道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

お祭り気分

2006-05-06 20:42:39 | 旬事
昨日、友人を連れてくらやみ祭りへ行ってきた。

くらやみ祭りとは、府中の大國魂神社の例大祭のことである。
この神社は、かつて総社として武蔵国の神社を統括していたため、
今でも例大祭(各神社が一年に一度行う、最も重要とされる祭祀)の際には
小野神社や氷川神社、秩父神社など関東の六つの神社から神輿がやって来て、
合計八基の神輿と六張の大太鼓が登場する大掛かりな祭りとなる。

現在では夕方の明るいうちに神輿が練り歩くようになったが、
かつては周り中の家が灯りを消し、暗闇の中で行われたため「くらやみ祭り」と呼ばれる。

友人はロシアから日本に来たばかりなので、神輿や太鼓を見たり、
何より縁日の気分を味わって欲しいと思い、この祭りに誘ったのだが、

大成功。

というよりも、成功しすぎてしまった。。


昼過ぎに神社に到着し、一通り境内を見て回った後、6時からの神輿渡御にはまだ時間があったので、
屋台の間にある休憩スペースでちょっとビールを飲んでいた。
すると、たまたま近くにいた一家と仲良くなり、日本酒をおごってもらったのだが、
旦那さんの仕事仲間もどんどん集まって来て、十数人で大宴会。

お祭りということもあったし、友人がロシア人で少し珍しかったというのもあるが、
競馬場の改修工事をしているという土方仲間の方々は、
ノリもキップも良くて、非常に爽やかな人たちであった。

思いもかけず、私にとっても貴重な経験となったが、
そこですっかり酔わされてしまった友人、
肝心の神輿渡御を人混みの中で見ていられず、仕方ないので帰ることに。

帰る途中では屋台で焼きそば焼いているじいさんにツーショットをお願いし、
ケバブ売りのトルコ人の人たちとも写真を撮り、
神輿担ぎの服装してる人を見るたびに話しかけて、
写真だけでなくお酒やタバコもごちそうになり、腕相撲で盛り上がり、
しまいには、コンビニの店員や、コンビニの前にいた女の子たちとも記念写真。


非常に楽しいお祭りであった。
友人は記憶があるか分からないが、おもしろい写真がたくさん撮れたので、
とても貴重な体験としてアルバムに残ることだろう。

市役所下

2006-05-06 19:52:23 | 言葉
国立民俗歴史博物館の企画展を見に、佐倉へ行った。

天気は非常に良く、歩いて移動し、
歴博の他にも、その周りの城址公園やきのこ園にも寄って、
ゆっくり観光を楽しんだ。

ところで、きのこ園から歴博まで行く道中で、市役所の側の坂を下り、
下りきったところの信号に、「市役所下」という表示が取り付けてあったのだが、
その英訳表示が、"City Office Shita"。

完全に振り仮名として、"Shiyakusho shita"ならまだ分かるが、
「市役所」は英語で"City Office"としているのに、"Shita"って。。
……"Under"を使う方法はなかったのであろうか。。

過ちては……

2006-05-05 22:32:47 | 音楽
よくよく考えてみれば、バロック音楽の中にも、主観的視点による作品がある。
すなわち、バッハの、チェロやヴァイオリンなどの無伴奏ものである。
ロマン派のソナタのような、視点が前進し、広がるという感覚はないが、
自己の視点を定め、それを深め、もしくは高めるという感覚がある。

言い切ったそばから自ら例外を発見してしまったが、
まぁ、何事にも例外は付きものである。

独断と偏見による音楽論

2006-05-05 00:17:37 | 音楽
私がもっとも好きなのは、クラシック音楽の中でも、バロックである。
そして、特にバッハが最も好きである。

とは言っても、ロマン派の音楽も聴くことはある。
今もブラームスを聴いている。

ブラームス、スメタナ、シベリウスといったロマン派について思うのは、
聴いていると何となく、自然の情景を思い浮かべることがある。
ある時は荒野、ある時は大河、またある時は凍てついた氷の世界。

バロック音楽を聴いている限り、こういうことはない。
聴きながら情景をイメージすることがあれば、
それは王宮であったり、教会であったり、街中であったり、
とにかく人が大勢いるところである。

思うに、
バロック音楽においては、音楽の周りに多くの人と様々な視点が存在し、
そしてそれらが均質化、圧縮されて、音楽の中に収束している。
作曲家によって、視点の多様性が少なかったり、圧縮の度合いが小さかったりするが、
基本的にこのような性質を持っているような感じがする。

それに対して、
ロマン派音楽においては、視点は一人に定められていて、
視点が動くことはあっても、それはその一人の動きに連動したものである。
そして、固定された一人の中で音楽が展開、分散、発展、深化して行く。


思想史的な方面での知識でこれをこじつけるならば、
バロックは神ありきの時代であり、万人は神の下で平等であり、
人々は自然な共同意識の中で生活をしていた。
そして、知識や感性によって思考が異なっていても、
それぞれがそれぞれの及ぶところで教義を理解し、
それで良しとしていた。

しかし、ロマン派の時代では、個々人が自らの立場を定め、
自らの考えを深め、自らの力によって努力し、収穫を勝ち取り、
それによって、自らを発展向上させていく傾向が強まった。
すなわち、「個」の意識が強まったのである。

バロックの均質で多角的な視点と、ロマン派の変化し前進する主観的な視点、
バロックの収束し凝縮する音楽と、ロマン派の展開し深化する音楽、
これは時代の思想的違いを反映していると考えられないだろうか。


もちろん、最初から最後まで、私の勝手なイメージに基づく判断であり、
証拠を示したわけではないし、突き詰めれば不可知論となるものである。

ゆえに、今はただ、私はこう思う、としかいえない。
しかし、これは、少なくとも私の中では、実感である。

荒野を行く

2006-05-04 23:35:31 | 音楽
学園祭でヴィオラを弾く友人の伴奏をすることになった。
曲はブラームスのヴィオラ・ソナタ第2番の第2楽章である。

ピアノはかつて習っていたが、大分昔にやめてからは一人で好きな曲を勝手に弾くだけ。
ここ2年間は少しずつオルガンを弾いているが、同じ鍵盤楽器とはいえ、
タッチも音の大小の付け方も、とにかくまったくピアノとは勝手が違う。

また、自分の好みがバロックであり、ロマン派以降はあまり弾かない。
ブラームスなんて、ほとんど弾いたことはない。
故に、どんな雰囲気を出すべきなのか、全く分からない。

期限はあと3週間ちょっと。
ピアノを演奏会できちんと弾けるか非常に不安である。


さて、少しでも良い演奏ができるようにと友人に音源をもらって、
これから毎日聴きこみである。

そして、聴いていて感じることであるが、
この曲、不毛の荒野を馬に乗って駆けていくようなイメージが湧いて来る。

広漠とした中を寂しく、しかし力強く駆けて行く。
時にゆるみ、時に立ち止まり、夜になれば安らかな休息を得るが、
朝に再び同じように駆けて行く。

そんな、どこにたどり着くかも分からない、不毛だが、しかし雄大で力強い曲である。


こんな見解を友人に述べてみると、
「私のイメージとは違う」と言われてしまった。

……うーん、うまくいくかしら。。