲの市長として大活躍もし大きな苦労もされた
そしてもうひとりがさだの父親その人だったという
いつも宮崎が言ってた言葉が
「貧の友は真の友」
小さいころから宮崎の元を訪れていたさだにとっても忘れられない言葉だという
鐘ヶ江氏とさだの父親がその役を成す
さだ少年のバイオリン奏者としての挫折を残念がった宮崎はグレープとしての彼の歌を聞いてみたいと言った
「さださん、おもしろかぁ。やらせてみましょう」と父親に対して頼もしい後押しをくれた
彼は「精霊流しを題材に曲を作ってみないか?」 というヒントもくれたのだとか
いかん、もう1時を過ぎてしまった・・・
焦っとる
今日は書かないつもりだったのになぁ・・・
大体書きたいことを考えずに始めるからこうなるんよ
ネタのない時はYouTube。 これも考え直さないといかんかも
いつも応援してくれてた宮崎康平が亡くなる直前
「まあぼー いい曲を書いたなぁ」
「もう俺を超えたかもしれん」 と言って褒めてくれた
「でもなぁ、これ以上詞を難しくするな。聞き手がついて来れん」
奈良・大和路 「まほろば」さだまさし
いろんな世界で、あちこちで、バトンが手渡されてゆく
ご無沙汰しています
山崎ハコさんの島原地方の子守歌 心に染みます
遠い遠い昔、「京都南座で山崎ハコのコンサートが12月31日深夜にあるから行こうか。」って誘われた事あったなぁ
誘ってくれたあの人どうされてるかなぁもうええオッサンなんでしょうね。
にころこさんのサンタさん企画、オヤジさんの選ばれてプレゼント、どんなんかなぁって楽しみにしています。
職人さん早くよくなられるといいですね。
黒いスニーカーとってもかっこいいですね
加齢による睡眠障害かなぁのみるここでした。
おやすみです。
忘れられたら困るからチョット顔出ししとこ
そういえば、なんで参加しなかったの?
十分参加資格あるのに
僕は選ぶの苦手だから本当はパスが妥当なんじゃないかと思ってたんだけどね
僕のはチー助んとこへ行きます
今回はブログアップが一つの条件だからそれもまたハードルの高さを感じちゃってるんです
山崎ハコは何となく怖い感じしない?
彼女の雰囲気”怨”(笑)
でもそれがまたいいのかもね
この歌の雰囲気なかなかいいでしょ?
これができた背景にはそんな事情があったらしいのです
さだまさしのトークはいろいろYouTubeにアップされてるけど僕の聞いてるやつは一つもアップされてないんだ
妖怪かっ飛びじじい とかね面白いよ
あっ これそのままアップしてる人がいた
http://www.geocities.jp/nisisaka1985_2003/sada/hanashikasyuu/travel4.htm
すごい、話してることばそのまま文字にしてるわ
僕のこの話も探せば話そのままのがあるかも
スニーカー ありがとね
EDWINです