招きねこの手も借りたい

主婦のち仕事、ところによって母、時々芝居。

元気になりました

2007年07月30日 | 夫ネタ
みなさんにご心配をおかけしましたが、
夫は土日に大人しく養生していたら、
今日は元気になりました。

痛みもお腹の張りも全くなく、食欲もあり、
3日間の便秘も解消!
病院の先生も驚くほどの回復力。

ただし、原因はよく分からないままである。
おそらく、消化不良をおこしたのであろうということで、
まぁ、年齢も年齢だし、大病を3度したという病歴もあるため、
念のため来月半ばに胃カメラと大腸の内視鏡検査はやっておくことになった。

日頃の暴飲暴食(というほど量は飲み食いしてないけど、飲み会の回数は半端じゃない)への、
身体からの警告だったのではないかと思う。

先生からは、ビールは一日350CC、
日本酒なら1合と釘を刺されて帰って来た。


実は、腹痛で倒れた日、
病院で「病歴が病歴なので再発の可能性も視野にいれておかないと」
と、言われたこともあり、
気が気ではなかった。
今度再発するとしたら、胃に出るのではないかと、
前回の大病のときに言われたこともあり、
心配で眠れなかった。

当の夫は、根拠なくぜったい大丈夫と思っていたようだ。
彼は、いつもそう。
ものすごい壮絶な状況で治療を受けているときも、
「自分はこのまま死ぬ気が全くしないから大丈夫」
と平常心だった。
担当医から副作用の痛みが辛そうだからモルヒネを使いましょうか?
と言われた時ですら
「大丈夫。大丈夫。」と言う人である。

そんな夫と、さっきビールで乾杯した。
もちろん、350CC限定。
人にとって一番大切なものは、健康なことだと、
改めて思った。

皆さんも、自分の身体と家族の健康に気をつけてあげましょうね。

ほんとに、お騒がせしました。


神様のはからい

2007年07月30日 | 日常
あんなにしっかりしていた母が、ちょっと身体が楽になってきたら
昨日から少しばかり言うことがおかしいことがある。

「私、北海道にいたから」と、
住んだことも行ったこともない北海道の話しをする。
そういえば女学校時代の親友が北海道出身の人とか言ってたことがある。

次兄に向かって
「あんた、引っ越しはすんだの?」と心配する。
次兄が引っ越しをしたのはもう何年も前のことだ。
母が言うには、長兄から来た葉書に
次兄が引っ越しをすると書いてあったと言う。
もちろんそんなことは書いていない。

おかしいと思いつつも、午前中の対面を終えた。
とりあえず機嫌良く会話をしているし、
私が言う冗談にも良く笑う。
次兄に煙草をやめるように説教もするし、
次兄の奥さんの親の健康を気遣ったりもする。

ちょっと混乱しただけだよね?
と、次兄と話し合い、また夕方行ったときのこと。
ちとせの大きく引き延ばした写真を見て喜んだり、
うちの放蕩娘の写真を見て安心したり、
着替えのパジャマとシャツを用意してほしいと言ったり、
しっかりしている。
なんだ、午前中のはちょっと混乱しただけだったんだね…
次兄は電話をかけに先に部屋を出た。

私と2人になったところで母が言った。

「流しに出してある茶碗、あんたが洗ってね」

「うん。洗うよ。母さんがいない間は私が全部やってるよ」

「なんだか身体が疲れやすいから、もう何もできないよ」

「なんにもしなくていいよ」

「ところでここはどこや?」

と、真顔で聞いて来た。

正直、血の気が引いた。

「病院だよ。」おそるおそる答える。

「じゃあ、私気兼ねしなくていいよね」

「そうだよ~、上げ膳据え膳、女王さま気分でいればいいよ」
そう私が言うと、安心したような顔をする。

ラジオが目についたので、聞いてるの?と尋ねたら、
「新聞が読めないから、ニュースを聞くの。ボケ防止。」
そう言う。
「それはいい考えだね」

「自分の親より先にぼけたら親不孝だから。」

ん?
母のお母さんは私が中学生の時に亡くなっている。

「誰の話?」私が聞くと不安げな顔で母が問い返した。

「おばばちゃん(母の母のこと)、元気でしょ?」

「おばばちゃんは、とうに見送ったよ。」
動揺して私は不用意に答えてしまった。
その時の母の悲しそうな顔。

「おばばちゃんがいないなら、私もう生きててもしかたない」
そうまで言うので、

「兄さんたちも私も、み~んな生きててほしいと思ってるからね」
と言って母の手を握った。

たまたまなのか、いよいよなのか、
まだよく分からない。
でも、今の母の状況ではもしかしたら
ほんの少しボケ症状があるくらいのほうが、
辛いことを考えなくて幸せなのかもしれない。
神様が与えた粋なはからい…そう思うようにしようと思う。

