招きねこの手も借りたい

主婦のち仕事、ところによって母、時々芝居。

強くなりたい

2008年07月30日 | 日常
母は、骨折のほうは順調に回復しているが、
心臓のほうが調子が悪い。
今、いろいろ検査をすすめている。

昨年の手術で、僧帽弁は快調だが、
不整脈がすごくて、突然動悸がしたりするようだ。

こんな状態で、長兄の住む町に行けるのだろうか?

母は長兄に心配をかけたくないと、
心臓の調子が思わしくないことを長兄に知らせていないし、
私にも知らせるなと言っている。

長兄は私に言われて、毎日母に電話をかけるようになったが、
自分の話しだけをしてさっさと電話をきっている。
私のほうには、あれからいっさい連絡をしてこない。
母の様子をきくでもない。
長兄のほうの母の受け入れ態勢準備についての相談があるわけでもない。

ただ、もう私は長兄と話し合うのがイヤなので、
向こうから何か言ってくるまでは放っておくことにした。
日々、淡々と母の世話をするまでだ。
長兄のところへの引っ越しが、母の体調で延期になったり、
中止になったりする可能性もありそうだが、
先のことは考えない。
ここには詳しく書けない、
ちょっと大変なことがあった。
その処理や、今後の対策が先決だった。


そのことも大きなストレスとなったこともあり、
夫の体調がここ1週間ほど、とても悪い。
1日から、また抗ガン剤治療なのだが、
前回の抗ガン剤の効果がなくなったのか、
また食欲が落ち、息切れがひどい。
副作用でのことかと思っていたが、
どうもこれは以前にガン細胞が大きくなり、
腹水がたまったときの症状と似ている気がする。
ここまで、抗ガン剤が効かないのも初めてだ。
夫も私も薄々それに気がついている。
でも、それをお互い口にするのが怖くて黙っている。
夫はとても無口になった。

1日の主治医の診察の際に、相談するのだが、
もしかして再入院の可能性もないとはいえない。


夫は少しづつ、いろんな芝居の企画を進めていた。
仕事も夫なしではにっちもさっちもいかない。
経済的にも、さすがに逼迫してきた。

なんだか、足元ががらがらとくずれていきそうな
どうしようもない不安感でいっぱいになる。

正直、いろんなことが怖い。
乗り越えられない困難を、天は与えないというが、
本当にそうだろうか?

健康な私がせめてしっかりしないとだめだとは思う。
いちばん辛いのは、当人の夫と母なのだ。

もしできることなら、私の寿命を夫や母に分けたい。
この世から逃げ出す勇気もないのだが、
夜眠るとき、このまま朝目が覚めないほうが
気が楽かもしれないと思う日がある。

夫も、母も、娘も、
私の存在が必要なのは痛いほど分かるのだが、
それを負うには、あまりに私はいろんな意味で弱くて無力だ。

強くなりたいと心から思う。



乗り越えなければならないこと、いくつか

2008年07月22日 | 日常
あんなに大好きだった、ブログを書くこと読むことも、
親しい人に手紙やメールを書くこともできない日々が続いていた。

ようやく、そうも言って居られないと思えるようになった。

最後にブログを更新してから今日までに起こった
当面私が乗り越えなければならないことを書こうと思う。

抗ガン剤治療を終え、
その効果のほどを確認するCT検査が先日あった。
結果は、腹腔内のガン細胞はほとんど消えてはいなかった。
あちこちに散らばっているため、
当初予定していた放射線治療はムリだとのことだった。
病気がみつかってそろそろ1年になろうとしている。

その間、何度も抗ガン剤治療をしてきたにもかかわらずだ。

正直、夫もさすがに気落ちしている。
通院治療でなんとかしのいでいるとはいえ、
副作用で体力は落ちていて、
休み休みでしかいろんなことはできない。
しかし、それももこれも治療の効果が上がっていると信じていたからこそ、
頑張れたのだと思う。

もう一度、白血球の値を上げる治療をした後、
今度は別のタイプの服用型の抗ガン剤治療をすることになった。
主治医は、あれがダメならこれ、これがダメならこれ、
と次々と打つ手を考えてくれているし、
淡々と、それでいて前向きに接してくれている。
それだけが頼みの綱である。


