今朝、ゴミ出しに行く途中で
スキップしている幼稚園児と遭遇した。
足元の悪いなか、滑らないかと思いつつも、
微笑ましく見守った。
で、思い出したことがある。
私は長いことスキップができなかった。
小学校の2年生くらいでようやく
ちゃんとしたスキップができるようになった記憶がある。
保育園に年長クラスからいきなり通いだし、
わずか数ヶ月で中退した私だが、
(詳しくは ここを読んでね)
その一因にこの「スキップができない」というのもたしかにあった。
年長組のユリ組さんのほとんどは、
年少組のばら組からか、
もしくは年中組のキク組からの子だった。
たしかユリ組から入ったのは、
私ともうひとり、
関西から引っ越してきた男の子だけだったように思う。
もちろん、関西から引っ越してきた男の子は、
初日から持ち前のサービス精神と、
人なつっこさですっかりユリ組のみんなとなじんでしまった。
前にも書いたかと思うが、
私は保育園に通い出すまでずっと家の中だけで遊んでいた。
たくさんの同年代の友達を見るのは初めてだったし、
団体行動の意味も良く分かっていなかった。
みんなで一斉に何かするというのがとても苦痛だった。
毎日、嫌々泣く泣く母に手をひっぱられて通っていた。
で、初めてのお遊戯の時間だった。
「さ~、みんな手を繋いでスキップするわよ」
という先生の声に私は「???」となった。
スキップって何?状態。
きょとんとしている私に、先生が
「ほら、pecoちゃんもやってみて」
と、促す。
楽しげにスキップするみんなの様子を横目で見て、
「ん?こんなかんじか?」
と、おそるおそる私がやったのは、
お世辞にもスキップと呼べる代物ではなかった。
今思えばそれは、
疲れ果てた老人のツーステップみたいなことをしていた。
ここで、この先生が
「あらあら、pecoちゃんこういう風にやるのよ」
と優しく教えてくれれば良かったのだが、
先生はとても忙しかった。
とにかく私にみんなのお遊戯の輪に入れと背中を押した。
ワケも分からず私は、
楽しげにぴょんぴょんスキップをする仲間の輪に、
疲れ果てた老人のツーステップのまま入った。
不幸にもそんな私と組んだ男の子は、
歩幅とテンポがあわず転びそうになっている。
それを見た他のやんちゃ坊主が
「がはは、へ~んなスキップ。
お前スキップもできないのかぁ?」
と、大笑いする。
世話焼きタイプの女の子は、
「もうっ!××くん。そんなことを言うもんじゃないよ。
pecoちゃんが可哀相やよ。」
と、声を張り上げる。
お、ちょっと待ってくれ。
私は可哀相なのか?
その、みんなが意味も無く笑顔でぴょんぴょん飛び跳ねる
「スキップ」とやらができない私は、
人から笑われたり、
可哀相と言われなければならない存在だったとは…。
ここで、心機一転頑張ってスキップをマスターし、
みんなととけ込もうとすれば良かったのだろうが、
当時の私はそんな前向きな性格ではなかった。
ふん。
できてなくてもいいし。
お部屋でご本読んでるほうがずっと楽しいし。
なんでにこにこ顔でびょんぴょんしながら
同じとこをぐるぐる回らなきゃいかんのよ。
あほか。
私はお遊戯を放棄して、園庭からユリ組のお部屋に戻った。
もちろん、周囲の子たちは例の
「あ~じゃじゃ、あ~じゃじゃ。
い~んですかぁ、い~んですかぁ。
せ~んせいに言うてやろ~、
言うてやろ~言うてやろ~」
の大合唱となった。
知らんがな。
言いたければ言え。
お前らなんかあるとすぐみんなでその歌の大合唱か。
そんなにその歌が好きか。
アホどもめがっ。
迎えに来た先生がどんなに優しく誘っても、
それから私はスキップやお遊戯を一緒にしない、
偏屈な年長児だった。
結局このあと保育園を中退し、
小学校入学まで家でぶらぶら気ままに好きなことだけして暮らした。
そのため、また小学校1年で私はまた大変な苦労をする。
こんなことなら、保育園でちゃんといろんなことや、
集団行動をきちんとやっておけば良かったと
ものすごく後悔するのだが、
それはまた別の日に。
スキップしている幼稚園児と遭遇した。
足元の悪いなか、滑らないかと思いつつも、
微笑ましく見守った。
で、思い出したことがある。
私は長いことスキップができなかった。
小学校の2年生くらいでようやく
ちゃんとしたスキップができるようになった記憶がある。
保育園に年長クラスからいきなり通いだし、
わずか数ヶ月で中退した私だが、
(詳しくは ここを読んでね)
その一因にこの「スキップができない」というのもたしかにあった。
年長組のユリ組さんのほとんどは、
年少組のばら組からか、
もしくは年中組のキク組からの子だった。
たしかユリ組から入ったのは、
私ともうひとり、
関西から引っ越してきた男の子だけだったように思う。
もちろん、関西から引っ越してきた男の子は、
初日から持ち前のサービス精神と、
人なつっこさですっかりユリ組のみんなとなじんでしまった。
前にも書いたかと思うが、
私は保育園に通い出すまでずっと家の中だけで遊んでいた。
たくさんの同年代の友達を見るのは初めてだったし、
団体行動の意味も良く分かっていなかった。
みんなで一斉に何かするというのがとても苦痛だった。
毎日、嫌々泣く泣く母に手をひっぱられて通っていた。
で、初めてのお遊戯の時間だった。
「さ~、みんな手を繋いでスキップするわよ」
という先生の声に私は「???」となった。
スキップって何?状態。
きょとんとしている私に、先生が
「ほら、pecoちゃんもやってみて」
と、促す。
楽しげにスキップするみんなの様子を横目で見て、
「ん?こんなかんじか?」
と、おそるおそる私がやったのは、
お世辞にもスキップと呼べる代物ではなかった。
今思えばそれは、
疲れ果てた老人のツーステップみたいなことをしていた。
ここで、この先生が
「あらあら、pecoちゃんこういう風にやるのよ」
と優しく教えてくれれば良かったのだが、
先生はとても忙しかった。
とにかく私にみんなのお遊戯の輪に入れと背中を押した。
ワケも分からず私は、
楽しげにぴょんぴょんスキップをする仲間の輪に、
疲れ果てた老人のツーステップのまま入った。
不幸にもそんな私と組んだ男の子は、
歩幅とテンポがあわず転びそうになっている。
それを見た他のやんちゃ坊主が
「がはは、へ~んなスキップ。
お前スキップもできないのかぁ?」
と、大笑いする。
世話焼きタイプの女の子は、
「もうっ!××くん。そんなことを言うもんじゃないよ。
pecoちゃんが可哀相やよ。」
と、声を張り上げる。
お、ちょっと待ってくれ。
私は可哀相なのか?
その、みんなが意味も無く笑顔でぴょんぴょん飛び跳ねる
「スキップ」とやらができない私は、
人から笑われたり、
可哀相と言われなければならない存在だったとは…。
ここで、心機一転頑張ってスキップをマスターし、
みんなととけ込もうとすれば良かったのだろうが、
当時の私はそんな前向きな性格ではなかった。
ふん。
できてなくてもいいし。
お部屋でご本読んでるほうがずっと楽しいし。
なんでにこにこ顔でびょんぴょんしながら
同じとこをぐるぐる回らなきゃいかんのよ。
あほか。
私はお遊戯を放棄して、園庭からユリ組のお部屋に戻った。
もちろん、周囲の子たちは例の
「あ~じゃじゃ、あ~じゃじゃ。
い~んですかぁ、い~んですかぁ。
せ~んせいに言うてやろ~、
言うてやろ~言うてやろ~」
の大合唱となった。
知らんがな。
言いたければ言え。
お前らなんかあるとすぐみんなでその歌の大合唱か。
そんなにその歌が好きか。
アホどもめがっ。
迎えに来た先生がどんなに優しく誘っても、
それから私はスキップやお遊戯を一緒にしない、
偏屈な年長児だった。
結局このあと保育園を中退し、
小学校入学まで家でぶらぶら気ままに好きなことだけして暮らした。
そのため、また小学校1年で私はまた大変な苦労をする。
こんなことなら、保育園でちゃんといろんなことや、
集団行動をきちんとやっておけば良かったと
ものすごく後悔するのだが、
それはまた別の日に。
先日テレビでリア・ディゾンを見ていて
「どこかでこの子に会ったことがあるような…」
と言う気がしてならなかった。
もちろん会ったことなどあるはずもない。
なんでだろ?
う~ん?
あ。
中学の時の同級生に、リア・ディゾン似の子がいたんだ!
そう、ほんとそっくり。
お人形のような可愛い顔をした子で、
同性の私も「可愛いな~」
としげしげと顔を見たくなるような子だった。
とりあえずキョロ(仮名)としておこう。
初めてキョロと同じクラスになった私は、
世の中にこんなにきれいな顔をした女の子がいることに驚いた。
近所の社長さん宅のピアノの上に飾ってある
フランス人形にそっくりだと思った。
当時、度の強い黒縁メガネをかけ、
きっちり三つ編みをし、
学級委員や生徒会役員をして、
仁王立ちをしつつ
「こらっ、そこの男子っ!ちゃんと掃除してっ」とか
「自習時間中に騒ぐのはやめてっ」とか叫んでいた私とは
とても同じ女の子とは思えなかった。
キョロは、当然モテモテだった。
クラスの半分近くの男子がキョロを好きだったのではないかと思う。
キョロは、そういう男子にとても愛想が良かった。
そして上手に手玉に…おっと、あしらっていた。
掃除の時間、まじめに掃除しない男子と
きゃっきゃっとふざけていたキョロは、
教壇に飾ってあった花瓶にぶつかり落としてしまった。
もちろん花瓶は割れ、破片は散って、周囲の床は水浸しになった。
「きゃ~っ!どうしよう。
割れちゃったぁ。」
可愛い顔に涙目になったキョロは、本当に可愛かった。
「大丈夫か?」
「ケガしてないか?」
男子が駆け寄る。
女子も心配して駆け寄る。
私は、とりあえず破片を拾い集め、
雑巾で床を拭いた。
小さい破片が指に刺さりちょっと血が出た。
「イタっ」
思わず声が出たが、誰も私のほうは見なかった。
ぶつかって花瓶を落としただけのキョロがケガをするわけはないのに、
みんな涙目のキョロを慰めるのに忙しそうだった。
だいたい当時の私は(まぁ今もさほど変わらないと思うが)
「大丈夫?」と心配してもらえるようなキャラではなかった。
きれいに後始末をし、
担任に花瓶が割れたことを伝え謝り、
代わりの花瓶をもらい、花を生け直し、
ひとりで保健室へ行き傷絆をはった。
かなり寂しい思い出だ。
今度生まれ変わるのなら、キョロような顔に生まれて
みんなにちやほやされたり、
心配されたりする人生を味わってみたいと当時は思った。
が、人生経験を重ねるうちに
キョロのようなキャラはキャラで
いろいろ大変なのだということが分かった。(負け惜しみではない)
30代後半の時に同窓会で会ったキョロは
相変わらず美しかったが、かなり波瀾万丈の人生だった。
しかし、男あしらいの腕前はさらに磨きがかかっていた。
その後私は同窓会には出ていない。
また会ってみたい気もする。
「どこかでこの子に会ったことがあるような…」
と言う気がしてならなかった。
もちろん会ったことなどあるはずもない。
なんでだろ?
う~ん?
あ。
中学の時の同級生に、リア・ディゾン似の子がいたんだ!