これからは、母の言うことは全部肯定してやることにした。
おばばちゃんのことを聞かれたら、
元気にしていると言おう。
ここはどこかと聞かれたら
高級ホテルだと答えよう。
万が一私のことが分からなくなっても、
専属の家政婦だと言おう。

そう決めた。



兄妹の想い出

2007年07月29日 | 思い出場話(懐かしの昭和編)
母の入院で、兄妹3人が揃う時間が増えた。
それぞれ別の時間に行くこともあったが、
3人で一緒に見舞うことも何度かあった。

ここ最近、めったに兄妹3人で並んで歩くこともなかったので、
病院の長い廊下を歩きながら子供の頃のことを思い出した。

うちではなぜか、大晦日の日中、
年越しの準備で忙しい大人たちの邪魔にならないように、
子供たちは映画に行くことになっていた。
長兄と次兄が小さいときは父が引率して行っていたらしいが、
私が物心つく頃は、長兄が大学生として帰省していたので、
長兄が引率した。
それは、私が小学校半ばまで続いた習慣だった。

観たい映画は、もちろんばらばら。
長兄は洋画しか観ない。次兄は邦画専門。
それもクレイジーキャッツとか、
ドリフターズとか、コント55号とか
そういうお笑い系が好き。
私は子供向けのものが見たかったが、
私の意見が取り入れられることはほとんどなかった。

たいてい長兄と次兄の話し合いか、
じゃんけんで観るものが決まった。
私は、洋画の字幕を読めなかったので、
とりあえず次兄を応援した。

今思うと、長兄の見たい洋画を見ることが多かったように思う。
上映中、私が映画に新しい登場人物が出てくるたびに、
「あの人、いいもん(良い人)か?わるもん(悪い人)か?」
とうるさく質問するのを、
長兄は「しっ。」とたしなめ、
次兄は自分も理解していないにもかかわらず、
「いいもん。」「ちょいわるもん。」と、教えてくれた。
見終わった後必ず喫茶店かパーラーに寄った。
ホットケーキと、クリームソーダを楽しみつつ(私はこちらのほうが楽しみだった)
洋画の場合は長兄から事細かに映画の内容について説明してもらった。

次兄は「え?そうなんか?わし、完全に勘違いしとったわ」とか
「あのラストはそんな意味やったんか!」
などと、やはりよく理解していないようだった。

賢い長兄、単細胞な次兄。
そんな図式だった。

でも、次兄は自分が好きな映画を選べる数少ないチャンスの時に、
私の見たい子供向け映画をわざと選んでくれたりした。
上映中の私のうるさい質問にも怒らずに、
少しピントがずれてはいたものの
必ずこたえてくれたのも次兄だった。
そのかわり、機嫌の悪いときはよくぶたれた。
もちろん加減していたが、怒鳴り声も大きかったし、
言葉も荒い次兄のことを恐いと思うこともよくあった。

そんな次兄も年をとり、なんだか随分性格がまるくなった。
長兄は、相変わらずである。
賢さは変わらないのだが、
長兄程度の賢さを頼りにするほど私はもう子供ではなくなった。


長兄は母の病状が安定したのを見て、週末にいったん家に帰った。
今日は次兄と2人で1日2回の面会時間に母に会いに行った。
今日の母も気分が良かったようであれこれおしゃべりをした。
が、さすがに長期にわたる入院で、
どうも記憶が前後したり、夢と現実をごっちゃにしているところが出始めた。
一瞬戸惑う私を制して、
「うん。うん。そうだよな。」
と母に話しをあわす次兄の横顔は昔映画館で私に
いいもんかわるもんかを教えてくれていた頃の顔になっていた。





祈り

2007年07月28日 | 日常
母の容態が落ち着き、ほっとしていたら、
昨日の昼過ぎに夫が激しい腹痛を訴えた。
朝から、胃腸に違和感を感じていたのだが、
てっきり便秘か何かだろうと夫も私も軽く考えていた。
午後からのはずせない仕事の打ち合わせを終わらせた頃、
顔色も青く、いつもは我慢強い夫がうずくまっている。