そんななか、母はとりあえず順調に回復している。
リハビリも頑張っている。
でも、あまりに長兄が母のことをほったらかしなことに
珍しく夫がキレた。
電話でこれまで長兄に対して我慢してきたことを訴えた。
とりあえず一度、こちらに来てもらって話し合いましょうという
こちらの要望を、自分の体調不良を理由に当日キャンセルした長兄。
母の携帯に一度も電話もしない。

そんなこんなだったが、先日やっとこちらに来た。
私と夫は、今うちが大変なので、
母の入院中に何度かこちらに滞在してもらい、
母の話し相手や細かい用足しの手伝いをしてほしい。
来れないときも、こまめに母に電話して励ましてやってほしい。
そういうことを分かってもらいたいだけだった。

始めは、「申し訳ない」とか「心を入れかえる」
などと言っていた長兄が、途中から
「15年間、お袋に家事だの子守だのしてもらっていたのだから、
 今お袋の世話をお前達だけでするのは当然ではないのか?」
「離れて暮らしているので、やれることは限られている。
 いったい俺に何をしてもらいたいのか、言ってくれないと分からない。」
などと逆ギレした。

以前なら、次兄が間にはいって穏便に交わされた会話も、
今はそういうふうにはならない。
次兄が生きていれば、うちと次兄で協力してなんとかやれたが、
今は私のうちだけに母のことがかかってきている。
それを分かってほしいだけなのに、
どうやら長兄は自分が言いがかりをつけられているととったようだ。

「俺が初めからお袋をひきとっていたら、お前たちみたいな事は言わなかったと思う」
そうも言った。

そして、
「お袋は、俺がひきとる。
 骨折が治って落ち着いたらお前の家を引き払ってうちに来てもらうから!」
と、啖呵をきった。

そんなこと、勢いや意地やプライドや逆ギレで言うことだろうか?

この時点で、私も夫も
母自身が首を縦にふらないと思った。
永年住み慣れた地元を離れたくはないだろうし、
何より私たちと過ごした毎日は、
母にとって何不自由ない楽しい時間だったはずだ。

ところが、翌々日母は夫に
「長々、お世話になってありがとうございました。
 やっと長男が私の面倒を見ると言ってくれたので、
 念願が叶って息子と暮らせる。
 もう老い先短いので、この機会を逃すともう後はないと思う。
 どうか、向こうへ行かせてください。」
と、電話があった。

その電話のあとすぐ、長兄、母、私、夫、娘の5人で話し合いをした。

そんな簡単に家族を解消できるの?
おばあちゃんの世話は私とお母さんで最後までするから!
と、娘が泣いてとめても母の決意は変わらなかった。

こんな大事なことを、すぐに決めてしまうのは良くないのではないですか?
もっとよく考えてからでもいいんですよ。
と、夫が言ってもだめだった。

いつのまにか、母を引き取りたくてしようがない長男と、
行きたくてしかたない母親に
いちゃもんをつける娘一家の図みたいなことになっていた。

うちにいるのが、母にとって一番の幸せだと思っていたが、
それはもしかして私達の傲慢だったのかもしれない。

もういい。
好きにすればいい。

長兄は、自分の嫁さんに頭が上がらない。
母を家にはまだ入れられないとかで、自宅前のアパートの一室を借り、
母とふたりで住むのだという。
食事は義姉が3食運ぶという。

そんなことが出来るのか。
それで本当にいいのか。

私には分からなくなった。


骨折が治ったら、母は長兄のもとに行く。
母には、向こうに居づらくなったり、
辛いことがあったらいつでも戻っておいでと伝えた。
うちの母の部屋はそのままにしておくつもりだ。

母は、電車で数時間なんだからいつでも会いにおいでとしれっと言うが、
多分私達が、長兄のもとに行くのは、
母に何かあった時だけだと思う。


今、うちは大きな転換期を迎えているようだ。





 

次兄の思い出

2008年07月15日 | 日常
元気を出そうとしても、ふと何かの拍子に大きな悲しみの嵐がやってくる。

母の見舞いには毎日行くようにしているのだが、
13日の日曜日はどうにもこうにも身体が動かなかった。
「母には悪いが、今日は行くのをやめよう。
 あ、でもバスタオルと新しい雑誌は持って行ってやらないと。」
そう思った私は、
「次兄に頼もう」と思い、携帯の電話帳を探していて、
兄はもういないことに気がついた。

