木工挽物という仕事

基本的には時代遅れの仕事
正反対の位置にいるブログから発信してみます
でもブログも先端じゃなくなりましたね

次は君の番

2018-01-25 00:03:40 | 社会

韓国のことを書くのも気が進まないから読みたくないかもしれませんね
全然OKです
僕がこれから書くことはもう広く知られていることでいまさら言うことでもありません
でも、敢えて言いますがただの慰安婦だった人たちにどれほど頭を下げればいいのか
慰安婦と言っても今から思えば想像を絶するような報酬をもらってた人間に対して
僕はもう十分謝罪は済んでると思う
この人たちは、日本のためになったこと自体は認めるけれど、言ってみればただの売春婦だと思う
その人を擁護しようとするならば、今現在世界に散らばっているその商売をしている女性たちを韓国は何故助けないのか
何処が違うというのか、いま世界中の韓国人売春婦を助けろ



それよりそれを棚に上げて世界中に慰安婦像を建てて日本を責め続ける
日本は性奴隷など全く関与していない どころか実際にそれをやってたのは
朝鮮戦争時代の韓国そのものではないか
ドラム缶に強制連行してきた韓国人女性を詰め込んでアメリカ人兵士のための慰安所に送り続けたのは実は韓国自身なのだ
その証拠はいくつもあるのにそれ自身もあたかも大東亜戦争時代の日本軍がやったような形にして少女像を作る
全く信じられない


それにも増して韓国自身はまだベトナムでの蛮行を一切謝罪をしていない
ライダイハンは韓国兵士がベトナム戦争時に地元の女性を強姦した結果生まれた子供たち
数1000人とも3万人とも言われている


ロシアもそうだが地元の女は戦利品という鬼の国
北の国では日本人女性もその被害に遭ったと聞きます
当時の韓国もその通りだったようで、あれだけ日本は諸外国を侵略したと言われながら
そういった蛮行を犯せば厳罰が下ったという
だから慰安所があったことはある意味地元の女性にとって悪いことではなかったのです


自分のことは棚に上げていつまでも日本を責め続ける
恥を知れ と思う。



時々見るブログに載っていた記事を転載したいと思います


Vietnamese rape survivor demands justice




私は60歳。現在ベトナムのザライ省で暮らしているわ。当時、韓国軍がベトナム戦争でここベトナムにやってきたとき、私はビンディン省に住んでいたわ。

ビンディン省では、ごみ捨て場の近くに住んでいて、私の家族は、小さなお店でココナッツやバナナ、飲み物などを売って生活していたの。

韓国軍の拠点は、私の家から近く、韓国軍がそのゴミ捨て場にごみを捨てに来るとき、私のお店に飲み物を買いに立ち寄ったわ。

そう、韓国軍の拠点はフーカットという場所にあったの。現在そこにはフーカット空港があるわ。

韓国軍はフーカットの拠点をトラ事業部(Tiger division)というような呼び方をしていたわ。

韓国軍が私のお店にやってきたとき私は14歳とか15歳くらいだった。で、私は母がその韓国兵士にレイプされるところを見たの。

それがキッカケで、母と父の仲は悪くなり、父は結局、母を捨てたわ。

母にレイプした韓国兵士も、すでに韓国は帰ってしまってね。1969年に私に弟ができてしまったわ。そう、そのレイプによってできた赤ちゃんよ。

その後、私もレイプをされたわ。あのころとても若くて何もわからなかった。いつものように韓国軍の兵士が私のお店にやってきて、そのときちょうど母がどこかに行ってしまっていたの。おそらく市場に買い物に行っていた時だったと思うけれど。

で、私はその兵士に部屋まで連れていかれたわ。で、彼は私をレイプして、それ以降私の目の前に現れることはもうなかったわ。

あの頃の私はあまりに幼すぎて、どうやって彼を探したらいいのか、どうやって彼を訴えたらいいのか、誰にこの問題に対して相談すればいいのか全く分からなかった。だから、運命だと自分に言い聞かせたの。戦時中のことだったし、真実を受け入れざるを得なかった。

だから過去を振り返ったりしないようにしていたわ。けどね、今になったら、もう怒りという言葉しかでてこないの。

その兵士が私の人生を惨めなものにしたし、私はそれで赤ちゃんまでできてしまった。

私の赤ちゃんをみて、多くの人たちが聞いてきたわ。アンタ、韓国人と結婚したの?って。もちろん私がレイプされたなんて誰も知らない。ずっと隠してきたから。

で、1975年に南北ベトナムが統一されたわ。そして、私の母はその年の8月に死んでしまった。喘息でね。当時、薬を買うお金もなく、死んでしまったの。しかも、戦時中、薬剤師は逃げてしまっていたし、もちろんそのせいで薬局も営業していなかったの。


母が亡くなってから私は、自分の兄弟(母がレイプされたときにできた子ども)と、私と韓国軍の兵士との間にできてしまった息子を育てなければならなかった。だから、すぐに他の男性と結婚したわ。

けど、その男性は、お前の子どもは、俺の子どもじゃない。と言って、私や息子を殴る蹴るなどをしてきたわ。

ってことで、私は子どもたちとザライ省に逃げてきたってわけ。

息子も、母が生んだ私の弟も連れてね。だって、私がいなかったら彼(母が生んだ弟)はどうやって生きていくっていうの?

ザライ省に逃げてきて、当初、住む家もなかった。だから市場に行ってそこで暮らすしかなかったの。10日間くらいはそうやって暮らしてたわ。で、ある人が、私たちを彼らの小屋に拾ってくれたの。そこで働くことになったわ。それこそ、竹でできたような家だったけどね。

数十年はそこで暮らしてたわ。ベトナム政府が私たちに土地を供給してくれるまではね。

そもそも、ザライ省にきたとき私たちは誰も知り合いがいなかったの。

キャッサバや米を収穫している人たちについていったりもした。そうすれば、落ちている米やキャッサバを食べて生きていけると思ったからね。

それから10日後くらいに、彼らは私たちの存在に気づいて、雇ってくれたわ。数カ月後、お金を貯めてフライパンを買って、フライバナナを売ることにしたの。

これが私の惨めな人生よ。

だから、私は謝罪を求めているの。私の人生を惨めにしたあの出来事にね。韓国軍は14歳、15歳という何もわからない私の人生を台無しにしたんだから。







次に責めを負うべき国は韓国だ。 と思いませんか?

コメント
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