あわてて近くの病院に行って、
血液検査とレントゲンをとり、
痛み止めをいれた点滴を2本してもらった。
緊急で入院したり、手術したりすることはないということで、
座薬をいれ絶食するよう言われて帰ってきた。
急変するようであればすぐ連絡するように言われていたので、
昨晩は隣りに寝ていても、
夫が寝返りをうつたびに、寝言を言うたびにはらはらしたが、
そのあと痛みを訴えることはなかった。

今日の朝もう一度行って、医師の話しを聞いてきたが
今の段階では原因を判断出来ないという。

腹部の膨張感がおさまったら週明けに胃カメラを飲むことになった。
いやな予感を振り払い、
とにかく今は母と夫の回復を祈るしか私にはできない。

母のほうは、今日は随分気分が良いようで、
酸素マスクも簡易型のに取り替えられていて、
会話もスムーズだった。
次兄が「ゆっくりのんびりするんだよ」と言うと
「集中治療室でのんびりはできないわよ」と、半笑いでこたえていた。
伸びきってしまった母の髪は、
今日は看護婦さんがヤマトタケルとかオオクニヌシノミコトのように
束ねてくれてあった。
先日は三つ編みだった。
「毎日髪型、かわいいね~」と私が言ったら、
ちょっと照れくさそうだった。

私の大切な人たちが、苦しまず、
いつも幸せな気持ちで過ごせることが
今の私のいちばんの願いである。








選択

2007年07月26日 | 日常
集中治療室での懸命の治療のかいがあり、
なんとか母の容態は危機を脱した。
数日後には一般病棟に戻ることができると医師から話しがあった。

母は、集中治療室にいる間も意識ははっきりしていた。
その分、辛い治療も全部分かるし、
医師や看護師のものものしい様子や、
隣りのベッドの患者さんが亡くなる様子も分かっていた。
それでも気丈に耐えていた。
酸素マスクをしているため、母が何か言っても、
半分以下しか聞き取れなかったが、
隣県に住む母の弟夫婦を呼んだ長兄に対して
「用もないのになんで、呼んだんだ」
と叱ったかと思うと、
長兄に「どこに泊まっているのか?ごはんはどうしているのか?」
と心配したり、
東京から駆けつけたうちの放蕩娘に
一生懸命何かを伝えようとしたりしていた。

今日、放蕩娘が仕事のため帰る前に寄った時も、
娘の手をにぎる母の手は体温が下がり冷たかったが、
力があった。
私と放蕩娘との関係をとても心配していた母は、
私と娘が並んで母のベッドの横にいることを、
心底喜んでいた。

夕方、担当の医師に呼ばれて現在の状況と、
今後の方針についての説明と相談があった。
次兄は仕事だったため、長兄と私で話しを聞いた。


危機は脱したようだった。
うまくいけば、週末には集中治療室から一般病棟へ戻れるという。

しかし、根本的な病状(肺にたまった水)は改善されていないため、
またいつなんどきこういう状況に陥るか分からないという。
最初に診察を受けた時から、かなり状況は変わったようだった。
退院の可能性はほとんどないようだ。

たったひとつ、退院の可能性があるとすると、
それは心臓の手術しかない言う。
84歳の、弱り切った母の身体にメスを入れることが
どういうことになるのか、
それは医学的知識のない私にもその危険性はよく分かる。

その危険性を承知してでも、手術したほうがいいのか、
現状維持から少しづつ確実に悪くなっていく今の状況に、
内科的治療で対応していくのか、
選択を迫られている。

手術するにしても、しないにしても、
とにかくもっと体力が回復しないことにはどうしようもない。
近いうちに、外科の先生の意見を聞いた上で、
決断することになる。

このまま病院から出られないのなら、
危険性は高くとも手術をして、
家に帰れるわずかの可能性に賭けてみるという選択をするには、
母の身体は弱り切っているし、年齢も年齢である。

家族でこんな選択を迫られる日が来るとは思ってもみなかった。

とにかく、一般病棟に戻れることを喜び、
母の気持ちを尊重しながらみんなで相談していこうと思う。

みなさま、本当にありがとうございました。



リフレッシュ

2007年07月22日 | 日常
母に会いに行くと、なんだか今日はとても弱っていた。
寝返りを打った拍子に、動悸がひどくなり、
話しができなくなった。

先日の先生の話しだと、来月の退院を目標に治療していくので、
大丈夫ということだったが、
目の前の母を見ていると、不安になった。

私がどんよりした顔で車に戻ると、
夫は今日は家族風呂に行こうかと言う。
自宅の風呂や、スーパー銭湯だと、
背中の流しあいができないので、
私たちは時々家族風呂に行く。

