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スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

江戸東京たてもの園その16

2017-08-10 23:50:01 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
お次はちょっと建物から離れて。ボンネットバスである。
このバスは「TS11」というタイプで、4輪駆動のバスである。「東京都営」と車体に書かれているが、実はこれは映画撮影用に塗られたもの。元は富士急行で使われていた車体だという。4輪駆動のため、山間部の輸送などに全国で活躍した。自衛隊でも同型のトラックを使用している。
Wikipedia「いすゞ・TS/TW」
右下写真のマークにも注目されたい。現在はいすゞ自動車はローマ字表記のマークであるが、1974年までは写真のようなひらがなのマークだったのである。どことなく懐かしさを感じさせる。
Wikipedia「いすゞ自動車」


江戸東京たてもの園その15

2017-08-10 23:13:27 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
お次は農家。「八王子千人同心組頭の家」である。千人同心と言われても何のことやら、今の若い人はピンとこないであろう。
無敵を誇った戦国武将・武田信玄であるが、その息子・勝頼の代で甲斐の武田家は滅亡に至る。残された武田氏の下級武士は徳川家に召し抱えられ、江戸を守る交通の要衝・八王子に配置された。もともと「滅ぼされた武将の家来」であった彼らであり、苗字や帯刀は必ずしも自由には許されていなかったようである。普段の仕事は農業で、下写真は水浴場。農作業の後、たらいの水を体にかけて土埃を取った。
太平の世が続くと今度は日光の警備の仕事をあてられた。千人同心は百人の隊が十組あったために「千人」同心な訳であるが、その十組が順番に交代で日光をずっと警備したのである。往復回数は江戸時代を通じて千回を超えたという。八王子から栃木県まで歩いて往復することを想像して頂きたい。その役が定期的に回ってくるのである。
Wikipedia「八王子千人同心」
そして幕末には更なる「無茶ぶり」がやってくる。ロシアの脅威に備えて北方警備を命じられたのだ。北海道の勇払(ゆうふつ)に集団で移住した彼らは想像を絶する自然環境の中、開拓にあたった。勇払には今でも墓地が残る。彼らの労苦はやがてその隣の街、苫小牧市の発展の礎となっていった。


江戸東京たてもの園その14

2017-08-10 22:56:00 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
お次はこちら。常盤台写真場である。これは設計者の名前すら伝わっておらぬ。1937年竣工であり、戦前に全国の住宅地のどこにでもあった写真スタジオの一つなのだろう。常盤台とは東京都板橋区常盤台で、当時東武鉄道が新しく開発した住宅街であった。
今でも家族に着物を着せて記念撮影をさせる写真スタジオは多いが、当時はデジカメもカラープリンターもなく、カメラそのものも今より貴重品であった。記念撮影の需要ももっと高かった。若者が写真の技術を覚えてスタジオを構えて独り立ち、という話は戦前の小説に時々出てくる。下左写真がスタジオで、大きな窓から明るい光が降り注ぐ。いったい何人の人がこの椅子に座って写真を撮ったのであろうか。どんな表情でどんな写真を撮ったのだろう、そしてその後どうなって行ったのだろう。
Wikipedia「ときわ台駅 (東京都)」


江戸東京たてもの園その13

2017-08-10 22:34:07 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
デ・ラランデが亡くなって以降、数回の変遷を経てこの家は三島海雲の自宅となった。三島海雲はカルピスの創業者である。
Wikipedia「三島海雲」
元々お寺の住職の息子さんで、ご本人も仏教系の学校を卒業している。それがモンゴルで体調を崩した時に現地の酸乳を飲んで回復した経験をきっかけに乳酸菌飲料の開発に没頭することになる。カルピスも「カルシウム」とサンスクリット語で「熟酥(じゅくそ)」を意味する「サルピス」をかけ合わせた造語なのである。
家の一階は「武蔵野茶房」と名付けられた喫茶店で、御多分にもれずカルピスが飲める。若干お値段は張るが、やはりここは飲んでおきたい。という訳で上写真の様に飲んでみました。デ・ラランデ邸で飲んだカルピスである。体にピース。