泣いた。

次兄はしょっちゅう電話をかけてきた。
その始まりの言葉はいつも
「おふくろは元気か?」だった。
そしてその次は、
「お前の旦那は大丈夫か?」
その後に
「お前の娘の調子はどうだ?」
最後に
「お前はムリするなよ。」だった。
自分のことよりも、私達家族のことをいつも気にかけていた。
兄が自分のことを私に愚痴ることはほぼなかった。
いつもお前も大変だな、
俺も大変だけど頑張ろうなと励ましてくれた。

釣りが好きでよく釣った魚を届けてくれた。
友人知人が多く、いただきものの山菜や筍を持ってきてくれた。

次兄は中学から始めた陸上を、膝をこわす30代後半まで続けていた。
県代表として国体にも行った。
高校時代は少しグレかかった時もあったが、
学校をさぼっても陸上部の練習には休まず行った。
学生時代はモテモテで、いつもプレゼントをもらっていた。
「将を射んとせばまず馬を射よ」ではないが、
兄の気を引こうと、妹の私宛にお菓子やおもちゃをくれる人もいた。

高3の時、陸上の才能をかわれて私大の推薦の話しがあったが、
丁度父の事業がさんざんな時で、
すでに関西の私大に進学していた長兄もいて、
泣く泣く進学を諦め、地元の企業に就職した次兄。
父のお古のぼろぼろのコートを着ていた長兄に
自分の給料で新品のコートをプレゼントした。

夏休みには、父も母もどこも連れて行ってくれない私を見かねて、
会社の日帰り旅行に一緒に連れて行ってくれた。
海の家のおばさんや、貸し切りバスの運転手さんに、
「若いお父さんだね」と言われて困っていた次兄。
初めて私をお寿司屋さんのカウンターに座らせ、
好きなものを食べさせてくれたのも次兄だった。

実業団でも、駅伝や中距離ランナーとして
良い成績を残し続け、職場でも陸上部でも、
たくさんの人から愛された次兄。

まるでスタートダッシュのように逝ってしまった。
次兄のうちの残された三兄弟たちが、
「父さん、それはフライングだよ」
「フライングだから戻ってきてよ」
と、通夜の晩に泣いていた。

棺のなかに、愛用の品をいれるとき、
お気に入りだった紺のブレザーをいれようとして、
義姉が内ポケットのふくらみに気付いた。
「なくしたって大騒ぎして、再発行してもらった銀行の通帳入ってた」
「次兄らしいわ」
「ほんと、探し物が下手だったよね」
みんなで少し笑って、それから静かに泣いた。

母は、次兄のそばに座り何度も何度も頬に手をあてては
「こんなに一生懸命温めているのに、温かくならないわ。
 やっぱりこの子はいなくなったんよね。」
と、つぶやいた。

秋には、次兄の長男のところに子供が生まれる。
次兄にとっては初孫である。

次兄の分まで、私達が可愛がってやろうと思う。




母、骨折により入院

2008年07月08日 | 日常
みなさま、次兄のことで温かいコメントをいただきありがとうございました。

兄の葬儀のことや、思い出話などを
少しづつ書いて行こうと思っていたのですが…。


兄の葬儀が終わった翌朝、母が腰に激痛を訴えた。
前回骨盤骨折したとき入院した病院は、
急患であれば日曜日も診察してくれるので、
行ってきた。
あいにく整形外科の主治医の先生はお休みで、
内科の先生が痛み止めの注射をして応急処置をして帰宅。

翌日の7日、月1回の心臓の診察と検査は別の病院だ。
私と娘の2人で付き添い、
母は車椅子による移動にした。
母は、兄の訃報を聞いて以来、ほとんど寝ていない。
心臓のほうに悪影響が出ていないかと心配したが、
幸いそちらのほうは大丈夫だった。

