道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

「英語は小学校から必修にすべきだと思いますか?」

2006-05-23 00:53:12 | 言葉
先日、とある新聞社が、小学校での英語教育についてアンケートを行ったのだが、
その結果は、半数が小学校における英語必修化に反対であった。
そして、その反対者の大多数が「国語がおろそかになる」という理由であった。

これはおかしい。
英語教育の結果、何故国語がおろそかになるのであろうか。

まず、学習時間ではあるまい。
現時点での文科省の案では、総合学習の時間の一部を割り当てるというものであり、
国語の時間を削って英語にするというわけではない。
そのうち、英語学習の時間がなし崩しで増えて、
総合学習以外の時間にも割りこむかもしれないが、
それなら、「算数教育が云々」「社会科教育が云々」という意見でも良いはずである。

「最近の日本語の乱れ」を指摘する人もいるが、
早期の英語教育開始により、日本語の文法と英語の文法がごちゃまぜになるわけではあるまい。
ありえるとすれば、英語を学ぶことで、カタカナ語が増えることである。
しかし、「リスペクトする」「ソリューションを提供する」などの言葉は、
教育の影響よりは、テレビなどのメディアによる影響の方が強いであろう。
むしろ、英語教育によって、「テンション」「モチベーション」などの本来の意味を知り、
誤用されがちなカタカナ語の修正にだってつながるのではなかろうか。

「日本人の感性や情緒が育たない」というものもあるが、
それはまさに国語教育・社会科教育のやり方の問題であり、
あるいは家庭や地域での育て方の問題である。
英語は関係ない。
少し英語を習った程度で失われるほど、
「日本人らしさ」とは純粋培養されなくてはならないものであろうか。
「敵国の言葉は使わないこと」としていた戦時中を例に出すまでもなく、
ばかばかしく、かつ危険な発想である。

むしろ、英語や英語圏の文化を知ることで、
日本語や日本文化について見えてくることもあるはずである。
『孫子』に「彼を知り、己を知れば、百戦殆からず」とあるが、
「彼を知る」が「己を知る」より先に来るのは意味があるだろう。


ここまで、英語教育賛成派のように論じて来たが、
実は私自身は、小学校で英語教育を始めることについては、懐疑的である。
というのは、すでに小学校で英語が必修化されている中国の学生と話したりしても、
日本の学生以上にできるという印象は受けなかったからである。
もちろん、中にはぺらぺらなのも多いが、
日本の学生だって、英語ぺらぺらな人くらい、たくさんいる。
いわゆる今のような英語教育であれば、
小学校から始めようが中学校から始めようが、日本の国際化、という観点からすれば、
たいして変わらない。

先日のブログで述べた通り、外国語を学ぶ上でもっとも大切なことは、
分からないことがあったら、相手にとことん訊くことである。
そのためにも、相手と自分が全然違うことを知り、
かつそこで諦めずに、スマートではなくても、
何とか理解し合おうと色々頑張ることを覚え、
そして、分かり合えた時の嬉しさを体験することが必要である。

もちろん、文科省の方針は、建前としてはそれを踏まえたものであろう。
だから、総合学習の時間で、「国際的に云々」という文句を掲げて実施しようとしている。

しかし、私が思うに、小学校では「英語」ではなく、
「異文化コミュニケーション」であるべきだと思う。
日本語が分からない(もしくは分からないフリをしている)先生と、
生徒が必死でコミュニケーションしながら一緒に遊ぶというものである。
言葉なんて必要に応じて覚えて行けば良いし、文法はどうせ中学で習う。
大切なのは、「言葉が通じない人がいる」ということを身をもって知り、
「それでもがんばればちゃんと分かりあえる」ということを体験することである。


今の英語教育推進論者を見ていると、
小さい時に発音を云々だとか、中学校より前に始めないと不十分だとか、
英語へのコンプレックスから来ているような論が多い。
むしろ、私だって、英語にはコンプレックスがある。

しかし、こうした「いい発音」「ちゃんとした英語」への強すぎる意識が、
会話練習においては、むしろ英語の上達を妨げているのだと思う。
言語が話せるようになるために一番大切なのは、
発音が下手だろうが文法が滅茶苦茶だろうが、
それでも構わず話すことである。
そして、恥ずかしがらずに、分からないことを訊くことである。

そのためには、英語教育だけではなく、他の授業も変わる必要がある。
分からないところがあっても質問しにくい雰囲気、
間違っていそうだから自分の考えを言わないでおく雰囲気、
こうした雰囲気に慣れてしまっては、積極的な国際人になるのに苦労する。


しかし、この「周りの空気読んで発言を控える」というのは、
日本人の感性や情緒とも言える。
そう考えると、この雰囲気を変えることが必要だという私の主張は、
「英語教育は、日本人の感性や情緒が育たなくなる」という主張に一理与えているのかもしれない。。
うーん。。