そう、ほんとそっくり。
お人形のような可愛い顔をした子で、
同性の私も「可愛いな~」
としげしげと顔を見たくなるような子だった。
とりあえずキョロ(仮名)としておこう。
初めてキョロと同じクラスになった私は、
世の中にこんなにきれいな顔をした女の子がいることに驚いた。
近所の社長さん宅のピアノの上に飾ってある
フランス人形にそっくりだと思った。
当時、度の強い黒縁メガネをかけ、
きっちり三つ編みをし、
学級委員や生徒会役員をして、
仁王立ちをしつつ
「こらっ、そこの男子っ!ちゃんと掃除してっ」とか
「自習時間中に騒ぐのはやめてっ」とか叫んでいた私とは
とても同じ女の子とは思えなかった。
キョロは、当然モテモテだった。
クラスの半分近くの男子がキョロを好きだったのではないかと思う。
キョロは、そういう男子にとても愛想が良かった。
そして上手に手玉に…おっと、あしらっていた。
掃除の時間、まじめに掃除しない男子と
きゃっきゃっとふざけていたキョロは、
教壇に飾ってあった花瓶にぶつかり落としてしまった。
もちろん花瓶は割れ、破片は散って、周囲の床は水浸しになった。
「きゃ~っ!どうしよう。
割れちゃったぁ。」
可愛い顔に涙目になったキョロは、本当に可愛かった。
「大丈夫か?」
「ケガしてないか?」
男子が駆け寄る。
女子も心配して駆け寄る。
私は、とりあえず破片を拾い集め、
雑巾で床を拭いた。
小さい破片が指に刺さりちょっと血が出た。
「イタっ」
思わず声が出たが、誰も私のほうは見なかった。
ぶつかって花瓶を落としただけのキョロがケガをするわけはないのに、
みんな涙目のキョロを慰めるのに忙しそうだった。
だいたい当時の私は(まぁ今もさほど変わらないと思うが)
「大丈夫?」と心配してもらえるようなキャラではなかった。
きれいに後始末をし、
担任に花瓶が割れたことを伝え謝り、
代わりの花瓶をもらい、花を生け直し、
ひとりで保健室へ行き傷絆をはった。
かなり寂しい思い出だ。
今度生まれ変わるのなら、キョロような顔に生まれて
みんなにちやほやされたり、
心配されたりする人生を味わってみたいと当時は思った。
が、人生経験を重ねるうちに
キョロのようなキャラはキャラで
いろいろ大変なのだということが分かった。(負け惜しみではない)
30代後半の時に同窓会で会ったキョロは
相変わらず美しかったが、かなり波瀾万丈の人生だった。
しかし、男あしらいの腕前はさらに磨きがかかっていた。
その後私は同窓会には出ていない。
また会ってみたい気もする。
バレンタイン、今年は夫にチョコレートは贈らなかった。
毎年あげても、そんなに嬉しそうでもないし。
今年は少し早めにニットの帽子をプレゼントしただけ。
しかも一緒に帽子専門店に行って、好きなのを夫に選ばせたので、
さほどの感動もなし。
ま、銀婚式を過ぎた夫婦なんてこんなもんですわ。
あとは、仕事がらみの義理チョコというか感謝チョコを数個と、
異性の友人に友愛チョコを数個、
同性の友人に友チョコを数個。
思えば、中学時代のドキドキ感はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。
ほんと、最近ドキドキしない。
たまにドキドキしたかと思うと、それは動悸だったりするので、
気をつけないといけない。
私のバレンタインがらみの一番楽しかった想い出は、
なんといっても中3の時。
毎月くじ引きで席替えがあったのだが、
なぜか夏休み明けから2月まで
偶然にもずっとMくんと隣り同士だった。
頭が良くて優しくて、剣道部で、
でもどこか抜けたところもあって、
なんて言うか適度なすきみたいなのがあるので、
一緒にいるとほっとするタイプだった。
しょっちゅう教科書や資料を忘れてくるMくんと、
机をくっつけて一緒に勉強するのが楽しかった。
数学が苦手な私はMくんに習い、
国語が苦手なMくんは私に習った。
バレンタインに思い切ってチョコをあげたら、
数日後に放課後美術室前に呼び出されて、
「僕も前から……好きだった」と言われたっけ。
この、「……」の間が絶妙だった。
あんなにすてきな「……」は、その後の人生で聞いたことがない。
夫は出会った当時は頭の回転が早く、
芝居をしているせいもあり、立て板に水で喋るので、
言葉に「間」というものがなかった。
今は、頭の回転がたいそう遅くなり、
「間」だらけだが、残念ながらそれはすてきな間ではない。
まだるっこしい間でしかない。
閑話休題。
さてMくんとは、卒業式までの期間、一緒に帰ったり電話したり、
いわゆる当時の中学生らしい正しい男女交際をし、
春休みに4組のカップルで隣県まで日帰りバス旅行したり、
カーペンターズのコンサートに行ったりした。
秀才だったMくんは進学校にすすみ、
私はほどほどの高校にすすみ、
携帯電話もメールもなかった当時としては当然だが
なかなか会う機会もなくなって共通の話題もなくなり
自然消滅した。
べつに喧嘩したわけでも、嫌いになったわけでもないので、
今でもカーペンターズを耳にすると、
ちょっとだけ当時のことを思い出す。
私は中学の同窓会には行っていないので、
その後Mくんとは一度も会っていない。
風の噂で医学の道に進んだと聞いた。
先日Mくんの名前で、ネット検索をかけてみたら、
医学博士としていくつかの論文を書いているようだった。
さすがMくん。
あの頃、もう少し頑張って交際が続くようにしていたら、
もしかして今ごろは医学博士の奥様だったかもしれない…
なんてことはみじんも思わないけどさ。
毎年あげても、そんなに嬉しそうでもないし。
今年は少し早めにニットの帽子をプレゼントしただけ。
しかも一緒に帽子専門店に行って、好きなのを夫に選ばせたので、
さほどの感動もなし。
ま、銀婚式を過ぎた夫婦なんてこんなもんですわ。
あとは、仕事がらみの義理チョコというか感謝チョコを数個と、
異性の友人に友愛チョコを数個、
同性の友人に友チョコを数個。
思えば、中学時代のドキドキ感はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。
ほんと、最近ドキドキしない。
たまにドキドキしたかと思うと、それは動悸だったりするので、
気をつけないといけない。
私のバレンタインがらみの一番楽しかった想い出は、
なんといっても中3の時。
毎月くじ引きで席替えがあったのだが、
なぜか夏休み明けから2月まで
偶然にもずっとMくんと隣り同士だった。
頭が良くて優しくて、剣道部で、
でもどこか抜けたところもあって、
なんて言うか適度なすきみたいなのがあるので、
一緒にいるとほっとするタイプだった。
しょっちゅう教科書や資料を忘れてくるMくんと、
机をくっつけて一緒に勉強するのが楽しかった。
数学が苦手な私はMくんに習い、
国語が苦手なMくんは私に習った。
バレンタインに思い切ってチョコをあげたら、
数日後に放課後美術室前に呼び出されて、
「僕も前から……好きだった」と言われたっけ。
この、「……」の間が絶妙だった。
あんなにすてきな「……」は、その後の人生で聞いたことがない。
夫は出会った当時は頭の回転が早く、
芝居をしているせいもあり、立て板に水で喋るので、
言葉に「間」というものがなかった。
今は、頭の回転がたいそう遅くなり、
「間」だらけだが、残念ながらそれはすてきな間ではない。
まだるっこしい間でしかない。
閑話休題。
さてMくんとは、卒業式までの期間、一緒に帰ったり電話したり、
いわゆる当時の中学生らしい正しい男女交際をし、
春休みに4組のカップルで隣県まで日帰りバス旅行したり、
カーペンターズのコンサートに行ったりした。
秀才だったMくんは進学校にすすみ、
私はほどほどの高校にすすみ、
携帯電話もメールもなかった当時としては当然だが
なかなか会う機会もなくなって共通の話題もなくなり
自然消滅した。
べつに喧嘩したわけでも、嫌いになったわけでもないので、
今でもカーペンターズを耳にすると、
ちょっとだけ当時のことを思い出す。
私は中学の同窓会には行っていないので、
その後Mくんとは一度も会っていない。
風の噂で医学の道に進んだと聞いた。
先日Mくんの名前で、ネット検索をかけてみたら、
医学博士としていくつかの論文を書いているようだった。
さすがMくん。
あの頃、もう少し頑張って交際が続くようにしていたら、
もしかして今ごろは医学博士の奥様だったかもしれない…
なんてことはみじんも思わないけどさ。
母の入院で、兄妹3人が揃う時間が増えた。
それぞれ別の時間に行くこともあったが、
3人で一緒に見舞うことも何度かあった。
ここ最近、めったに兄妹3人で並んで歩くこともなかったので、
病院の長い廊下を歩きながら子供の頃のことを思い出した。
うちではなぜか、大晦日の日中、
年越しの準備で忙しい大人たちの邪魔にならないように、
子供たちは映画に行くことになっていた。
長兄と次兄が小さいときは父が引率して行っていたらしいが、
私が物心つく頃は、長兄が大学生として帰省していたので、
長兄が引率した。
それは、私が小学校半ばまで続いた習慣だった。
観たい映画は、もちろんばらばら。
長兄は洋画しか観ない。次兄は邦画専門。
それもクレイジーキャッツとか、
ドリフターズとか、コント55号とか
そういうお笑い系が好き。
私は子供向けのものが見たかったが、
私の意見が取り入れられることはほとんどなかった。
たいてい長兄と次兄の話し合いか、
じゃんけんで観るものが決まった。
私は、洋画の字幕を読めなかったので、
とりあえず次兄を応援した。
今思うと、長兄の見たい洋画を見ることが多かったように思う。
上映中、私が映画に新しい登場人物が出てくるたびに、
「あの人、いいもん(良い人)か?わるもん(悪い人)か?」
とうるさく質問するのを、
長兄は「しっ。」とたしなめ、
次兄は自分も理解していないにもかかわらず、
「いいもん。」「ちょいわるもん。」と、教えてくれた。
見終わった後必ず喫茶店かパーラーに寄った。
ホットケーキと、クリームソーダを楽しみつつ(私はこちらのほうが楽しみだった)
洋画の場合は長兄から事細かに映画の内容について説明してもらった。
次兄は「え?そうなんか?わし、完全に勘違いしとったわ」とか
「あのラストはそんな意味やったんか!」
などと、やはりよく理解していないようだった。
賢い長兄、単細胞な次兄。
そんな図式だった。
でも、次兄は自分が好きな映画を選べる数少ないチャンスの時に、
私の見たい子供向け映画をわざと選んでくれたりした。
上映中の私のうるさい質問にも怒らずに、
少しピントがずれてはいたものの
必ずこたえてくれたのも次兄だった。
そのかわり、機嫌の悪いときはよくぶたれた。
もちろん加減していたが、怒鳴り声も大きかったし、
言葉も荒い次兄のことを恐いと思うこともよくあった。
そんな次兄も年をとり、なんだか随分性格がまるくなった。
長兄は、相変わらずである。
賢さは変わらないのだが、
長兄程度の賢さを頼りにするほど私はもう子供ではなくなった。
長兄は母の病状が安定したのを見て、週末にいったん家に帰った。
今日は次兄と2人で1日2回の面会時間に母に会いに行った。
今日の母も気分が良かったようであれこれおしゃべりをした。
が、さすがに長期にわたる入院で、
どうも記憶が前後したり、夢と現実をごっちゃにしているところが出始めた。
一瞬戸惑う私を制して、
「うん。うん。そうだよな。」
と母に話しをあわす次兄の横顔は昔映画館で私に
いいもんかわるもんかを教えてくれていた頃の顔になっていた。
それぞれ別の時間に行くこともあったが、
3人で一緒に見舞うことも何度かあった。