ラブラブとか、そういうのではなく、
純粋にお互いをいたわって背中を流す。
お互い崩れまくった体形を、それぞれつっこみつつも、
丁寧に心をこめて背中を流しあう。
天然温泉のお湯がなみなみと満たされた湯船につかったあと、
背中を流してもらうのは本当気持ちがいいものだ。

夕食は、これも夫の提案で、
お中元でいただいた牛肉でスキヤキになった。
ビールも、やはりお中元でいただいたビール券で
ちょっと贅沢をしてエビスビール。
湯上がりに私があれこれ調理するのは大変だろうと気を廻してくれたようだ。

ほんとは、スキヤキはもっと大人数で囲むほうが楽しいのかもしれないが、
湯上がりの中年夫婦2人で、
物静かにゆったりと食べるのも悪くはない。

母のことで落ち込みがちになり、
ついつい母が食べられずにいるからと、
自分たちまで粗食になり、
あまり楽しい時間を過ごさずに来たのだが、
久々にゆったりとした時間を持って、
ちょっと元気になった。

明日は仕事も忙しいが、
明るい元気な顔で母に会いに行けそうだ。

夫は、こういうさりげないフォローが本当にうまいと思う。
ありがたい。



エンドレスバトン

2007年07月21日 | バトン
浪花女の国際結婚  ジェニさんからいただいたバトン。

「エンドレスバトン」

やってみたいと思います!




 ル~ル 

 正直に書くこと!
 お世辞は必要ない!
 エンドレスバトンなので止めない事!

1 誰から回ってきた?

浪花女の国際結婚 ジェニさんからです


2 その人と初めて会った印象は?

まだ会ったことがないです。
ブログに初めてお邪魔したときの印象は、
さばさばしてて男前だけど、
めちゃめちゃ可愛らしい部分のある女性!だと思いました。
で、ブログの文章から、とても頭の回転の早い人だと思いました。



3 その人を色で例えると?

ゴージャスなゴールド。
もしくは、鮮やかなピンク。


4 その人の好きなことは?

ポジティブなところ。
身の回りに起きたことを、客観的に面白おかしく伝えることができるところ。
子育てについての考え方がはっきりしているところ。


5 その人の嫌いなとこは?

なし。


6 その人を野菜で例えると?

大葉とか、生姜とか、和製ハーブ。
存在感があるのに、他の食材と馴染みもよく、
それをちゃんとひきたて、
なおかつ自分自身の特性も主張するところ。


7 その人を動物に例えると?

アビシニアンとか、ペルシャ猫。
ゴージャスそうなかんじが。
でも、最近プールで泳ぎまくっているとのことなので、
イルカかも。



8 その人を最初何歳だと思った?

私より、ちょっとだけ年下。



9 その人は何系?

う~ん、何系と言われてもなぁ。


10 その人は誰にそっくり?

私の脳内では、ブログの文章を読むときは
上沼恵美子の「声」に変換して読んでます。
ジェニさん自身は、若いときは伊藤つかさにそっくりだったとおっしゃっています。
とすると、今はその流れでいくと菊池桃子?(伊藤つかさ系列じゃない?)
上沼恵美子の声をした菊池桃子…
がはは、勝手に想像して笑ってしまった。



11 その人はかわいい?カッコいい?

そりゃもちろん、カッコいい!



5人に指定

では、いつもいつも申し訳ないのですが


びーさん

たまこさん

kyonさん

青空さん

藤田チエさん

お時間のある時、気が向いたらお願いします。


ご心配おかけしました

2007年07月20日 | 日常
今日、夕方母の検査結果がでた。

実はここ数日、かなり体調が悪く、
次兄も私も悪い方向を考えていた。
主治医の先生から話しを聞ける時間、
次兄は仕事だったため、長兄が来て私と話しを聞くこととなった。
次兄のほうから、私がいっぱいいっぱいな様子を聞いた長兄は、
今回はうちに泊まらず、義姉の実家の空き家に泊まる。

