看板屋さんに頼んで新しく作ってもらった 「 石坂峠の説明板 」
設置した時の看板
11日の初午の日に写した看板
みやこ町犀川と田川郡赤村の境に石坂峠という、かつての難所がある。
その峠にある朽ち果てたこの看板を新品にして建て替えてから、今年で11年になる。
この峠道は、競輪選手を目指していた高校時代によく練習をしていた場所で、
その頃からお世話になっていた道である。
そんな石坂峠の名前を知ったのは、この看板が朽ち果てたのを見てから知ったもので、
その名前も由来も知らなかった。
当時は現役選手でもあったし、地方議員をしていた関係からか?
看板を目にしたことで 「 新しく作り替えよう 」 と思ったわけである。
朽ち果てた看板を持って帰ってそれを看板屋に持って行き、
「 おいちゃん。これと同じ物を作って 」 って言って、作ってもらったのが上の看板である。
文字とレイアウトだけを確認させてもらって、あとは看板屋さんにお任せした。
「 石坂峠改造顕彰碑の由来 」
石坂峠は、古くは上代から赤村が屯倉 ( みくら ) の所在地であったことから、
千数百年の昔から交通の要所であった。
然し、この峠は郷土史によると、「右は断崖絶壁で、
左は峨々たる嶮山の腹部に僅かに通路を設けただけのもので、
人馬の通行甚だ困難であった。
明治九年山浦の人、諧 ( かのお ) 利作氏は、
このことを苦慮していたが、意を決して友人の村岡良平氏と同心協力し、
近村の協力を得て、石坂峠の改造工事に着手した。
然し、その費用は予算に倍加し、遂に私有財産を挙げて工事費に投入した。
その為に完成したとき、家は極貧の最中であった。 」 と、赤村の郷土史に記されている。
明治四十年、赤村の有志、この挙を徳と称え、路傍に碑を建立して表彰したが、
昭和九年には道路の位置が変更されて、この顕彰碑は雑木林の中に埋もれていたが、
当時の石坂峠の改造の道は今なお、その一部が利用されているので、
赤村をはじめ、諧、村岡両家の関係者の協力を得て、
この度、この地に移設した。
昭和五十九年四月
移転完成
と、看板に由来が書かれている。
当時、議員をしていたので、この町の脆弱な財政状況をどうにかして良くしたい。
小さな負担で大きなサービスが受けられる住民サービスが出来るようにしたい。
「 この町のために、頑張りたい 」 。
そして、「 この諧、村岡両氏のように地域の人のために力になりたい。 」 と、
強く思ったものである。