CEDEC - CESAデベロッパーズカンファレンスの講演報告がゲーム系ニュースサイトに取り上げられている。
ゲームアカデミズムという視点で行われた講演、「ゲーム学研究の世界動向:『The Game Design Reader』の読み解きで見る先行研究」では、
「■例えば「ナラティブ論」など,日本のゲーム研究が入り込むべき余地は十分にある
■ゲームデザインの本質論/分析論,さらにはコミュニティやRMTなど,日本で開催されるDiGRA 2007に持ち越される議論は多々ある」
といった職業研究者らしいポイントも語られていたようだが、「日本のゲーム研究」という論点に少し萎えた。
研究者の裾野を広げたいというのは判るのだが、余地と言っている時点でほぼ完成していると言っているようなもので、重箱の隅テイストが。
オンラインゲームプレイヤの類型とコントロールという話題は、深く頷けると共に何かヒントのようなものが脳裏をよぎったが。
それはそれとして、「GPUによる物理演算処理の可能性」というのは、これまたアレで。GPUの並列高速演算能力を物理シミュレーションに応用し、リアルタイム有言要素法をやっちまおうという話。
たしかに、できるし、新しいテクノロジーではあるのだが、「もはや物理演算の本格的な導入は,ゲームを進化させるためには必須項目となっているといってもいいだろう。」という記事の文言には、個人的に疑問を感じる。
ゲームの進化とはいったい何か。
高画質で自然界を再現する事が目的なのか。そうではあるまい。
ファイナルファンタジーの陥った、リアルな映像で三文芝居を見せる(失礼)という方向性に、あまり魅力を感じないゲーム愛好者は少なくない。ライトユーザの取り込みに成功したというが、売れ行きは続編のたびに落ち込んでいる。
リアリティは、飽きるのだ。
不射の射という。弓の名人は弓を持たない。
所詮、道具に頼るものは道具に縛られる。
であれば、イマジネーションこそが最良の舞台装置であり、リアリティを求めて紛い物の世界を構築する事は誤った進化なのでは無いだろうか。
物理演算をゲームに生かすとすれば、リアリティ方向への応用ではなく、もっと違う何かをつかみ取れるのではないかと期待する。
ゲームアカデミズムという視点で行われた講演、「ゲーム学研究の世界動向:『The Game Design Reader』の読み解きで見る先行研究」では、
「■例えば「ナラティブ論」など,日本のゲーム研究が入り込むべき余地は十分にある
■ゲームデザインの本質論/分析論,さらにはコミュニティやRMTなど,日本で開催されるDiGRA 2007に持ち越される議論は多々ある」
といった職業研究者らしいポイントも語られていたようだが、「日本のゲーム研究」という論点に少し萎えた。
研究者の裾野を広げたいというのは判るのだが、余地と言っている時点でほぼ完成していると言っているようなもので、重箱の隅テイストが。
オンラインゲームプレイヤの類型とコントロールという話題は、深く頷けると共に何かヒントのようなものが脳裏をよぎったが。
それはそれとして、「GPUによる物理演算処理の可能性」というのは、これまたアレで。GPUの並列高速演算能力を物理シミュレーションに応用し、リアルタイム有言要素法をやっちまおうという話。
たしかに、できるし、新しいテクノロジーではあるのだが、「もはや物理演算の本格的な導入は,ゲームを進化させるためには必須項目となっているといってもいいだろう。」という記事の文言には、個人的に疑問を感じる。
ゲームの進化とはいったい何か。
高画質で自然界を再現する事が目的なのか。そうではあるまい。
ファイナルファンタジーの陥った、リアルな映像で三文芝居を見せる(失礼)という方向性に、あまり魅力を感じないゲーム愛好者は少なくない。ライトユーザの取り込みに成功したというが、売れ行きは続編のたびに落ち込んでいる。
リアリティは、飽きるのだ。
不射の射という。弓の名人は弓を持たない。
所詮、道具に頼るものは道具に縛られる。
であれば、イマジネーションこそが最良の舞台装置であり、リアリティを求めて紛い物の世界を構築する事は誤った進化なのでは無いだろうか。
物理演算をゲームに生かすとすれば、リアリティ方向への応用ではなく、もっと違う何かをつかみ取れるのではないかと期待する。