仕事を終えて、いったん自宅に戻った私は、
家の3カ所のトイレを念入りに掃除し、
玄関も丁寧に掃除した。
検査結果にこんなことは関係ないとは理屈では分かっているが、
私は何か心にひっかかることがあるときは、
トイレと玄関を掃除することにしている。
掃除しながら気持ちを落ち着かせると言う意味と、
風水の知識はないが、とりあえず玄関とトイレがきれいな家は、
不幸にはならないのではないかと、思っているからだ。

掃除で汗をかいたので、シャワー浴びて、
夫に病院まで送ってもらった。

今日は生協の配達のある日だが、
夫が生まれてはじめて荷受けしてくれるという。
ゴミ捨てや掃除など、夫は今までには考えられないほど、
家事を手伝ってくれている。
まさか生協の荷受けまでしてくれるとは思ってもみなかった。

母は、4人部屋から2人部屋に移されていた。
「病状が悪化したからだろうか…」
悪い予感がしたが、長兄と2人で、
母にはなるべく軽口をたたくようにした。
母は、今朝大きな発作がおき3時間も苦しんだらしい。
酸素マスクをつけられた時の事を母は
「酸素マスク自体が苦しくて、死ぬかと思った」
と言う。
「おい、おい、かあさん。死なないためにつけた酸素マスクだから。」
そう私が言うと、
「あら、そう言えばそうだねぇ。」
力なく笑う母。

その後、主治医に呼ばれて詳しい病状の説明と、
今後の方針を聞いた。
最悪の事態も視野に入れて、ある程度の覚悟を決めていたのだが、
どうやら、それほどのことはないようだった。

たしかに、今の状態はかなり悪いのだが、
食事をちゃんと採り、薬が効けば、
来月中には退院できると先生はおっしゃった。
高齢なのでたしかに油断はできないのだが、
今はいい薬がたくさんあるらしい。

良かった!

病院の食事を食べたがらない母に、
食べないと治らないよと伝え、
早くうちに帰りたかったら、少しづつでも食べようと励ました。
早速、私が持って行ったプリンを食べ、
明日は鉄火巻きを食べて見るという。

皆さん、母は大丈夫です。
明日は、好物の鉄火巻きを持っていくことにします。

長兄は相変わらずのマイペースぶりだったけど、
不思議ともう腹はたちませんでした。

ほんとに、みなさん、
お騒がせ、ご心配をおかけしました。

失敗について

2007年07月19日 | 日常
小さい頃から、失敗することがとても嫌いだった。
小学生時代は、忘れ物とか、指名されて黒板で問題を解くとか、
みんなの前で鉄棒やマット運動を披露するとか、
とにかく人前で恥をかくのがいやだった。
小1の時は、まるで幽体離脱したあとの抜け殻のように、
ぼんやりしていたのだが、
なぜか小2からしゃっきりして
その後万年班長、学級委員だったし、
児童会の初女性会長をつとめていた。
○長とつく役職がいつもまわってきた。

クラスのやんちゃ坊主の面倒をいっきに引きうけ、
何かあればすべて私が責任を問われた。
だから自分が失敗している場合ではなかった。
それは、中学に行っても続いた。

高校にすすみ、肩の力が抜けて、
役職からは要領よく回避できるようになったが、
それでも失敗をしたくない!
という強い強迫観念だけは残った。

それは数年前まで続いた。

何かやるときには、事前にきっちり用意万端整えてからでないと、
不安でしかたがない。
もし、ダメだったときのことを考えての別の手も考えておいた。
自分の立てた予定どおり、予測どおり事が進んでいけば安心した。
好きなことわざは「転ばぬ先の杖」、
好きな四文字熟語は、「準備万端」とか、「用意周到」だった。

しかし、私はいたってアクシデントに弱かった。
思いも寄らないことが起きると、
それについて臨機応変に対応するのが苦手だった。
「あああああああ~~~」
と、頭の中で絶叫しつつ顔は平静を装いながらも、
いっぱいいっぱいになり、
私の立てた計画や準備を台無しにした原因を、
逆恨みしまくった。
そして失敗すると、いつまでもくよくよめそめそ落ち込んだ。

こういう私の性格を、夫は辛抱強くフォローし、
大丈夫。平気、平気。たいしたことではない。
と、なだめつづけた。

私のこの失敗を極度に恐れる性格のせいで、
娘にも随分影響を与え、本当に申し訳ないことをしたと思っている。
反省し、ここ1~2年は、かなり鷹揚になってきたつもりである。