ここ最近、めったに兄妹3人で並んで歩くこともなかったので、
病院の長い廊下を歩きながら子供の頃のことを思い出した。
うちではなぜか、大晦日の日中、
年越しの準備で忙しい大人たちの邪魔にならないように、
子供たちは映画に行くことになっていた。
長兄と次兄が小さいときは父が引率して行っていたらしいが、
私が物心つく頃は、長兄が大学生として帰省していたので、
長兄が引率した。
それは、私が小学校半ばまで続いた習慣だった。
観たい映画は、もちろんばらばら。
長兄は洋画しか観ない。次兄は邦画専門。
それもクレイジーキャッツとか、
ドリフターズとか、コント55号とか
そういうお笑い系が好き。
私は子供向けのものが見たかったが、
私の意見が取り入れられることはほとんどなかった。
たいてい長兄と次兄の話し合いか、
じゃんけんで観るものが決まった。
私は、洋画の字幕を読めなかったので、
とりあえず次兄を応援した。
今思うと、長兄の見たい洋画を見ることが多かったように思う。
上映中、私が映画に新しい登場人物が出てくるたびに、
「あの人、いいもん(良い人)か?わるもん(悪い人)か?」
とうるさく質問するのを、
長兄は「しっ。」とたしなめ、
次兄は自分も理解していないにもかかわらず、
「いいもん。」「ちょいわるもん。」と、教えてくれた。
見終わった後必ず喫茶店かパーラーに寄った。
ホットケーキと、クリームソーダを楽しみつつ(私はこちらのほうが楽しみだった)
洋画の場合は長兄から事細かに映画の内容について説明してもらった。
次兄は「え?そうなんか?わし、完全に勘違いしとったわ」とか
「あのラストはそんな意味やったんか!」
などと、やはりよく理解していないようだった。
賢い長兄、単細胞な次兄。
そんな図式だった。
でも、次兄は自分が好きな映画を選べる数少ないチャンスの時に、
私の見たい子供向け映画をわざと選んでくれたりした。
上映中の私のうるさい質問にも怒らずに、
少しピントがずれてはいたものの
必ずこたえてくれたのも次兄だった。
そのかわり、機嫌の悪いときはよくぶたれた。
もちろん加減していたが、怒鳴り声も大きかったし、
言葉も荒い次兄のことを恐いと思うこともよくあった。
そんな次兄も年をとり、なんだか随分性格がまるくなった。
長兄は、相変わらずである。
賢さは変わらないのだが、
長兄程度の賢さを頼りにするほど私はもう子供ではなくなった。
長兄は母の病状が安定したのを見て、週末にいったん家に帰った。
今日は次兄と2人で1日2回の面会時間に母に会いに行った。
今日の母も気分が良かったようであれこれおしゃべりをした。
が、さすがに長期にわたる入院で、
どうも記憶が前後したり、夢と現実をごっちゃにしているところが出始めた。
一瞬戸惑う私を制して、
「うん。うん。そうだよな。」
と母に話しをあわす次兄の横顔は昔映画館で私に
いいもんかわるもんかを教えてくれていた頃の顔になっていた。
昨晩から、NHKの土曜ドラマの枠で、
「こんにちは、母さん」が始まった。
これ、新国立劇場で上演された舞台をドラマ化したものだ。
舞台のほうは、NHKでオンエアされたのを見た。
脚本も買って読んだし、地元の劇団が上演したものも見に行った。
私の大好きな作品である。
今回のドラマでは、キャストは舞台と変わっている部分もある。
むしろ、ちょっと豪華になっているかもしれない。
舞台出身の役者たちを、ぜいたくに脇役に配して、
メインの母子は、舞台と同じく加藤治子さんと平田満さん。
とにかく、へたくそな役者が一人も出ていないので、
安心して見ていられる。
第一回目の昨日は、二年ぶりに母親のところを訪れた息子が、
母のあまりの変貌ぶりに驚く…
という内容だったのだが、その母親の恋人役が児玉清さん。
舞台では、杉浦直樹さんだった。
演技力では申し分なかったのだが、
今回テレビ写りを考えると、児玉清さんで正解ではないかと思う。
実は、私の子供の頃の理想の父親は、
児玉清さんだった。
若い人にはクイズ番組の司会者の印象や、
博多華丸の物まねの印象が強いかもしれないが、
私の子供の頃は、
男前で、背がすらっと高く、物腰おだやか、知性的。
なんてすてきな人なんだろうかと、
テレビドラマを見ながら思っていた。
私が見ていたころは、お父さん役よりも、
独身男性役が多かったが、
私は「こんな人がお父さんならいいなぁ」
とぽ~っとなってみていた。
なんで、うちのお父さんは
児玉清さんみたいに格好良くないのだろうかと、
思ったものである。
父は……江戸家猫八を軟派にしたような容姿だった。
こども心に大変残念だった記憶がある。
おそらく父のほうも、
なんで、うちの娘は山口百恵じゃないんだろうかなどと
思っていたかもしれない。
久々に、児玉清さんのダンディぶりを見て、
ちょっと気持ちがタイムスリップした。
今思うと随分勝手なことを考えていたものだ。
ごめんね、父さん。
「こんにちは、母さん」が始まった。
これ、新国立劇場で上演された舞台をドラマ化したものだ。
舞台のほうは、NHKでオンエアされたのを見た。
脚本も買って読んだし、地元の劇団が上演したものも見に行った。
私の大好きな作品である。
今回のドラマでは、キャストは舞台と変わっている部分もある。
むしろ、ちょっと豪華になっているかもしれない。
舞台出身の役者たちを、ぜいたくに脇役に配して、
メインの母子は、舞台と同じく加藤治子さんと平田満さん。
とにかく、へたくそな役者が一人も出ていないので、
安心して見ていられる。
第一回目の昨日は、二年ぶりに母親のところを訪れた息子が、
母のあまりの変貌ぶりに驚く…
という内容だったのだが、その母親の恋人役が児玉清さん。
舞台では、杉浦直樹さんだった。
演技力では申し分なかったのだが、
今回テレビ写りを考えると、児玉清さんで正解ではないかと思う。
実は、私の子供の頃の理想の父親は、
児玉清さんだった。
若い人にはクイズ番組の司会者の印象や、
博多華丸の物まねの印象が強いかもしれないが、
私の子供の頃は、
男前で、背がすらっと高く、物腰おだやか、知性的。
なんてすてきな人なんだろうかと、
テレビドラマを見ながら思っていた。
私が見ていたころは、お父さん役よりも、
独身男性役が多かったが、
私は「こんな人がお父さんならいいなぁ」
とぽ~っとなってみていた。
なんで、うちのお父さんは
児玉清さんみたいに格好良くないのだろうかと、
思ったものである。
父は……江戸家猫八を軟派にしたような容姿だった。
こども心に大変残念だった記憶がある。
おそらく父のほうも、
なんで、うちの娘は山口百恵じゃないんだろうかなどと
思っていたかもしれない。
久々に、児玉清さんのダンディぶりを見て、
ちょっと気持ちがタイムスリップした。
今思うと随分勝手なことを考えていたものだ。
ごめんね、父さん。
ちとせに、新しい服を買ってやった。
詳しいことは 「ウチワワンダフル」 にてどうぞ。
で、ちとせの服を収納するために、
私の近所のお姉さんが使っていたのをもらって私が使い、
それをうちの放蕩娘が使い、
今は納戸にしまいこんであった、
お人形用の洋服タンスと、整理タンスを出してきた。

中をあけると、私が娘の2体のジェニーちゃん人形のために縫った服が出てきた。

縫い方も雑だし、生地はその時家にあった端布で作っているので、
若干貧乏くさい。
娘は、友達のお母さんが縫うような
ひらひらふわふわの生地で作ったドレスや、
もっとこう派手でぱ~っとした柄のワンピースを望んでいたので、
これらの服は、あまり喜ばれなかったように記憶している。
せっかく頑張って作ったのに…
と、当時寂しかったのを憶えている。
が、今こうして改めて見ると、たしかに地味めである。
幼稚園児が喜ぶような柄、デザインではない。
まぁ、当時の私の能力、財力、諸事情から考えて、
これが精一杯だったのだが、
こどもにしたらそんなことは関係なかったと思う。
せめて、もっと華やかな端布を見つけてやればよかったなとか
リボンやお花やビーズやレースを足してやれば良かったなと思った。
久々に出してきて、いろんなことを思い出した。
そして、このタンスは今日からはちとせのものである。
なんとちとせで四代目。
近所のお姉さんの年齢を考えると50年以上はたっている。
しっかり作られている木製のおもちゃは、
すごいなぁとつくづく思う。
詳しいことは 「ウチワワンダフル」 にてどうぞ。
で、ちとせの服を収納するために、
私の近所のお姉さんが使っていたのをもらって私が使い、
それをうちの放蕩娘が使い、
今は納戸にしまいこんであった、
お人形用の洋服タンスと、整理タンスを出してきた。

中をあけると、私が娘の2体のジェニーちゃん人形のために縫った服が出てきた。

縫い方も雑だし、生地はその時家にあった端布で作っているので、
若干貧乏くさい。
娘は、友達のお母さんが縫うような
ひらひらふわふわの生地で作ったドレスや、
もっとこう派手でぱ~っとした柄のワンピースを望んでいたので、
これらの服は、あまり喜ばれなかったように記憶している。
せっかく頑張って作ったのに…
と、当時寂しかったのを憶えている。
が、今こうして改めて見ると、たしかに地味めである。
幼稚園児が喜ぶような柄、デザインではない。
まぁ、当時の私の能力、財力、諸事情から考えて、
これが精一杯だったのだが、
こどもにしたらそんなことは関係なかったと思う。
せめて、もっと華やかな端布を見つけてやればよかったなとか
リボンやお花やビーズやレースを足してやれば良かったなと思った。
久々に出してきて、いろんなことを思い出した。
そして、このタンスは今日からはちとせのものである。
なんとちとせで四代目。
近所のお姉さんの年齢を考えると50年以上はたっている。
しっかり作られている木製のおもちゃは、
すごいなぁとつくづく思う。
さて、やたらしっかりしていたうちの娘だったが、
今回は私が4歳くらいのときのこと。
珍しく父が私と母方の祖母をつれて、
日本三大名園のひとつ兼六園に遊びに行った。
私は父と出かけた事が嬉しくて、
やたらはしゃぎまわっていたらしい。
園内を駆け回ったという。
だいたい、兼六園はこどもが駆け回るような公園ではない。
ごったがえす観光客の波にのまれ、
ハイテンションで奇声をあげて駆け回る4歳児は
あっという間に迷子になった。
あっという間にテンションは下がった。
ふだんは、大人びて妙にしっかりしたこどもだったが、
アクシデントにはめっぽう弱く(そのへんは今も変わらずである)
テンションの高い奇声は、すぐに号泣に変わった。
ただならぬ私の泣き声を遠巻きに見る団体観光客。
そのうち、見かねた茶店のおじさんが、
「おじょうちゃん、お名前は?
どっから来たの?
誰と来たの?」
などと話しかけてきた。
しかし私は泣きじゃくりながら
「名前を聞いても分からない」、
「おうちを聞いてもわからない」という、
犬のおまわりさんの唄そのままの反応だった。
茶店のおじさんは、おだんごをくれて、
私を肩車してくれた。
そして、大きな声で、
「この子のおとうさんか、おかあさん、いますか~。
迷子ですよ~。」
と、そこらをぐるぐる廻ってくれた。
号泣していた私だったが、おいしいおだんごと、
初めての肩車体験で、
かなり機嫌がなおりつつあった。
青くなって私を捜していた祖母が、すぐに気がついて、
茶店のおじさんに何度も何度もお礼を言った。
私は、せっかくの肩車から降りるのがなんだか名残惜しかったが、
祖母に促されて、しぶしぶ降りた。
父は、その間公園のベンチで、
なんとも優雅に煙草をふかしていた。
探せよっ、娘を!