江戸東京たてもの園その11

2017-08-10 00:39:52 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
本当はこの次は「小出邸」であるが、あまり印象に残らず。なのでその次の「デ・ラランデ邸」を紹介したい。
Wikipedia「デ・ラランデ邸」
ドイツ人の著名な建築家、ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande)がリノベーションして住んでいた家である。デ・ラランデは明治時代に活躍したドイツ人建築家で、現在も神戸に残る「風見鶏の館」などが代表的な作品である。全国に多くの建築を残したが、鬱病もあって41歳という若さで東京で客死してしまう。そして残されたエディータ(Editha Giesecke)未亡人がのちに外務大臣となる東郷茂徳と再婚するのであるが、その話はまた別の機会に。
Wikipedia「神戸市風見鶏の館」
Wikipedia「東郷茂徳」
この建物が現在、江戸東京たてもの園に最も最近に搬入された建物である。2013年に移築された。下写真の如く、建物の後部にはエレベーターもつけられている。


江戸東京たてもの園その10

2017-08-08 23:58:27 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
竣工なった自邸であるが、やがて戦火は激しくなっていく一方、ついには銀座にあった前川國男の設計事務所は空襲で焼失してしまった。1945年以降、この建物が前川國男夫妻の自邸兼設計事務所となる。若い建築家が出入りして仕事に打ち込んだ。下写真の一番右写真をご覧あれ。今でもこの家の柱にはメモをした紙を柱にピンで留めた跡がいくつも残っているのである。夏場はみな上半身裸で仕事に打ち込んでいたそうだが、当時の熱気が僅かに残照の様に感じられる。なお、丹下健三は彼の教え子の一人である。
江戸川橋周辺その10
江戸川橋周辺その11
上写真は書斎。ここも居心地が良さそうな場所である。この部屋は広い上に洗面台も据え付けられており、来客が泊まる時にはここを使える様にしてあった。しかし自宅がこの状態とは、奥様も大変であったことと推察される。


江戸東京たてもの園その9

2017-08-08 23:52:03 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
玄関は通りから見て裏側であるので、回り込んで家の中に入ることになる。実際にはこの家の「その8」で出した写真の面は高台の上に位置していたそうで、リビングからは広い景色が見渡せたのだという。
ひとまずは写真を並べてみる。下手くそな写真しか撮れなかったのであまり偉そうなことは言えないが、「恰好良さ」の雰囲気だけでも感じて頂ければ幸いである。


江戸東京たてもの園その8

2017-08-08 23:41:47 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
次が前川國男邸である。個人的にはこの建物が園内でいち押しである。是非一度ご覧あれ。現在でも建築を学ぶ学生がスケッチにしばしば来るらしい。
前川國男について。日本を代表する建築家の一人である。若いころに渡仏してル・コルビュジェに師事、帰国後に多くの仕事を残した。有名どころでは東京文化会館、神奈川県立音楽堂などであるが、先に訪れた福岡市美術館や新宿の紀伊国屋書店なども彼の作品である。
福岡その9
紀伊茶屋
竣工が1942年であるから、既に戦時中であった。本来はコンクリートを使った建築手法が彼の持ち味であったが、戦時中で建築資材に制約があり、木造の建築となった。しかしそのデザインの良さは抜きんでている。現在でも「この家が前川國男の最高傑作」という人は少なくないようである(本人はそう思っていなかったようだが)。自分もこの家を見て強い印象を受けた。なんと言っても一言「格好いい」のである。稚拙な表現かもしれないが、この言葉が一番しっくり来る。
Wikipedia「前川國男」

江戸東京たてもの園その7

2017-08-08 23:12:10 | 日本国内旅行(江戸東京たてもの園2017)
家の中の調度も味があってよい。そのまま現在でも売り出せそうな家具も多い。台所のレンジだけはちょっと無理かも知れないが。上写真は電話であるが、「となりのトトロ」でサツキが父親にかけていた電話を思い出す。この当時では珍しくトイレも水洗であった。
当時を知る人から「大正時代というのは、ゆったりとして本当にいい時代であった」と聞いた事がある。その片鱗が家の中から感じられるように思う。