尊敬する知人に、
「失敗のなかに、学ぶことがたくさんあるんだから恐れずに、
 たくさん失敗すればいいんだよ」
と、言われた。

失敗しないように、がちがちになって四角四面な過ごし方をするよりも、
失敗したときにどう対応するかとか、
失敗しても周囲がさっとフォローしてくれるような人間関係を
ふだんから作っておくとかのほうが大事だとようやく気がついた。

と言いながらも、今朝仕事のことでミスに気がつき、
それも私自身ではなく他の人に迷惑が及ぶことだったもあり、
私は久々にパニック状態だった。

朝5時に起きて、仕事の下準備をしていて、
そのミスに気がついたときは、
心臓がばくばくし、血の気がひいた。
お腹も痛くなり、吐きそうになった。

大きく深呼吸をし、「大丈夫、なんとかなる」
と、自分に言い聞かせて対処した。

そして、それは、ちゃんとなんとかなった。
なんとかなったのか、なんとかしたのか、なんとかしてもらったのかは、
微妙である。
許してくれた周囲の人たちや、
フォローしてくれる人がいることに感謝しつつ、
私は失敗するということと、向き合っていこうと思う。


気持ちや誠意

2007年07月17日 | 日常
すんません。
愚痴です。
多分、今日の記事は負のオーラが出そうです。
そういうの苦手なかたは、スルーしてってください。


母の体調は日によって時間によって随分変わる。
昨日の昼ごろは調子が悪く、見舞客と話しもできなかったと、
今日私が行った時に母が言った。
見舞い?誰が来たの?
そう聞くと、長兄の奥さんと長女が来たという。
そういえば、連休に長兄の奥さんが自分の実家の墓参りに行くので、
病院に見舞いに行くと長兄からメールが来ていた。
また、中途半端なお土産で母の体調が悪くなっても困るので、
食べるものは持ってこないでねと返信しておいたのだった。

母はお花が大好きである。
食べるものを持って来ないでと言っておけば、
当然アレンジメントか何かを持って来てくれるだろうと思っていた。
もしくは何枚あってもありがたいパジャマや下着やタオルなど。

母のベッドの周りを見渡すが、何もない。
どうやら手ぶらで来たらしい。
手ぶらって…。
ま、手ぶらは百歩譲っていいとしても、
せめてこちらに来ているのなら、見舞いのあとにでも
電話の1本でもしてきたらどうなんだろう。
母とは満足に会話もできなかったのなら、
詳しい容態を尋ねるために
私か次兄に電話してきてもいいのではないだろうか?
べつに兄嫁によろしくとお願いされずとも、
私も次兄もちゃんと母の看病はするが、
それでも「お願いしますね」とか
口先だけでも「何かできることはない?」
くらい言ってきてもよくはないのか?

なんだそれ。
いい大人がさ。

次兄は、長兄に電話したという。
長兄の顔を見れば、母もきっと嬉しくて元気になるから、
近いうちに来ないかと。
でもさ、そういうことって、
次兄から言わなくても長兄のほうで気付かないのだろうか。
母の容態も、次兄から電話をかけるばかりで、
長兄のほうからかけてくることはほとんどないという。
たまに自分からかけてこいっちゅうんじゃっ
と、温厚な次兄がぼやいていた。

で、長兄は近々こちらに来ると次兄に言ったらしい。
当然のように私のうちに泊まるんだと思うが、
私のほうには何も言って来ない。
こっちだって都合がある。
今は、仕事と病院通いでばたばたしている。
長兄が来れば長兄の食事の支度や、泊まる用意もしなければいけない。
こちらに来るつもりがあるのなら、
私のほうに××日に行きたいけど、
都合はどうかと聞いてきて当然ではないのか?
まぁ、こうしてブログをする時間の余裕はあるわけだから、
文句も言えないのかもしれないが、
それにしても、何を考えているのか、
全く理解に苦しむ長兄一家。

自分の身内だと思うと情けなくて仕方がない。
母のためには、長兄が来たほうがいいと理屈では分かっているが、
気持ちや誠意が全く見えてこない長兄たちに、
腹がたってしかたないが。

こういのを小姑根性というのだろうか。
鬼千匹ってやつね。
このままじゃあ、鬼の大軍勢になりそうである。



映画鑑賞

2007年07月16日 | 日常
昨年撮影に参加した映画が、現在公開中だ。

ここのところ公私ともに忙しくなかなか観に行くことができなかったが、
昨日ようやく夫と一緒に観てきた。

「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

炎天下のもと、だらだら汗をかきつつ喪服でロケに参加したことなどを
懐かしく思い出しつつの鑑賞。


私は映画の冒頭(ほんとに最初に口を開く)で、
葬儀中にうわさ話をしている主婦の声で出演している。
これまでのうわさ話キャラとして培ってきた力を結集し、
方言丸出しでひそひそ話をして、
主人公一家の家の事情についてうわさ話をしている。