と、その当時の私が父に対して思ったかどうかは憶えていない。
今回は私が4歳くらいのときのこと。
珍しく父が私と母方の祖母をつれて、
日本三大名園のひとつ兼六園に遊びに行った。
私は父と出かけた事が嬉しくて、
やたらはしゃぎまわっていたらしい。
園内を駆け回ったという。
だいたい、兼六園はこどもが駆け回るような公園ではない。
ごったがえす観光客の波にのまれ、
ハイテンションで奇声をあげて駆け回る4歳児は
あっという間に迷子になった。
あっという間にテンションは下がった。
ふだんは、大人びて妙にしっかりしたこどもだったが、
アクシデントにはめっぽう弱く(そのへんは今も変わらずである)
テンションの高い奇声は、すぐに号泣に変わった。
ただならぬ私の泣き声を遠巻きに見る団体観光客。
そのうち、見かねた茶店のおじさんが、
「おじょうちゃん、お名前は?
どっから来たの?
誰と来たの?」
などと話しかけてきた。
しかし私は泣きじゃくりながら
「名前を聞いても分からない」、
「おうちを聞いてもわからない」という、
犬のおまわりさんの唄そのままの反応だった。
茶店のおじさんは、おだんごをくれて、
私を肩車してくれた。
そして、大きな声で、
「この子のおとうさんか、おかあさん、いますか~。
迷子ですよ~。」
と、そこらをぐるぐる廻ってくれた。
号泣していた私だったが、おいしいおだんごと、
初めての肩車体験で、
かなり機嫌がなおりつつあった。
青くなって私を捜していた祖母が、すぐに気がついて、
茶店のおじさんに何度も何度もお礼を言った。
私は、せっかくの肩車から降りるのがなんだか名残惜しかったが、
祖母に促されて、しぶしぶ降りた。
父は、その間公園のベンチで、
なんとも優雅に煙草をふかしていた。
探せよっ、娘を!
と、その当時の私が父に対して思ったかどうかは憶えていない。
今日のクリスマスの思い出話は、
娘がうんと小さいときの話し。
自分が、伯父夫婦の深い愛情に反して、残念ながら
早くにサンタの存在を信用しなくなってしまった経緯
(ここと、ここをぽちっと)により、
自分の娘にはできるだけ大きくなるまで
サンタの存在を信じさせたいと思っていた。
クリスマスが近づくと、
サンタさんにお願いの手紙を書こうねということで、
文字を覚え始めたころから手紙を書かせた。
あれは、娘が幼稚園の年中さんか年長さんのことだったろうか?
その年の娘のほしいものは、ミシンだった。
ほら、よくある子ども用の直線縫いができる小さいやつ。
横にキャラクターの絵が書いてあったりする。
私の母は、洋裁ができたので
娘の服の多くは母がミシンで縫ってくれていた。
ブラウス、ワンピース、コート。
こんなかんじで…と見本の写真を見せると、
だいたいその通りに縫ってくれた。
それを横で見ていた娘は、おそらくミシンさえあれば、
自分もすいすいと縫い物ができるとでも思ったのだろう。
違うぞ。
それは違うぞ。
私も立派なミシンは持っているが、だからといって、
すいすいといろんなものが縫えるわけではないぞ。
せいぜい、雑巾や、
裏をつけなくてもよくて人前に着ていくこともないような
パジャマが縫えるくらいだ。
ミシンが縫うのではないのだよ。
そのあたりを教えてやろうかとも思ったが、
子どもの夢を壊すのはよくないため、
「ミシン、いいんじゃないの。」
と賛成した。
娘は覚えたてカタカナも使い、手紙を書いた。
サンタさんあての手紙は、
当然諸般の事情により夫と私がこっそり封を切る。
なになに?
「サンタさんえ。
ニシンをください。」
え?ニシン?
魚が食べたいのか?
年末の年越し蕎麦にのせるニシンの甘露煮の材料を
早めに気を廻して頼んでくれたのか?
違う。
娘は、当時ミシンのことをなぜか、
『ニシン、ニシン』と発音していた。
子どもって、口がまわらないのと思いこみの強さで
おかしな発音をすることが多い。
もっと小さいころは牛乳が言えなくて、
にゅーにゅーと言っていたっけ。
newを2回繰り返して、
よほど新しい牛乳がほしいと強調していたのだろうか。
ま、それはおいておいて。
手紙にでかでかと「ニシンをください」と書いた娘。
当然これはミシンのことだと、私たちには分かる。
しかし、これでいいのだろうか?
ニシンではなく、ミシンだよっとつっこめば、
サンタさんあての手紙を
私たちが、発送する前に封を切ったとばれてしまう。
とはいえ、この間違いを見逃すのは、
娘の言語教育上、よくないのではないか。
迷った。
ニシンはニシンであって、ミシンではないということを、
それでは、サンタさんにも、世間的にも通じないということを
枕元にミシンではなく、ニシンを置くことで
分からせてやるほうがいいのではないか?
一瞬そう思ったが、
寝室中に漂うニシンの生臭い香りに包まれて
目覚めるのもどうよということで、
ていうか、子どもの夢をぶちこわす厳しさは
この際必要ないだろうということで、
ミシンをプレゼントしたのである。
めでたし、めでたし。
か?
娘のサンタさんあての手紙に関しては、
もうひとつ面白いエピソードがある。
それはまた、今度。
娘がうんと小さいときの話し。
自分が、伯父夫婦の深い愛情に反して、残念ながら
早くにサンタの存在を信用しなくなってしまった経緯
(ここと、ここをぽちっと)により、
自分の娘にはできるだけ大きくなるまで
サンタの存在を信じさせたいと思っていた。
クリスマスが近づくと、
サンタさんにお願いの手紙を書こうねということで、
文字を覚え始めたころから手紙を書かせた。
あれは、娘が幼稚園の年中さんか年長さんのことだったろうか?
その年の娘のほしいものは、ミシンだった。
ほら、よくある子ども用の直線縫いができる小さいやつ。
横にキャラクターの絵が書いてあったりする。
私の母は、洋裁ができたので
娘の服の多くは母がミシンで縫ってくれていた。
ブラウス、ワンピース、コート。
こんなかんじで…と見本の写真を見せると、
だいたいその通りに縫ってくれた。
それを横で見ていた娘は、おそらくミシンさえあれば、
自分もすいすいと縫い物ができるとでも思ったのだろう。
違うぞ。
それは違うぞ。
私も立派なミシンは持っているが、だからといって、
すいすいといろんなものが縫えるわけではないぞ。
せいぜい、雑巾や、
裏をつけなくてもよくて人前に着ていくこともないような
パジャマが縫えるくらいだ。
ミシンが縫うのではないのだよ。
そのあたりを教えてやろうかとも思ったが、
子どもの夢を壊すのはよくないため、
「ミシン、いいんじゃないの。」
と賛成した。
娘は覚えたてカタカナも使い、手紙を書いた。
サンタさんあての手紙は、
当然諸般の事情により夫と私がこっそり封を切る。
なになに?
「サンタさんえ。
ニシンをください。」
え?ニシン?
魚が食べたいのか?
年末の年越し蕎麦にのせるニシンの甘露煮の材料を
早めに気を廻して頼んでくれたのか?
違う。
娘は、当時ミシンのことをなぜか、
『ニシン、ニシン』と発音していた。
子どもって、口がまわらないのと思いこみの強さで
おかしな発音をすることが多い。
もっと小さいころは牛乳が言えなくて、
にゅーにゅーと言っていたっけ。
newを2回繰り返して、
よほど新しい牛乳がほしいと強調していたのだろうか。
ま、それはおいておいて。
手紙にでかでかと「ニシンをください」と書いた娘。
当然これはミシンのことだと、私たちには分かる。
しかし、これでいいのだろうか?
ニシンではなく、ミシンだよっとつっこめば、
サンタさんあての手紙を
私たちが、発送する前に封を切ったとばれてしまう。
とはいえ、この間違いを見逃すのは、
娘の言語教育上、よくないのではないか。
迷った。
ニシンはニシンであって、ミシンではないということを、
それでは、サンタさんにも、世間的にも通じないということを
枕元にミシンではなく、ニシンを置くことで
分からせてやるほうがいいのではないか?
一瞬そう思ったが、
寝室中に漂うニシンの生臭い香りに包まれて
目覚めるのもどうよということで、
ていうか、子どもの夢をぶちこわす厳しさは
この際必要ないだろうということで、
ミシンをプレゼントしたのである。
めでたし、めでたし。
か?
娘のサンタさんあての手紙に関しては、
もうひとつ面白いエピソードがある。
それはまた、今度。
私の子ども時代、クリスマスを盛り上げる担当は伯父夫婦だったが、
夜枕元にプレゼントを置くということにちょっと飽きてきたのか、
ある年のクリスマス伯父と叔母は、目先を変えて
デパートのサンタクロースに扮した配送係が
配達するサービスを利用することにした。
あれって、今もやってるんだろうか?
詳しいことは分からないけど、サンタに扮して配送するサービス、
私の子ども時代あたりから始まったのではないかと思う。
すでに私がサンタクロースの秘密に気がついているとも知らず、
伯父夫婦は私がニセサンタを見て大喜びすると信じて、
そのサービスを申し込んだのである。
サンタ配送が来る24日、お出かけ好きな伯父夫婦がどこへも出かけず、
そわそわと自宅で待っている。
もちろん私が、母の買い物についていこうとすると、
「家にいたら?」
「一緒に留守番しよう。」
などと、やたらひきとめる。
母と市場に行って、お菓子を買ってもらおうと思っていた私は、
そのときはなぜ、そんなに必死でひきとめるかが分からなかった。
そして、デパートからのサンタさんはやってきた。
白昼堂々。
そりではなく、自動車に乗って。
煙突からではなく、玄関から。
「メリークリスマス!」
うちの、純和風の玄関にサンタクロースというのはかなりミスマッチだった。
「peco!ほら、peco!サンタさん来たよ~。」
興奮気味の伯父と叔母。
サンタさんは白い髭の後ろから黒い髭のそり跡が見えていた。
白髪の鬘のサイズが合わないのか、隙間から黒髪が見えていた。
はりつけた白い眉毛が、汗ではずれそうになっていた。
「私は、遠い国からよい子にプレゼントを持って来たサンタだよ」
サンタさんは台詞も下手だった。
多分、大学生のバイトかなんかだったんだろう。
せめて、芝居心のある人を雇ってほしいものだ。
こんなん、サンタさんじゃないやいっ!
心のなかで絶叫する幼い私。
すでに、これまでの経緯(枕元にプレゼントを置く伯父夫婦を目撃していた)で、
サンタさんは家族の図式に気づいていた私だったが、
私を喜ばそうとして、隣りでわくわくしている伯父夫婦に、
そんなことが言えるわけがない。
「ありがとう、サンタさん!」
と、嬉しそうにプレゼントを受け取ったりしてみた。
それまでのプレゼントはキャンデーや果物やサンタブーツだったのだが、
せっかくサンタ配送サービスを利用するからということで、
おそらく伯父夫婦なりに考えて、
その年は「ひょっこりひょうたん島のゲーム盤」だった。
私が、当時大好きだったひょっこりひょうたん島。
夢中で見ている私を見て、決めたプレゼントなのだろう。
でもね。
年の近い兄弟も従兄弟もいないし、
父も母も私とゲームで遊んだりする人ではないし、
かといって伯父夫婦もゲームのルールを理解して子どもとやるには、
年をとりすぎていた。
幼稚園を中退した私には、遊びに来る友達もいない。
ひとりでゲームはできませんから…。
伯父夫婦の優しい気持ちが、からまわりしたクリスマスだった。
でも、そのときの伯父夫婦のワクワクした顔を
こんなに鮮明に憶えているのは、
やはり私もちょっと嬉しかったんだろうと思う。
夜枕元にプレゼントを置くということにちょっと飽きてきたのか、
ある年のクリスマス伯父と叔母は、目先を変えて
デパートのサンタクロースに扮した配送係が
配達するサービスを利用することにした。
あれって、今もやってるんだろうか?
