原田さんの「ロシア・ピア二ズムの贈り物」から今回は系譜の話を。
ロシアのピアノ芸術の種を蒔いたのはアイルランド人ジョン・フィールドだそうで。
ノクターンの先駆者として知られているあのフィールドです。
彼はピアニストとしてもかなりの腕前だったそうです。
恩師であるクレメンティが演奏活動を辞めピアノ製造に熱を入れ、デモンストレーションのピアニストとして最も優れた弟子であったフィールドをサンクトペテルブルクに同行させたのがフィールドとロシアの出会いでした。
フィールドはクレメンティが次の目的地ドイツへ旅立ってもそのまま当地に留まり、このことがロシアのピアニスト黄金時代を築く基となりました。
フィールドは現在もロシアピアノ楽派で受け継がれている「ジュ・ぺルレ」と言う「真珠の粒」奏法を見事にマスターしていました。
ロシアにコンサートで訪れたドイツ人アドルフ・フォン・ヘンゼルト。彼はモーツァルトの弟子フンメルに教えを受け「ジュ・ぺルレ」奏法を習得していました。
ヘンゼルトの演奏はリストの豊かな響きとフンメルの滑らかさを併せ持ち、彼の「歌う」ピアノ演奏は無比のものと謳われました。
ヘンゼルトは格別の待遇でサンクトに留まることを決意し宮廷ピアニストになります。
その傍ら法律学校でピアノを教えたそうです。彼は「詩情豊かな雰囲気、洗練された優美さ、色彩に富んだ音色、芸術的な多様性が自己の中で発達する」ことを生徒たちに要求し促したそうです。
これはロシアピアノ楽派の特徴を表しています。
ヘンゼルトがサンクトに留まって4年後、リストが当地を訪れます。互いの名声を聞き及んでいた2人はそれから40年間親好を続けます。
ヘンゼルトの厳格なメソッドは弟子によってラフマニノフ、スクリャービンにも伝えられていきます。
リストはロシアで直接教えることはありませんでしたが、ワイマールで教えた弟子たちによって、リストのピアニズムがロシアで受け継がれていきます。
そのリストに基礎を教え込んだのがベートーベンの弟子ツェルニーというわけで、ロシアンピアニズムはベートーヴェンまで遡るとなるわけです。
それならフィールドの師クレメンティもその一員と考えて良いわけで、「ピアノフォルテの父」の面目躍如です。ベートーヴェンの「皇帝」を出版していて繋がりもあります。
それならヘンゼルトの師の師モーツァルトもその一員ということに・・
しかしモーツァルトはクレメンティの演奏を「ケッ、指痛めるわ。姉さんあんなの弾いちゃだめだ」と言い、一方クレメンティはモーツァルトの歌う演奏に感銘を受け、歌うことのできるピアノを作りたいと演奏活動を辞めピアノ製造にのめり込むことに。
モーツァルトはクレメンティのテクニックを妬んで「指が硬くなる」からナンネルに弾かないように言ったとも言われています。
利益をむさぼるクレメンティに嫌気がさしたフィールドがクレメンティのドイツ行きを拒みロシアに定住することになり、それがロシアンピアニズムを築くことになる。
書いていてもわけがわからなくなります・・
グルグルしてきます。
クレメンティ→フィ-ルド→「ジュ・ぺルレ」
モーツァルト→フンメル→ヘンゼルト→「ジュ・ぺルレ」
ベートーヴェン→ツェルニー→リスト
この系譜を知るとロシアンピアニズムの特徴がよくわかります。
この芸術がロシアに流れ込んだのは、ピョートル大帝やその後のエカテリーナ女帝が関係します。
リストと同じくウィーンでツェルニーに師事したレシェティツキは、アントン・ルビンシュテインが初代学校長を務めたサンクトペテルブルク音楽院で教授となり多くの弟子を育てました。弟子であった奥様もたくさんのお弟子さんを育てています。
弟子のひとりがクロイツァー、プロコフィエフ、ホロヴィッツの少年時代の師タルノフスキー、バーンスタインの師ヴェンゲローヴァを育てています。
ホロヴィッツはキエフ音楽院でアントン・ルビンシュテインの弟子ブルーメンフェルトに師事。
気難しいアントン・ルビンシュテインの音楽院以外の唯一の弟子がヨーゼフ・ホフマン。熟れた苺の人です。
知らないお名前がゴロゴロ並び、とても覚えられません。
まっ、覚えなくても良いのですが・・
今のところまだ、ネイガウスの名前は出てきておりません。
ネイガウス以前の歴史も相当立派なようで。
次回は、音楽家の言葉で印象に残ったものがあるのでそれをご紹介します。
