今のワタシには、ほとんどない。
譲れないことって、人生においてまあ滅多にないよな、という意味で。
相手のあることに対して、自分自身がどうしても『譲れない』と、ふとその場で思うことはあっても、少し間をおくと、それほど『譲れない』モノではなかったりする。
よくよく考えると、『譲れない』モノに理由を付けているのは、自分の意識であることに気付くと、『譲れない』モノは大概なくなる。
って書いちゃうと、え”----。
そんなアホな。
となるような気がするのだが、ある時間軸においてワタシが意識した(感じたって書いちゃうのかな?)『譲れない』は、時間と共に風化する。
ワタシはあえて主張しなくてもいいのではないか、というラインに一度立ってみることもありだな、と最近思っている。
んなこと言ってたら、なーんも言えないやん。
そりゃそうだ。
ま、それもありかな、という程度で。
最近、そう思えるようになってきました(笑)
こんばんは。
それもありだよなー、っていいですよね。
なんか発見が多いんですよね。
もちろんplutoさんもそれは分かっている上でのご発言であることは重々承知の上で
他人にとってくだらない事でも、やはり自分にとって本当に大切な事であれば、それを守らなければならなかった事を痛切に感じるpermanなのでした。失ってみて分かるのです。
何が本当に大切なのか、難しいですね。ていうか、正解はないのでしょうね。
しかし、他人にとってどうでもいいことの積み重ねが「個人」を作っているような気がするようなしないような。
他人とは「違う」事が「個人」であるならば。
こんばんは。
『何が大切か』っていうのは、仰るとおりとっても重要でしょうね。ワタシもたぶんですが、過去に自分にとって大切なモノを失っているんだろうなと(他人にとって、世間にとって、社会にとってどうでもいいことでしょうけどね。
全てにおいてでなければいいのかな?と。
そういうところが中庸っていうのかなあ、と最近感じます。
他人がどう思うかは別モンダイとして、どうでもいいことの積み重ねは、個人的には好きですね。
他人と「違う」こと≠「個人」だと個人的には思うのですが、そう思われることもありだと思います。
また気が向いたらいらして下さい。