詳しいことは分からないけど、サンタに扮して配送するサービス、
私の子ども時代あたりから始まったのではないかと思う。
すでに私がサンタクロースの秘密に気がついているとも知らず、
伯父夫婦は私がニセサンタを見て大喜びすると信じて、
そのサービスを申し込んだのである。
サンタ配送が来る24日、お出かけ好きな伯父夫婦がどこへも出かけず、
そわそわと自宅で待っている。
もちろん私が、母の買い物についていこうとすると、
「家にいたら?」
「一緒に留守番しよう。」
などと、やたらひきとめる。
母と市場に行って、お菓子を買ってもらおうと思っていた私は、
そのときはなぜ、そんなに必死でひきとめるかが分からなかった。
そして、デパートからのサンタさんはやってきた。
白昼堂々。
そりではなく、自動車に乗って。
煙突からではなく、玄関から。
「メリークリスマス!」
うちの、純和風の玄関にサンタクロースというのはかなりミスマッチだった。
「peco!ほら、peco!サンタさん来たよ~。」
興奮気味の伯父と叔母。
サンタさんは白い髭の後ろから黒い髭のそり跡が見えていた。
白髪の鬘のサイズが合わないのか、隙間から黒髪が見えていた。
はりつけた白い眉毛が、汗ではずれそうになっていた。
「私は、遠い国からよい子にプレゼントを持って来たサンタだよ」
サンタさんは台詞も下手だった。
多分、大学生のバイトかなんかだったんだろう。
せめて、芝居心のある人を雇ってほしいものだ。
こんなん、サンタさんじゃないやいっ!
心のなかで絶叫する幼い私。
すでに、これまでの経緯(枕元にプレゼントを置く伯父夫婦を目撃していた)で、
サンタさんは家族の図式に気づいていた私だったが、
私を喜ばそうとして、隣りでわくわくしている伯父夫婦に、
そんなことが言えるわけがない。
「ありがとう、サンタさん!」
と、嬉しそうにプレゼントを受け取ったりしてみた。
それまでのプレゼントはキャンデーや果物やサンタブーツだったのだが、
せっかくサンタ配送サービスを利用するからということで、
おそらく伯父夫婦なりに考えて、
その年は「ひょっこりひょうたん島のゲーム盤」だった。
私が、当時大好きだったひょっこりひょうたん島。
夢中で見ている私を見て、決めたプレゼントなのだろう。
でもね。
年の近い兄弟も従兄弟もいないし、
父も母も私とゲームで遊んだりする人ではないし、
かといって伯父夫婦もゲームのルールを理解して子どもとやるには、
年をとりすぎていた。
幼稚園を中退した私には、遊びに来る友達もいない。
ひとりでゲームはできませんから…。
伯父夫婦の優しい気持ちが、からまわりしたクリスマスだった。
でも、そのときの伯父夫婦のワクワクした顔を
こんなに鮮明に憶えているのは、
やはり私もちょっと嬉しかったんだろうと思う。
ミィさんとこも、ちょっと前のびーさんとこでも、
息子さんにサンタの存在を信じていてほしいけど…
はてさてどうしたものかというような記事がありました。
クリスマスがらみでは、いろいろ思い出があるので、
ちょっと何回かに分けて書いてみることにした。
まずは自分自身の思い出。
今のこどもたちは、サンタの存在を信じている子もいない子も、
クリスマスというのは自分のほしいものを
プレゼントしてもらえる日という認識だと思う。
私のこどものころは、ていうか私のうちは違った。
父も母も、大人の事情で当時はいっぱいいっぱいであった。
そういう子どものためのイベントごとや、
季節の年中行事を優雅に楽しむ心の余裕がなかったため、
それは一緒に暮らしていた伯父夫婦が一手に引き受けていた。
とはいえ、伯父夫婦はかなりの年配。
私にとっては祖父祖母の年代だ。
だから、ほんのちょっとセンスが古い。
しかし、和のテイストのセンスは抜群なので、
日本古来の伝統行事はばっちりである。
当然、クリスマスなんかは伯父夫婦にとっては苦手分野。
それでも、ツリーを買ってきたり、サンタの人形を買ってきて飾ったり、
それなりに盛り上げてくれた。
しかし、サンタがプレゼントを持ってきた演出はなんだかぎこちなかった。
それに、選んでくれるプレゼントも
いまいち子ども心へのアピールのパンチに欠けていた。
他のうちは知らないが、私のうちでは
サンタさんにほしいものをリクエストする習慣はなかった。
適当に、こどもの喜びそうなものをみつくろって、
イブの日の枕元に置いておく程度だ。
それもほとんど食べ物が多かった。
キャンディーの詰め合わせとか、果物。
当時は日頃食べる飴というと
榮太郎の黒飴とか、甘露飴(←いかにも年寄り趣味でしょ?)
あとはせいぜいジュース扇雀飴とか(←覚えてる?)、
サクマドロップ、森永キャラメルがいいとこ。
きれいな包み紙に包まれた、神戸のキャンディーの詰め合わせなんかは
めったに口に入らないので、うれしいといえばうれしかった。
でも、まるでお歳暮みたいで、クリスマス感が薄い。
しかもクリスマスの夜は、伯父夫婦が私の枕元にプレゼントを置いて、
目覚めてそれを見つけて喜ぶ私をすぐ見たいために、
必ず伯父夫婦の部屋で寝かされた。
で、プレゼントを置くのも、私が熟睡する前に置いたりするので、
かなり早い時期に私はサンタ=家族の図式を薄目で確認することになる。
でも、枕元のプレゼントを見つけて盛り上がる私を
目を細めて見ている伯父夫婦をがっかりさせるのは申し訳ないので、
必死で精一杯はしゃいだ。
クリスマスは、私にとって年に一度、
一世一代の無邪気なこどもの喜びの演技を披露する日であった。
伯父夫婦の、ちょっとピントのずれた、
でも今思うと微笑ましいクリスマスの思い出はもうひとつある。
それはまた、今度。
息子さんにサンタの存在を信じていてほしいけど…
はてさてどうしたものかというような記事がありました。
クリスマスがらみでは、いろいろ思い出があるので、
ちょっと何回かに分けて書いてみることにした。
まずは自分自身の思い出。
今のこどもたちは、サンタの存在を信じている子もいない子も、
クリスマスというのは自分のほしいものを
プレゼントしてもらえる日という認識だと思う。
私のこどものころは、ていうか私のうちは違った。
父も母も、大人の事情で当時はいっぱいいっぱいであった。
そういう子どものためのイベントごとや、
季節の年中行事を優雅に楽しむ心の余裕がなかったため、
それは一緒に暮らしていた伯父夫婦が一手に引き受けていた。
とはいえ、伯父夫婦はかなりの年配。
私にとっては祖父祖母の年代だ。
だから、ほんのちょっとセンスが古い。
しかし、和のテイストのセンスは抜群なので、
日本古来の伝統行事はばっちりである。
当然、クリスマスなんかは伯父夫婦にとっては苦手分野。
それでも、ツリーを買ってきたり、サンタの人形を買ってきて飾ったり、
それなりに盛り上げてくれた。
しかし、サンタがプレゼントを持ってきた演出はなんだかぎこちなかった。
それに、選んでくれるプレゼントも
いまいち子ども心へのアピールのパンチに欠けていた。
他のうちは知らないが、私のうちでは
サンタさんにほしいものをリクエストする習慣はなかった。
適当に、こどもの喜びそうなものをみつくろって、
イブの日の枕元に置いておく程度だ。
それもほとんど食べ物が多かった。
キャンディーの詰め合わせとか、果物。
当時は日頃食べる飴というと
榮太郎の黒飴とか、甘露飴(←いかにも年寄り趣味でしょ?)
あとはせいぜいジュース扇雀飴とか(←覚えてる?)、
サクマドロップ、森永キャラメルがいいとこ。
きれいな包み紙に包まれた、神戸のキャンディーの詰め合わせなんかは
めったに口に入らないので、うれしいといえばうれしかった。
でも、まるでお歳暮みたいで、クリスマス感が薄い。
しかもクリスマスの夜は、伯父夫婦が私の枕元にプレゼントを置いて、
目覚めてそれを見つけて喜ぶ私をすぐ見たいために、
必ず伯父夫婦の部屋で寝かされた。
で、プレゼントを置くのも、私が熟睡する前に置いたりするので、
かなり早い時期に私はサンタ=家族の図式を薄目で確認することになる。
でも、枕元のプレゼントを見つけて盛り上がる私を
目を細めて見ている伯父夫婦をがっかりさせるのは申し訳ないので、
必死で精一杯はしゃいだ。
クリスマスは、私にとって年に一度、
一世一代の無邪気なこどもの喜びの演技を披露する日であった。
伯父夫婦の、ちょっとピントのずれた、
でも今思うと微笑ましいクリスマスの思い出はもうひとつある。
それはまた、今度。
女であることを武器にしたことは、ない。
そんなことができるような容姿や色気があれば
試してみたくなる気持ちも分からないではない。
武器として例えるなら、立派な機関銃を持っていたら、
そりゃあ使ってみたくもなるのだろう。
私は、残念ながら小さい頃から容姿に恵まれなかったため、
女ということを武器にしようとしても、
びーびー弾くらいの威力しかないのである。
機関銃並の威力のある武器をもっている女性の前では、丸腰状態だ。
使うだけムダ。
むなしいだけだ。
別のジャンルで勝負をするか、もしくは勝負をしないか、
あるいは何か卑怯な手を使うか(←こらこら)しかない。
このことは、あるきっかけがあって気がついた。
私は、小さい頃同居していた伯父夫婦にとても可愛がってもらえた。
いつも「お前は可愛い、可愛い」と言われて育った。
当時の写真を見ると、お世辞にも可愛くはない。
ひとまわり年上の次兄は、
正直さを毒舌でコーティングしたような少年だったため、
「伯父さんと叔母さんは、ああ言ってるけど、信じたらお前のためにならんぞ」
と、次兄なりの気の使い方で私を諭していたが、
私はすっかり自分は可愛い、結構イケてると思っていたふしがある。
なぜなら、当時の写真は皆妙にシナをつくりくねくねし、
こびるようなカメラ目線をしているからだ。
勘違いも甚だしい。
タイムマシンに乗って当時の自分に会い
「あんた、何様のつもりだ?」
と一言言ってやりたいくらいだ。
当時の私は、女を武器にする気満々だったようだ。
ところが、そんな私に厳しい現実がつきつけられる時が来た。
小学校2年の時、
うっとおしいタイプの口の悪い男子グループがいた。
意味なく「おまえのかぁちゃんで~べそ」とか言われている分には
「でべそじゃないもん」ですむのだが、
「おまえ、へんな顔。」とか
「なんでそんなに鼻ひくいん?」とか
「お多福に似ている」などと言われるとそうはいかない。
私は、伯父夫婦から可愛い可愛いと言われ続けてきたので
可愛いつもりでいるのに、
容姿を全否定されたことでとても戸惑う。
とりあえず女を武器にしてみるつもりで、
「え~、どうしてそういうこと言うの~」
とちょっとくねくねしながら言ってみるが、
「げ、気持ち悪い」とまで言われる。
おかしい。
なぜだ。
饅頭屋のAちゃんや、酒屋のMちゃんが同じことをすると、
効き目があるのに、どうして私がすると逆効果なんだ?