腰の痛みは、鎮痛剤がきれるとかなり痛むという。
心臓の薬を処方してもらった後、
移動して整形外科へ。
私は仕事があったので、いったん娘に母を託す。

仕事先の私に娘から電話。
腰椎を圧迫骨折しているという。
今MRIをとっていて、
しばらくしたら主治医の先生から説明があるので、
こちらに来てほしいという。

タクシーで駆けつける。
検査室の前で心細そうな娘の肩を抱く。

TOKIOの国分太一似のイケメンの主治医は
「う~ん、折れてるね。
 でも、大丈夫。安静にしてたらくっつくぞ。
 1~2ヶ月入院しよう。動けるようになったらリハビリだ。」
と、あっさり言った。

高齢者の骨折は、寝たきりにつながりやすく、
私も娘も、母本人も暗い気持ちで一杯だったが、
先生があまりにも明るく頼もしいので、
元気を出すことにした。

もともと骨粗鬆症で骨がもろかった母は、
通夜や葬儀での立ったり座ったりなどで
圧迫骨折になったのだと思う。

「次兄が迎えに来た」とか
「私だけ生きながらえても、みんなに迷惑」
などとマイナス思考全開の母を叱りつけ、
いったん私は仕事に戻り、
その足で自宅に向かって母の入院の用意を箱につめた。
仕事場から自宅、病院への移動は幸い事務所の後輩が運転手をしてくれた。
ふらふらの私のかわりに重い物も運んでくれた。

その間、娘はずっと母に付き添って、
あれこれと励ましていてくれた。

長兄は、5分だけ顔を出し関西に帰って言ったという。
全くあてにならない長兄。
次兄の葬儀に、なぜか長兄一家は誰一人来なかった。
あり得ない。
来られない理由の説明もない。
母が骨折して入院したというのに、
電車の時間があるからと行って予定どおり帰宅する長兄。
長兄は定年退職して、仕事をしているわけでもないのに。
ずっと付き添っていた娘に慰労の言葉もなく、
私にこれからどうするのかという相談もないまま
帰っていった。

今までは母が入院すると、次兄と協力して看病した。
これからは私だけだ。
いや、娘がいる。
夫も、副作用で体調が悪いのにいろいろ心を配ってくれる。
大丈夫、きっと私たちなら乗り越えられる。
自分に言い聞かせる。

次兄は、自分の寿命を母に託したのだと思っている。
その分をなんとか楽しく幸せに過ごさせてやりたい。



半夏生って

2008年07月01日 | 日常
本日7月1日は、私の住む地方では「氷室の日」といい、
夏の間の無病息災を願って、氷室饅頭とちくわを食べる。





こういう、その地方独特の風習というのは大事にしたいと思う。

この時期、こちらではスーパーのちらしには
氷室饅頭とちくわの文字が踊りまくる。

で。
今日の各スーパーのちらしにちくわと饅頭のとなりで
少し遠慮がちに踊る「半夏生にはタコ」の文字。
はい?
半夏生て何?
自分の無教養をさらけだすのも恥ずかしいが、
実は初めて聞く言葉だった。
夏至から10日~11日目の、7月1日、2日あたりのことを指すそうで、
関西ではこの日にタコを食べるそうである。

ここ、関西じゃないし。
おそらく昨年の今頃は、半夏生にタコを食べようなんて、
こちらではいっさい話題に上っていなかったと思う。

恵方巻きは、今ではすっかりこちらでも定着したけれど、
あれも私が子供の頃や若い頃には関西ローカルの習慣だったと思う。

なんでどんどん関西文化ナイズされているんだろう?

誤解しないでほしい。
関西が嫌いなわけではないのだ。
タコだって嫌いじゃない。
圧力鍋で作る煮タコは、絶品だ。
刺身も酢の物も、タコ飯も好きだ。
けどね。

なんで季節季節の食習慣を、全部関西から持ってくるのかがナゾ。

調べたら、この半夏生、
関西ではタコ、別の地方では饅頭、あるところでは焼き鯖を食べるらしい。
ぶっちゃけ焼き鯖を食べる県は、お隣の県である。
なら、焼き鯖でいいじゃん。

なんで関西のほうの真似をするんじゃいっ。

氷室の日の饅頭とちくわだけで充分じゃないか。
あれこれ、理由をつけてイベントにして
いろんなものを売りたいのはわからんでもないが、
何も関西のまねっこばっかりせんでもよろしいと思う。

プライドはないんかいっ。
そんなものに煽られてどうするっ。
えっ?

と言いつつも、あまりにも美味しそうだったので
今夜の酒の肴はこれだった。



あはっ。