ロシアのピアノ芸術の種を蒔いたのはアイルランド人ジョン・フィールドだそうで。
ノクターンの先駆者として知られているあのフィールドです。
彼はピアニストとしてもかなりの腕前だったそうです。
恩師であるクレメンティが演奏活動を辞めピアノ製造に熱を入れ、デモンストレーションのピアニストとして最も優れた弟子であったフィールドをサンクトペテルブルクに同行させたのがフィールドとロシアの出会いでした。
フィールドはクレメンティが次の目的地ドイツへ旅立ってもそのまま当地に留まり、このことがロシアのピアニスト黄金時代を築く基となりました。
フィールドは現在もロシアピアノ楽派で受け継がれている「ジュ・ぺルレ」と言う「真珠の粒」奏法を見事にマスターしていました。
ロシアにコンサートで訪れたドイツ人アドルフ・フォン・ヘンゼルト。彼はモーツァルトの弟子フンメルに教えを受け「ジュ・ぺルレ」奏法を習得していました。
ヘンゼルトの演奏はリストの豊かな響きとフンメルの滑らかさを併せ持ち、彼の「歌う」ピアノ演奏は無比のものと謳われました。
ヘンゼルトは格別の待遇でサンクトに留まることを決意し宮廷ピアニストになります。
その傍ら法律学校でピアノを教えたそうです。彼は「詩情豊かな雰囲気、洗練された優美さ、色彩に富んだ音色、芸術的な多様性が自己の中で発達する」ことを生徒たちに要求し促したそうです。
これはロシアピアノ楽派の特徴を表しています。
ヘンゼルトがサンクトに留まって4年後、リストが当地を訪れます。互いの名声を聞き及んでいた2人はそれから40年間親好を続けます。
ヘンゼルトの厳格なメソッドは弟子によってラフマニノフ、スクリャービンにも伝えられていきます。
リストはロシアで直接教えることはありませんでしたが、ワイマールで教えた弟子たちによって、リストのピアニズムがロシアで受け継がれていきます。
そのリストに基礎を教え込んだのがベートーベンの弟子ツェルニーというわけで、ロシアンピアニズムはベートーヴェンまで遡るとなるわけです。
それならフィールドの師クレメンティもその一員と考えて良いわけで、「ピアノフォルテの父」の面目躍如です。ベートーヴェンの「皇帝」を出版していて繋がりもあります。
それならヘンゼルトの師の師モーツァルトもその一員ということに・・
しかしモーツァルトはクレメンティの演奏を「ケッ、指痛めるわ。姉さんあんなの弾いちゃだめだ」と言い、一方クレメンティはモーツァルトの歌う演奏に感銘を受け、歌うことのできるピアノを作りたいと演奏活動を辞めピアノ製造にのめり込むことに。
モーツァルトはクレメンティのテクニックを妬んで「指が硬くなる」からナンネルに弾かないように言ったとも言われています。
利益をむさぼるクレメンティに嫌気がさしたフィールドがクレメンティのドイツ行きを拒みロシアに定住することになり、それがロシアンピアニズムを築くことになる。
書いていてもわけがわからなくなります・・
グルグルしてきます。
クレメンティ→フィ-ルド→「ジュ・ぺルレ」
モーツァルト→フンメル→ヘンゼルト→「ジュ・ぺルレ」
ベートーヴェン→ツェルニー→リスト
この系譜を知るとロシアンピアニズムの特徴がよくわかります。
この芸術がロシアに流れ込んだのは、ピョートル大帝やその後のエカテリーナ女帝が関係します。
リストと同じくウィーンでツェルニーに師事したレシェティツキは、アントン・ルビンシュテインが初代学校長を務めたサンクトペテルブルク音楽院で教授となり多くの弟子を育てました。弟子であった奥様もたくさんのお弟子さんを育てています。
弟子のひとりがクロイツァー、プロコフィエフ、ホロヴィッツの少年時代の師タルノフスキー、バーンスタインの師ヴェンゲローヴァを育てています。
ホロヴィッツはキエフ音楽院でアントン・ルビンシュテインの弟子ブルーメンフェルトに師事。
気難しいアントン・ルビンシュテインの音楽院以外の唯一の弟子がヨーゼフ・ホフマン。熟れた苺の人です。
知らないお名前がゴロゴロ並び、とても覚えられません。
まっ、覚えなくても良いのですが・・
今のところまだ、ネイガウスの名前は出てきておりません。
ネイガウス以前の歴史も相当立派なようで。
次回は、音楽家の言葉で印象に残ったものがあるのでそれをご紹介します。