家に帰って、伯父に聞いてみた。
「私はほんとに可愛いの?」
伯父は、ついにこの日が来たかというような顔で答えた。
「伯父ちゃんから見たら、すごく可愛い。これは本当だよ。
でも、よその人にはよその人の可愛いと思う物差しがそれぞれあるから、
もしかしてそれだとpecoはちょっと、はかりにくいのかもしれない。」
今思うと、ものすごくうまいことを言うなと思う。
私を傷つけずに、遠回しに真実を伝えようとした伯父。いい人だ。
思い出すと泣けてくる。
伯父は続けた。
「でも、誰から見ても可愛いと思われるのは笑顔だ。
いつもにこにこ笑顔の子は、みんなに好かれるよ。
pecoも、いつも笑顔で、表情が豊かな子になるんだよ。」
まぁ、要するに女は愛嬌ということか。
おまえはたしかに不細工だけど、家族からすると充分可愛いのだし、
頑張ってにこにこ生き生きして生きていけということを
子ども心が傷つかないように言ってくれたのだと思う。
これを境に、女を武器にしようだなんて思わなくなり、
写真でへんなポーズをとったり、
男子にくねくねしながら
甘えた言葉遣いをしたりしなくなったような気がする。
にこにこ笑いながら、毒舌を吐きまくり、
生き生きと表情豊かに男子たちを口で言い負かし、
やりこめる道を歩み始めたのだ。
伯父が私になってほしかった女の子像とは、
微妙にずれてしまったところが残念だ。
草場の影で泣いているかもしれない。
ごめん、伯父ちゃん。
そんなことができるような容姿や色気があれば
試してみたくなる気持ちも分からないではない。
武器として例えるなら、立派な機関銃を持っていたら、
そりゃあ使ってみたくもなるのだろう。
私は、残念ながら小さい頃から容姿に恵まれなかったため、
女ということを武器にしようとしても、
びーびー弾くらいの威力しかないのである。
機関銃並の威力のある武器をもっている女性の前では、丸腰状態だ。
使うだけムダ。
むなしいだけだ。
別のジャンルで勝負をするか、もしくは勝負をしないか、
あるいは何か卑怯な手を使うか(←こらこら)しかない。
このことは、あるきっかけがあって気がついた。
私は、小さい頃同居していた伯父夫婦にとても可愛がってもらえた。
いつも「お前は可愛い、可愛い」と言われて育った。
当時の写真を見ると、お世辞にも可愛くはない。
ひとまわり年上の次兄は、
正直さを毒舌でコーティングしたような少年だったため、
「伯父さんと叔母さんは、ああ言ってるけど、信じたらお前のためにならんぞ」
と、次兄なりの気の使い方で私を諭していたが、
私はすっかり自分は可愛い、結構イケてると思っていたふしがある。
なぜなら、当時の写真は皆妙にシナをつくりくねくねし、
こびるようなカメラ目線をしているからだ。
勘違いも甚だしい。
タイムマシンに乗って当時の自分に会い
「あんた、何様のつもりだ?」
と一言言ってやりたいくらいだ。
当時の私は、女を武器にする気満々だったようだ。
ところが、そんな私に厳しい現実がつきつけられる時が来た。
小学校2年の時、
うっとおしいタイプの口の悪い男子グループがいた。
意味なく「おまえのかぁちゃんで~べそ」とか言われている分には
「でべそじゃないもん」ですむのだが、
「おまえ、へんな顔。」とか
「なんでそんなに鼻ひくいん?」とか
「お多福に似ている」などと言われるとそうはいかない。
私は、伯父夫婦から可愛い可愛いと言われ続けてきたので
可愛いつもりでいるのに、
容姿を全否定されたことでとても戸惑う。
とりあえず女を武器にしてみるつもりで、
「え~、どうしてそういうこと言うの~」
とちょっとくねくねしながら言ってみるが、
「げ、気持ち悪い」とまで言われる。
おかしい。
なぜだ。
饅頭屋のAちゃんや、酒屋のMちゃんが同じことをすると、
効き目があるのに、どうして私がすると逆効果なんだ?
家に帰って、伯父に聞いてみた。
「私はほんとに可愛いの?」
伯父は、ついにこの日が来たかというような顔で答えた。
「伯父ちゃんから見たら、すごく可愛い。これは本当だよ。
でも、よその人にはよその人の可愛いと思う物差しがそれぞれあるから、
もしかしてそれだとpecoはちょっと、はかりにくいのかもしれない。」
今思うと、ものすごくうまいことを言うなと思う。
私を傷つけずに、遠回しに真実を伝えようとした伯父。いい人だ。
思い出すと泣けてくる。
伯父は続けた。
「でも、誰から見ても可愛いと思われるのは笑顔だ。
いつもにこにこ笑顔の子は、みんなに好かれるよ。
pecoも、いつも笑顔で、表情が豊かな子になるんだよ。」
まぁ、要するに女は愛嬌ということか。
おまえはたしかに不細工だけど、家族からすると充分可愛いのだし、
頑張ってにこにこ生き生きして生きていけということを
子ども心が傷つかないように言ってくれたのだと思う。
これを境に、女を武器にしようだなんて思わなくなり、
写真でへんなポーズをとったり、
男子にくねくねしながら
甘えた言葉遣いをしたりしなくなったような気がする。
にこにこ笑いながら、毒舌を吐きまくり、
生き生きと表情豊かに男子たちを口で言い負かし、
やりこめる道を歩み始めたのだ。
伯父が私になってほしかった女の子像とは、
微妙にずれてしまったところが残念だ。
草場の影で泣いているかもしれない。
ごめん、伯父ちゃん。
ファンレターって、書いたことあります?
私は、ある。
たった1回だけ。
そして、手書きの返事までもらった。
さて、私がファンレターを書いて、お返事をくれた芸能人は誰でしょう。
ヒント1、歌手で役者。レポーターもする。
最近はテレビショッピングの司会もしている。
ヒント2、お父さんは超大物歌手。
ヒント3、2枚目ではない。
多分、絶対分からないと思う。
答えは、三波豊和。
知らない方は、ここをぽちっと 「三波豊和オフィシャルサイト」
誰ですか?笑った人は。
校庭10周してきなさい。
私も一緒に走るから。
自分自身、この件を思い出すとぷぷっと吹き出してしまう。
てか、16歳のほんの一瞬の時期とはいえ、
なぜ三波豊和が好きになったのか
今ではどうしても思い出せない。
多分、当時ちょっといいなと思っていた人の面影が
三波豊和氏と重なる瞬間があったからではないかと思うのだが、
どうなんだろう。
当時ちょっといいなと思っていた人の名誉のため付け加えると、
三波豊和氏には大変申し訳ないが、
芸能人である豊和氏よりもその人のほうがかっこいいと思う。
で、その三波豊和氏が私の住む町のラジオの公開番組かなんかで来ることになった。
整理券をもらい、ひとりで行くのが寂しいので
嫌がる友達をむりやり誘い、一緒に見に行った。
ちなみにその友達は、郷ひろみファン。
しぶしぶ付き合ってくれた友達は、文句たらたらだった。
ギャラリーは、もののみごとに中高年の女性たちばかり。
しかも、告知の仕方が地味だったため、集まった人がやたら少ない。
そんななか、豊和氏はお父様譲りのにこやかさで軽妙なトークと、
のびやかな歌声を披露してくれた。
まばらな中高年女性のなかで浮きまくる女子高生2人組。
その分、豊和氏の視線もたくさんもらえて結構満足気な私と、
「豊和の視線なんかいらんわい」とむくれる友人。
私は、生豊和に会った勢いに乗り、
その晩生まれて初めてファンレターというものを書いた。
実は、小学校時代はフォーリーブスのファンだった。
(お~い、みんなついてきてるかぁ~)
コンサートにも行ったことがある。
しかし、さすがにファンレターは書かなかった。
中学時代は、何を思ったかアラン・ドロンのファンになった。
ドロンの映画を見まくっていたませた中学生だった。
しかし、さすがにファンレターは書かなかった。
もとい、書けなかった。
フランス語、できないからね。
そんな私が、はじめてファンレターを書いたのである。
三波豊和氏に。
何を書いたのか、残念ながら覚えていない。
まぁ、たいしたことは書いていないと思う。
公開番組を見に行ったこと、目があってうれしかったこと、
これからも頑張ってください的なことなどを書いたのだろう。
あ、もしかしたら好きなひとに似ているってことも書いたかもしれない。
やたら乙女ちっくな便せんで出したことだけは覚えている。
で、結構すぐに返事が来た。
葉書だったが、丁寧な手書き。
もしかしてマネージャーが代筆したのかもしれない。
でも、それにしたら字がいかにも若い男性が慣れない手紙を書きました…
みたいな字だったので、
多分ご本人直筆だと思う。
嬉しかった。
で、一緒に公開番組を見に行ってくれた
郷ひろみファンの友人に見せたら、
「ふーん。豊和、よっぽど売れてなくてヒマなんじゃないの~。
もしかして、ファンレターもほとんど来ないんじゃないの~。
ひろみは、忙しいし毎日何千通とファンレターが来るから返事来なくて当然。」
と言われた。
ファンレターの返事をもらった私が羨ましくて、
ひがんでいるのかと思ったが、
心底彼女は豊和氏からの返事はほしくないようだった。
仕方ないので、他のクラスメートに自慢しようと見せて歩いたが、
全員「ふ~ん」という反応しかしない。
寂しかった。
そして、急速に私の熱も冷めた。
その後、子育て中にふと見たNHKの幼児番組
「お~い、はに丸」に出演する三波豊和氏を発見したときは、
なんだか懐かしいような、申し訳ないような複雑な心境だった。
「はに丸」とやりとりする豊和氏を指さし、
「おかあさん、この人からファンレターの返事もらったんよ」
と幼い娘に自慢してみた。
娘の返事は、「ふ~ん」だった。
私は、ある。
たった1回だけ。
そして、手書きの返事までもらった。
さて、私がファンレターを書いて、お返事をくれた芸能人は誰でしょう。
ヒント1、歌手で役者。レポーターもする。
最近はテレビショッピングの司会もしている。
ヒント2、お父さんは超大物歌手。
ヒント3、2枚目ではない。
多分、絶対分からないと思う。
答えは、三波豊和。
知らない方は、ここをぽちっと 「三波豊和オフィシャルサイト」
誰ですか?笑った人は。
校庭10周してきなさい。
私も一緒に走るから。
自分自身、この件を思い出すとぷぷっと吹き出してしまう。
てか、16歳のほんの一瞬の時期とはいえ、
なぜ三波豊和が好きになったのか
今ではどうしても思い出せない。
多分、当時ちょっといいなと思っていた人の面影が
三波豊和氏と重なる瞬間があったからではないかと思うのだが、
どうなんだろう。
当時ちょっといいなと思っていた人の名誉のため付け加えると、
三波豊和氏には大変申し訳ないが、
芸能人である豊和氏よりもその人のほうがかっこいいと思う。
で、その三波豊和氏が私の住む町のラジオの公開番組かなんかで来ることになった。
整理券をもらい、ひとりで行くのが寂しいので
嫌がる友達をむりやり誘い、一緒に見に行った。
ちなみにその友達は、郷ひろみファン。
しぶしぶ付き合ってくれた友達は、文句たらたらだった。
ギャラリーは、もののみごとに中高年の女性たちばかり。
しかも、告知の仕方が地味だったため、集まった人がやたら少ない。
そんななか、豊和氏はお父様譲りのにこやかさで軽妙なトークと、
のびやかな歌声を披露してくれた。
まばらな中高年女性のなかで浮きまくる女子高生2人組。
その分、豊和氏の視線もたくさんもらえて結構満足気な私と、
「豊和の視線なんかいらんわい」とむくれる友人。
私は、生豊和に会った勢いに乗り、
その晩生まれて初めてファンレターというものを書いた。
実は、小学校時代はフォーリーブスのファンだった。
(お~い、みんなついてきてるかぁ~)
コンサートにも行ったことがある。
しかし、さすがにファンレターは書かなかった。
中学時代は、何を思ったかアラン・ドロンのファンになった。
ドロンの映画を見まくっていたませた中学生だった。
しかし、さすがにファンレターは書かなかった。
もとい、書けなかった。
フランス語、できないからね。
そんな私が、はじめてファンレターを書いたのである。
三波豊和氏に。
何を書いたのか、残念ながら覚えていない。
まぁ、たいしたことは書いていないと思う。
公開番組を見に行ったこと、目があってうれしかったこと、
これからも頑張ってください的なことなどを書いたのだろう。
あ、もしかしたら好きなひとに似ているってことも書いたかもしれない。
やたら乙女ちっくな便せんで出したことだけは覚えている。
で、結構すぐに返事が来た。
葉書だったが、丁寧な手書き。
もしかしてマネージャーが代筆したのかもしれない。
でも、それにしたら字がいかにも若い男性が慣れない手紙を書きました…
みたいな字だったので、
多分ご本人直筆だと思う。
嬉しかった。
で、一緒に公開番組を見に行ってくれた
郷ひろみファンの友人に見せたら、
「ふーん。豊和、よっぽど売れてなくてヒマなんじゃないの~。
もしかして、ファンレターもほとんど来ないんじゃないの~。
ひろみは、忙しいし毎日何千通とファンレターが来るから返事来なくて当然。」
と言われた。
ファンレターの返事をもらった私が羨ましくて、
ひがんでいるのかと思ったが、
心底彼女は豊和氏からの返事はほしくないようだった。
仕方ないので、他のクラスメートに自慢しようと見せて歩いたが、
全員「ふ~ん」という反応しかしない。
寂しかった。
そして、急速に私の熱も冷めた。
その後、子育て中にふと見たNHKの幼児番組
「お~い、はに丸」に出演する三波豊和氏を発見したときは、
なんだか懐かしいような、申し訳ないような複雑な心境だった。
「はに丸」とやりとりする豊和氏を指さし、
「おかあさん、この人からファンレターの返事もらったんよ」
と幼い娘に自慢してみた。
娘の返事は、「ふ~ん」だった。
つかぬことを皆さんにおたずねするが、
初めて数の数え方を習った時のことを覚えているだろうか?
