勉強とか学習とか言われるモノって、どうもここ数年で急速に『脳』を使ってするモノだ、みたいな風潮というか流れというか、そういう方向に行きつつあるように感じる。
基本的に学習というのは、『身につけるモノ』だと個人的には思っている。
がっこの“おべんきょう”を暗記するとか、“知識を吸収する”とかではなくて、何度も何度も反復練習をして、身体に刷り込ますことが『学習』ではないのかな?
ヒトって色んな体験や経験から、様々なコトを吸収すると思う。
もちろん『頭』も使うのだが、『頭』も『脳』も身体の一部であり、全身を使って感じ取ることが『身につける』ということだと思う。
『身につけた』モノは『型』になる。
それは、『思考』や『観念』や『しすてむ』ではなく、自分自身の『所作』であったり『作法』であったり『やり方』であったり、ワタシという個体を形作る『型』である。
『型にはまった』とか『型破り』とかという方向に関しては、この記事ではちょっと余所に置いておくとして、身体に染み込ますように『身につける』コトというのは大切なことだと思う。
ヒトとして『道』を歩むというのは、『型』を身につけること。
それは誰のためでもなく、自分自身のため。
そこからジワジワと、他者の視点も変化する。
日本で『○○道』と呼ばれるモノにはだいたい『型』がある。
それは古来から受け継がれてきたモノでもあり、また自分自身が自分流に考え、感じ、学習するものでもある。
“TPO”とかいう、いんぐりっしゅはワタシ個人の嗜好的にあまり好きな言葉ではないのだが、その時、その場、目的、に応じて自分自身の所作、身なり、礼儀、作法、配慮、心情、行動、言動。そういうものを自分流の『型』として、身体で覚えることっってとっても重要なコトだと思う。
理論や知識や思考の中でグルグルしているのではなく、体感し、考え、対処する、その流れを自分流で、自分なりの方法で模索し体得した時、それは『型』になり、『身体に浸透する』のではないのかな?
『身につける』ことは、地味でもあり、地道なことでもあるとだろう。
当然ヒトに合わせるということも、ヒトの意を汲むということも、『身につける』ということの一部に入る。そういうものは無理矢理というのではなく、自分の『型』に反映させるという意味において『学習するモノ』だと。
そういうことを地道に実践していくことが、生きていくということの様な気がしている。
ワタシは『考える』ことも大好きだが、そういうことばかりに目を向けるのではなく、『全身で感じ』、『身体で覚える』ということが重要だなあ、と思っている。
普段の学習のみならず、生活の様々な場面。わたし自身は剣道と水泳を長いことしていたことで身につけました。我が子達は、バレエで得ることが多いです。一つの型が完璧に出来ないと次には進めませんしね。それが解ると、生活における全ての場面でも、そうなんだ!ということが、3歳児の時点でも理解できましたよん。先は長いですが(苦笑)。
こんばんは。
ワタシ自身のこととして、いやあ、重要だよなあ、と。まあ遅いよ、と突っこまれてもありだな。
『生活における場面で応用するために習得すること』、ってかなり多いよなーってね。
先は長いですね、ほんと。