残念ながら顔はうつっていない。
遠目で一瞬、とか、
肩越しとか、もう本人以外分からない程度にうつっているだけである。
食事のシーンなんかも、あんなに時間をかけて撮影したにもかかわらず、
自分ですら見つけることはできなかったが、
自慢の「方言でのひそひそうわさ話」の演技力←(自分で言うのもなんですけど・笑)を、
いかんなく発揮できていたので満足。

映画そのものは、なかなか面白い作品になってました。
家族みんなで観るようなアットホームな作品では絶対ありませんが、
ひとりで観るのにはいい作品だと思う。
永瀬さんの方言はすごく上手い!
演技もさすが。
永作博美さんの演技も、ほんとにびっくりするような存在感。

もともとは、舞台の作品で(舞台もすごく面白い)
小説にもなり、映画化された。
舞台、小説、映画、それぞれ少しづつディテールを変えているけど、
どれもそれぞれその分野の特性を生かした内容になっているところがスゴイと思う。

機会があれば、どうぞご覧になってくださいませ。



方言指導

2007年07月14日 | 仕事
ずっとここ最近取り組みつづけている、
ウエブ用学習教材アニメの吹き替え500本の仕事は、
とうとうあと100本をきった。
このペースだとおそらく今月末までには完成しそうである。
母の病状が好転し、抱えている仕事のゴールが見えてきたので、
気持ちが軽くなった。

昨日は、近々こちらの地元でロケのある映画の脚本の、
地元シーンの台詞をすべてこちらの方言になおして
吹き込むという仕事もしてきた。
こちらを舞台にした映画なので、
こちらの方言を話す役柄がたくさん出てくる脚本である。

夫と2人で相談しながら、アクセント、イントネーション、語尾を、
細かく台本に書き込んで行き、
実際に声にしてチェックしていく。
助監督にその台詞のニュアンスを確認し、
台詞の意図とはずれないように、
その役柄の年齢や職業を考慮しつつ、
どこまで方言を使うのかを相談した。

で、夫と私でシーンごとに、方言での台詞のやりとりを通して録音。
通した後、ひとつの台詞を2度づつゆっくり読んで録音。

これまで何度も、こういう録音はしてきたが、
感情をいれないでアクセントとイントネーションだけが
分かるようにしてほしいという場合と、
今回のように感情もいれてふつうに台詞として読んでほしいという場合がある。

夫とお互いにダメ出しをしつつ、
不自然にならないように方言の台詞を作っていった。
CMやビデオのナレーションをする際は、
訛りが出ないように細心の注意をして標準語で収録しているのだが、
方言指導用の録音のときは訛り放題である。

私は地元のことばが大好きである。
私のような仕事をしていると、ふだんも標準語で話しをする人が多い。
私は気の張る打ち合わせの時以外は、
録音ブースや、舞台から降りた瞬間からこてこての地元ことばをつかう。
言うなれば、標準語と地元ことばのバイリンガルといったところだ。

そんなわけで、映画やドラマの方言指導はかなり楽しい。
今回は、撮影現場につきあって役者さんたちに直接指導することになるのか、
まだ決まっていない。
母の体調がもう少し回復すれば、ぜひ現場に出たいものである。


心配して、心配されて

2007年07月13日 | 日常
ホームドクターからの紹介で
大病院へ入院することになった11日のこと。

車椅子に母を乗せ、迷路のような院内をあっちへ行き、こっちへ行きし、
午前中いっぱいかかって様々な検査をした。
母は、へとへとになっていた。
どこの検査も、診察も混雑している。
動悸と息切れで車椅子に座っていることすら辛い母なのだが、
そのへんへの考慮や配慮は残念ながらない。
大病院に診察してもらいに来ている人は、
みんな調子が悪いのだから特別扱いはしてもらえない。
しかし、こんなにしんどい思いをさせるくらいなら、
自宅で静かに横になっていたほうがいいのではないかとすら思った。