私は、母方の祖母に習った。
当時いろんな意味で余裕がなく
いっぱいいっぱいだった母を心配して、
母方の祖母はしょっちゅう様子を見に来ては、何日か連泊していった。
おみやげをいっぱい抱えてやってきては、
いろんな歌を教えてくれたり、遊んでくれるし、
帰りがけに「お母さんには内緒だよ」といって
まだ幼稚園に行く前のちびすけの私にちり紙にくるんだ百円札を握らせてくれる
『おばばちゃん』のことを、私は大好きだった。
あれは何歳の頃だったのだろうか?
ある時、おばばちゃんはまじめな顔をして
「pecoや。ここにお座り」
と言った。
また遊んで貰えるのか、それとも美味しいお菓子でも食べさせてくれるのかと、
わくわくしていると、
「今日は数を数えることを教えるよ」
と言う。
それまで、私は結構ほったらかしで好き勝手に遊んでいた。
今と違って知育玩具もあんまりないし、
父も母も自分のコトで精一杯だった。
同居している伯父夫婦は私を甘やかすのが趣味のような人たちだったので、
数を教えたりとかそういう方面はスルーされていた。
心配したおばばちゃんが人肌脱ぐことになったのだと思う。
で。
おばばちゃんはおもむろにお経のように唱えだした。
「ひと~っつ、ふた~っつ、みっ~つ、よぉ~っつ、いつ~つ、むぅ~っつ、
なな~っつ、や~っつ、ここの~つ、とおっ。はいっ!」
はいっ!と言われても。
そして、独特のおばばちゃんの節回しがなぜか恐い幼い私。
着物を着た小柄なおばばちゃんがうす暗い座敷にちょこんと座り、
なぜか低い声でお経のように数を数える様子は、
今の私なら横溝映画のようだと例えるのだが、
当時の私にその怖さの理由を具体的に表現できない。
オウム返しで言わせようとするおばばちゃんには悪いが、
どうしても言えない。
「ほれ、なんで言えない。いいか?」
また、おばばちゃんの数字お経がはじまる。
こわい。
こわいんだよ、おばばちゃん。
今思うと、節をつけることで歌を覚えるように覚えさそうという作戦だったのかもしれない。
しかし、それは完全に逆効果だった。
淡々と機械的に言ってくれたほうがよほど頭に入る。
いったん拒絶反応を起こした私の頭脳は休止していた。
そして。
あまりの覚えの悪さにいらついたおばばちゃんは、和裁用の物差しを右手に、
私が途中でつまるとピシッと容赦なくそれで私の手を叩いた。
今ならさしずめ、児童虐待か?
そんなことで記憶力がアップするはずもなく…。
おばばちゃんは、「pecoは、あんぽんたんだったんだ」と悲しそうにしていた。
それにしても。
なぜ、「イチ、二、サン、シ…」と算用数字で教えてくれなかったのだろうか?
後日、伯父が見かねておはじきを使い「イチ、二、サン、シ…」で教えてくれたら、
ほぼ一発で覚えられた。
しかも、私がただのあんぽんたんではないことを照明するために、
伯父は積み木を買ってきて、ひらがなを教えてくれた。
これも、一日で全部読めるようになった。
汚名挽回である。
これのせいかどうだかは定かではないが、
それ以降私は算数が大嫌いになった。
国語は大好きになった。
自分のこどもにはまず「イチ、二、サン」を教えてから
「ひとつ、ふたつ」を教えようと心に誓った学生時代であった。
初めて数の数え方を習った時のことを覚えているだろうか?
私は、母方の祖母に習った。
当時いろんな意味で余裕がなく
いっぱいいっぱいだった母を心配して、
母方の祖母はしょっちゅう様子を見に来ては、何日か連泊していった。
おみやげをいっぱい抱えてやってきては、
いろんな歌を教えてくれたり、遊んでくれるし、
帰りがけに「お母さんには内緒だよ」といって
まだ幼稚園に行く前のちびすけの私にちり紙にくるんだ百円札を握らせてくれる
『おばばちゃん』のことを、私は大好きだった。
あれは何歳の頃だったのだろうか?
ある時、おばばちゃんはまじめな顔をして
「pecoや。ここにお座り」
と言った。
また遊んで貰えるのか、それとも美味しいお菓子でも食べさせてくれるのかと、
わくわくしていると、
「今日は数を数えることを教えるよ」
と言う。
それまで、私は結構ほったらかしで好き勝手に遊んでいた。
今と違って知育玩具もあんまりないし、
父も母も自分のコトで精一杯だった。
同居している伯父夫婦は私を甘やかすのが趣味のような人たちだったので、
数を教えたりとかそういう方面はスルーされていた。
心配したおばばちゃんが人肌脱ぐことになったのだと思う。
で。
おばばちゃんはおもむろにお経のように唱えだした。
「ひと~っつ、ふた~っつ、みっ~つ、よぉ~っつ、いつ~つ、むぅ~っつ、
なな~っつ、や~っつ、ここの~つ、とおっ。はいっ!」
はいっ!と言われても。
そして、独特のおばばちゃんの節回しがなぜか恐い幼い私。
着物を着た小柄なおばばちゃんがうす暗い座敷にちょこんと座り、
なぜか低い声でお経のように数を数える様子は、
今の私なら横溝映画のようだと例えるのだが、
当時の私にその怖さの理由を具体的に表現できない。
オウム返しで言わせようとするおばばちゃんには悪いが、
どうしても言えない。
「ほれ、なんで言えない。いいか?」
また、おばばちゃんの数字お経がはじまる。
こわい。
こわいんだよ、おばばちゃん。
今思うと、節をつけることで歌を覚えるように覚えさそうという作戦だったのかもしれない。
しかし、それは完全に逆効果だった。
淡々と機械的に言ってくれたほうがよほど頭に入る。
いったん拒絶反応を起こした私の頭脳は休止していた。
そして。
あまりの覚えの悪さにいらついたおばばちゃんは、和裁用の物差しを右手に、
私が途中でつまるとピシッと容赦なくそれで私の手を叩いた。
今ならさしずめ、児童虐待か?
そんなことで記憶力がアップするはずもなく…。
おばばちゃんは、「pecoは、あんぽんたんだったんだ」と悲しそうにしていた。
それにしても。
なぜ、「イチ、二、サン、シ…」と算用数字で教えてくれなかったのだろうか?
後日、伯父が見かねておはじきを使い「イチ、二、サン、シ…」で教えてくれたら、
ほぼ一発で覚えられた。
しかも、私がただのあんぽんたんではないことを照明するために、
伯父は積み木を買ってきて、ひらがなを教えてくれた。
これも、一日で全部読めるようになった。
汚名挽回である。
これのせいかどうだかは定かではないが、
それ以降私は算数が大嫌いになった。
国語は大好きになった。
自分のこどもにはまず「イチ、二、サン」を教えてから
「ひとつ、ふたつ」を教えようと心に誓った学生時代であった。
小5、小6と、放送委員会に所属していた。
5年生になるとクラスの何人かは、いくつかある委員会に所属せねばならなかった。
放送委員会、保健委員会、体育委員会、園芸委員会、新聞委員会…
などなど。
私は迷うことなく放送委員会を選んだ。
念願の放送委員になると毎朝のアナウンス、お昼の番組、下校時のアナウンスを
当番制で担当することになった。
で、そのアナウンスのコメントは代々受け継がれてきたものが置いてあった。
朝。
晴れの日バージョン。
「みなさん。おはようございます。
今日は良いお天気です。窓を全部開けて、きれいな空気を教室にいれましょう。」
雨の日バージョン。
「みなさん。おはようございます。
今日は雨が降っています。窓を全部閉めて、雨が入らないようにしましょう。」
そして、曇りの日バージョン。
「みなさん。おはようございます。
今日は曇っています。窓を半分だけあけましょう。」
て、おい。
なんで曇りだと『半分だけ』開けるんだ?
雨が降ってないんだから、全開にすればどうだ?
降ってきたら閉めればいいじゃないか。
てか、晴れの日と雨の日は、窓を開けたり閉めたりする理由を言っているのに、
曇りの日は説明なしかよっ。
11才の私は多いに悩んだ。
それまで、放送を聞いて窓を開け閉めしていた時は、
全く考えもせず素直に従っていたのだが、
こうしてアナウンスする立場になって、活字としてコメントを読むと
なんともはや合点がいかない。
先輩に聞いた。
「どうして、曇りの日は半分だけなんですか?」
先輩はじゃまくさそうに言う。
「今までもず~っとそういうことになってたから」
そんなんじゃ納得いかない。
「でも、これ変ですよね?」
「曇りの日に窓を半分だけ開けることで、あんたなんか困るわけ?」
いらっとした様子で先輩が言う。
「困りません。」
「じゃあ、いいでしょ?余計なこと考えないで書いてあること
正確に読めばいいのよ。」
下校時のアナウンスにしても
「みなさん。下校の時間です。
使っていたものをもとの場所に片付け、帰る準備の出来た人から
早く静かに帰りましょう。
では、さようなら。」
何十年も前の話なので、ばっちり正確ではないけど、まあこんなかんじ。
このコメントでももめた。
「早く帰るのは分かるのですが、なぜ静かに帰らなければならないのでしょう?
早く帰ろうとすると、ばたばたざわざわどうしてもするのではないでしょうか?」
先輩の返事は、へりくつを言うなだった。
で、そのアナウンス練習の際、先輩たちは皆アクセントがおかしかった。
私は普段の会話はこてこての地元の方言で喋っていたが(今もそう)
マイクの前や舞台ではきっちり標準語で喋りたかった。
NHKのニュースやドラマを食い入るように見て、正しいアクセントを学んだ。
で、先輩がお手本で読んでくれたのを真似をして読むようにと言われても、
ど~してもおかしなアクセントで読むことに抵抗があった。
正しく読む。
すると、一言一句直されるのだ、おかしなアクセントに。
今は、情報網が発達していて地方でもかなりちゃんと標準語のアクセントを使える人は増えていると思うが、
当時の小学生にはほとんどいなかった。
少なくとも私の周りの先輩には。
せめて、顧問の先生が東京出身とかだったら良かったが、
地元から1歩も出たことのない先生で、
全くアクセントなど気にも留めない人だった。
私はよってたかっておかしなアクセントに直され、
泣く泣く違うアクセントで読まされた。
気にならない人には、全然どうでもいいことなのだろうが、
私は理不尽な思いに身もだえしつつ、
おかしなアクセントで、変な内容のコメントは読み続けた。
先輩たちが卒業したと同時に、アクセントを正し、
コメントの内容も先生にかけあって見直してもらったのは言うまでもない。
そして今。
理不尽なクライアントのごり押しで
おかしな内容になってしまったコメントを、
若いディレクターの間違ったアクセントのままで読まされることは
ごくまれにだがある。
大人になった私は、疑問をぶつけていい場かどうかの判断をし、
時には黙ってそのまま読む。
11才の私が、頭の後ろ側でため息をつくのが聞こえる。
5年生になるとクラスの何人かは、いくつかある委員会に所属せねばならなかった。
放送委員会、保健委員会、体育委員会、園芸委員会、新聞委員会…
などなど。
私は迷うことなく放送委員会を選んだ。
念願の放送委員になると毎朝のアナウンス、お昼の番組、下校時のアナウンスを
当番制で担当することになった。
で、そのアナウンスのコメントは代々受け継がれてきたものが置いてあった。
朝。
晴れの日バージョン。
「みなさん。おはようございます。
今日は良いお天気です。窓を全部開けて、きれいな空気を教室にいれましょう。」
雨の日バージョン。
「みなさん。おはようございます。
今日は雨が降っています。窓を全部閉めて、雨が入らないようにしましょう。」
そして、曇りの日バージョン。
「みなさん。おはようございます。
今日は曇っています。窓を半分だけあけましょう。」
て、おい。
なんで曇りだと『半分だけ』開けるんだ?
雨が降ってないんだから、全開にすればどうだ?
降ってきたら閉めればいいじゃないか。
てか、晴れの日と雨の日は、窓を開けたり閉めたりする理由を言っているのに、
曇りの日は説明なしかよっ。
11才の私は多いに悩んだ。
それまで、放送を聞いて窓を開け閉めしていた時は、
全く考えもせず素直に従っていたのだが、
こうしてアナウンスする立場になって、活字としてコメントを読むと
なんともはや合点がいかない。
先輩に聞いた。
「どうして、曇りの日は半分だけなんですか?」
先輩はじゃまくさそうに言う。
「今までもず~っとそういうことになってたから」
そんなんじゃ納得いかない。
「でも、これ変ですよね?」
「曇りの日に窓を半分だけ開けることで、あんたなんか困るわけ?」
いらっとした様子で先輩が言う。
「困りません。」
「じゃあ、いいでしょ?余計なこと考えないで書いてあること
正確に読めばいいのよ。」
下校時のアナウンスにしても
「みなさん。下校の時間です。
使っていたものをもとの場所に片付け、帰る準備の出来た人から
早く静かに帰りましょう。
では、さようなら。」
何十年も前の話なので、ばっちり正確ではないけど、まあこんなかんじ。
このコメントでももめた。
「早く帰るのは分かるのですが、なぜ静かに帰らなければならないのでしょう?
早く帰ろうとすると、ばたばたざわざわどうしてもするのではないでしょうか?」
先輩の返事は、へりくつを言うなだった。
で、そのアナウンス練習の際、先輩たちは皆アクセントがおかしかった。
私は普段の会話はこてこての地元の方言で喋っていたが(今もそう)
マイクの前や舞台ではきっちり標準語で喋りたかった。
NHKのニュースやドラマを食い入るように見て、正しいアクセントを学んだ。
で、先輩がお手本で読んでくれたのを真似をして読むようにと言われても、
ど~してもおかしなアクセントで読むことに抵抗があった。
正しく読む。
すると、一言一句直されるのだ、おかしなアクセントに。
今は、情報網が発達していて地方でもかなりちゃんと標準語のアクセントを使える人は増えていると思うが、
当時の小学生にはほとんどいなかった。
少なくとも私の周りの先輩には。
せめて、顧問の先生が東京出身とかだったら良かったが、
地元から1歩も出たことのない先生で、
全くアクセントなど気にも留めない人だった。
私はよってたかっておかしなアクセントに直され、
泣く泣く違うアクセントで読まされた。
気にならない人には、全然どうでもいいことなのだろうが、
私は理不尽な思いに身もだえしつつ、
おかしなアクセントで、変な内容のコメントは読み続けた。
先輩たちが卒業したと同時に、アクセントを正し、
コメントの内容も先生にかけあって見直してもらったのは言うまでもない。
そして今。
理不尽なクライアントのごり押しで
おかしな内容になってしまったコメントを、
若いディレクターの間違ったアクセントのままで読まされることは
ごくまれにだがある。
大人になった私は、疑問をぶつけていい場かどうかの判断をし、
時には黙ってそのまま読む。
11才の私が、頭の後ろ側でため息をつくのが聞こえる。
なんとなく美容院に行きそびれている。
中途半端な長さの髪がめんどうくさい。
週末あたりには予約をいれて行ってこないといかんな…
と、鏡に向かってつぶやいた。
大人になって、自由に美容院で髪型を変えられるようになって
すっかり忘れていた子どもの頃の思い出を書いてみようと思う。
よちよち歩きの頃から、多少色気付き始める小2くらいまで
私の年代の人ならほとんどそうであったように、
襟足を刈り上げ前髪をおでこと眉の真ん中あたりでぶっつり切った
いわゆるワカメちゃんカットだった。
もちろん、美容院ではなく近所の床屋のおじさんに切ってもらっていた。
当時、子どもがそれ以外のこじゃれた髪型をしていたのかどうか記憶にない。
とりあえず私のまわりはワカメちゃんだらけだった。
しかし、小学校にあがるとぼちぼちと伸ばし始める子が出てきて、
三つ編みにしたり、分けて結んでかわいい髪飾りをつけてくる子も出てきた。
バレエを習っている大きな酒屋の娘は、
学校にもシニヨンを結ってきていた。
うらやましかった。
で、私は母に髪の毛を伸ばしたいと訴えた。
散髪代が浮くと判断した母は反対はしなかった。
ワカメちゃんから、市松人形くらいの長さになった。
が、母には娘の伸び始めた髪をおしゃれな髪型にしてやろうとか、
かわいい髪飾りを買ってやろうという気はさらさらないようだった。
それは市松人形の髪が、姫ダルマくらいの長さになっても同じだった。
髪さえ伸ばせば可愛くなれると信じて疑わなかった私はこのとき気がついた。
ただ伸ばしてさえいればいいってもんじゃないということを。
とりあえず、自分で三つ編みを編むことをマスターし、
三つ編みにしてみた。
母から渡されたゴムは、黒ではなく白い板ゴムだった。
クラスの悪ガキどもに
「おまえ、パンツのゴムで髪結んどるやろ~」とバカにされた。
母にそのことを告げると、
じゃあこれで…と渡してくれたのはピンクの板ゴムだった。
そういうことじゃないんだ…。
母と自分の感覚の違いを埋めることをあきらめた小5の春。
お小遣いで、さくらんぼやいちごがついたヘアゴムを買った。
しかし、どんなにかわいい髪飾りをつけようとも
鏡の中の自分はどう見ても「可愛い髪飾りをつけた」田舎の子でしかなかった。
おかしい。
こんなはずではない。
ワカメちゃんカットを卒業し、ロングヘアになればかわいくなるはずだったのに。
なぜだ?
何が悪いんだ?
『もともとの顔の造作だよっ』
現在の私が当時の私にアドバイスしてやりたい。
小6の卒業写真の撮影日前夜。
研究に研究を重ねた結果、麻丘めぐみをお手本にすることにした。
お姫さまカット?というのだろうか。
顔のサイドのところの一部をぶつっと切ったかたち。
母の和裁用の裁ちばさみをこっそり持ち出し、
母の鏡台の前で、ぶちっと自分でカットした。
左右の長さがなかなか揃わず、思っていた長さよりずっと短い。
鏡のむこうにいるのは、麻丘めぐみではなく……お多福さんだった。
小学校の卒業写真の私は、麻丘めぐみになりそこねた不機嫌なお多福顔である。
中途半端な長さの髪がめんどうくさい。
週末あたりには予約をいれて行ってこないといかんな…
と、鏡に向かってつぶやいた。
大人になって、自由に美容院で髪型を変えられるようになって
すっかり忘れていた子どもの頃の思い出を書いてみようと思う。
よちよち歩きの頃から、多少色気付き始める小2くらいまで
私の年代の人ならほとんどそうであったように、
襟足を刈り上げ前髪をおでこと眉の真ん中あたりでぶっつり切った
いわゆるワカメちゃんカットだった。
もちろん、美容院ではなく近所の床屋のおじさんに切ってもらっていた。
当時、子どもがそれ以外のこじゃれた髪型をしていたのかどうか記憶にない。
とりあえず私のまわりはワカメちゃんだらけだった。
しかし、小学校にあがるとぼちぼちと伸ばし始める子が出てきて、
三つ編みにしたり、分けて結んでかわいい髪飾りをつけてくる子も出てきた。
バレエを習っている大きな酒屋の娘は、
学校にもシニヨンを結ってきていた。
うらやましかった。
で、私は母に髪の毛を伸ばしたいと訴えた。
散髪代が浮くと判断した母は反対はしなかった。
ワカメちゃんから、市松人形くらいの長さになった。
が、母には娘の伸び始めた髪をおしゃれな髪型にしてやろうとか、
かわいい髪飾りを買ってやろうという気はさらさらないようだった。
それは市松人形の髪が、姫ダルマくらいの長さになっても同じだった。
髪さえ伸ばせば可愛くなれると信じて疑わなかった私はこのとき気がついた。
ただ伸ばしてさえいればいいってもんじゃないということを。
とりあえず、自分で三つ編みを編むことをマスターし、
三つ編みにしてみた。
母から渡されたゴムは、黒ではなく白い板ゴムだった。
クラスの悪ガキどもに
「おまえ、パンツのゴムで髪結んどるやろ~」とバカにされた。
母にそのことを告げると、
じゃあこれで…と渡してくれたのはピンクの板ゴムだった。
そういうことじゃないんだ…。
母と自分の感覚の違いを埋めることをあきらめた小5の春。
お小遣いで、さくらんぼやいちごがついたヘアゴムを買った。
しかし、どんなにかわいい髪飾りをつけようとも
鏡の中の自分はどう見ても「可愛い髪飾りをつけた」田舎の子でしかなかった。
おかしい。
こんなはずではない。
ワカメちゃんカットを卒業し、ロングヘアになればかわいくなるはずだったのに。
なぜだ?
何が悪いんだ?
『もともとの顔の造作だよっ』
現在の私が当時の私にアドバイスしてやりたい。
小6の卒業写真の撮影日前夜。
研究に研究を重ねた結果、麻丘めぐみをお手本にすることにした。
お姫さまカット?というのだろうか。
顔のサイドのところの一部をぶつっと切ったかたち。
母の和裁用の裁ちばさみをこっそり持ち出し、
母の鏡台の前で、ぶちっと自分でカットした。
左右の長さがなかなか揃わず、思っていた長さよりずっと短い。
鏡のむこうにいるのは、麻丘めぐみではなく……お多福さんだった。
小学校の卒業写真の私は、麻丘めぐみになりそこねた不機嫌なお多福顔である。