午後から仕事がある次兄は、母のことを気にしつつも途中で帰った。
母は、自分が青息吐息なのにもかかわらず、
私が缶コーヒーを買おうとすると、
自分の財布から小銭を出そうとする。
いいよ、缶コーヒーくらい自分で買えるよ、かあさん。

お昼を過ぎても、まだ診察の順番はまわってこない。
「あんた、ごはん食べてきなさい。」
母は、私に自分の財布を押しつける。
かあさんを残してご飯なんか食べに行かないよ。
それに、ご飯を食べるお金も持ってるから。

お昼すぎにようやく診察が終わり、
私だけが呼ばれて今後の治療方針を説明してもらった。
検査の数値のほとんどは、危険ゾーンを表す赤字で印字されていた。
担当の先生が驚くほど、状態は悪かった。
「お母さん、しっかりしていらっしゃるので、
 まさかこんなにひどい状態だとは思ってもみませんでした。
 こんなになるまでがまんされていたなんて。」
そう開口一番言われた。
年齢から言っても、何が起きても仕方がない状況らしい。
しかし、薬が効けば劇的に良くなる可能性もあるという。

とにかく点滴で薬をいれ、口からの栄養摂取では限界があるため、
絶食にして、栄養も点滴からいれることになった。

鼻の穴からは酸素ボンベの管。
やせ細った腕に、2カ所から点滴の管。
固くなった血管にはなかなか針が入らなかった。

どうしても、ポータブルトイレをベッドの横に置くのはイヤなので、
トイレのたびに車椅子で病室から離れたトイレに行くと言い張っていた母。
しかし尿の量を量る必要があると先生に説得され、
ベッドの横にポータブルトイレを置くことになった。

医療ミスを防ぐとかで、右腕には名前を書かれた紙テープが巻かれた。
ブレスレットみたいじゃん。
ムリにそんなことを言ってみた。
「あんまりおしゃれなデザインじゃないねぇ」
か細い声で母がこたえる。

「がんじがらめになったわ」
と、泣き顔でつづける母。

鎖につながれ囚われ身のお姫さまだと思ってね。

そんな中途半端なことしか言えない娘に、母が言った。

あんた、もう帰りなさい。
雨が降りそうだよ。
傘、持ってきたの?

いいよ、かあさん。
私の傘の心配なんかしなくても。
大丈夫だから。
自分のことだけ心配してなさいよね。

それだけ言って、病院をあとにした。
私のことを本気で心配してくれるのは、
もしかして世界で母ひとりかもしれない。
母の心配がうざったくて仕方がないときもあったが、
今は、うざったくて、でも、うれしい。

かあさんには、もっと長生きしてもらって、
まだまだ私の心配をしてもらわないと。

母の再入院

2007年07月10日 | 日常
母の体調がよくない。

じつは数日前、私が仕事で4時間ほど留守にしているあいだに、
ちょっとした大変なことになっていた。
几帳面で、気丈な母はふらふらしつつ
その大変なことを自分で始末しようとして、
途中で力尽きた。

4時間以上留守にしないようにしつつ、
三食手作りの食事を用意して頑張っていたが、
やはり仕事をしながらの介護は難しい。
介護認定をうけて、ヘルパーさんを派遣してもらおうと、
今日の午前中に説明を聞きに行った。
午後、ホームドクターの往診の際、
先生から「介護認定以前に、しばらくまた入院するのが先決だ」と言われた。
母はこの先生の病院以外にかかったことがない。
が、先月末でこちらは入院患者の受け入れを中止した。
地元の大病院に、先生の紹介で入院することになった。
しぶる母を、先生が説得した。

明朝、次兄が迎えに来る。
2階の母の部屋から、車庫まで次兄がおぶっていくという。
私と次兄に付き添われて母は再入院となる。

先日、長兄に現在の状況を説明するために電話した。
母が退院してきた日に1度だけ長兄から電話があっただけで
それ以後なしのつぶてだった。
2度ほど母あてに、自分の近況だけを書き連ねた葉書を送ってきていた長兄。
私からの電話にもどこか他人事のような、
全く親身にならない生返事が返ってきたので、
私はもう2度と長兄に電話したくないと次兄に言った。

次兄が長兄に明日の母の再入院の件について電話した。
そのあと私に電話があった。
「あれじゃあ、お前が腹をたてるのもムリないわなぁ。」
次兄が言った。
「離れて暮らしているからなぁ。わしらで頑張ろうな。」

それでも母は、長兄から届いた葉書を大切そうに、
入院のための荷物のなかに仕舞っていた。