「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県大宜味村 「 旧大宜味村役場 」

2016-01-26 03:39:41 | 沖縄の文化財










現在は村史編纂(さん)室になっている。






八角形のデザインが台風の暴風をいなす。
一般にも開放されていた屋上では、住民が漁の様子を見たりしていた。







工事の途中で付け加えられた2階の村長室。










明治30年代中頃、沖縄本島北部の大宜味(おおぎみ)村で一つの騒動が起きた。
事の発端は、村の工事の入札で地元大工が古都、首里の大工を負かしたことだった。
納得できない首里の大工は「9坪大工に200坪余が建てられるものか」と言って村に居座った。
しかし村の大工は見事に工事をやり遂げ、その鼻を明かした。

大宜味村史に紹介されているこの出来事は、
「大宜味大工(イギミゼーク)」の名を世に知らしめた。
夜明けとともに現れ、道具が見えなくなるまで働いたといわれる大宜味大工は、
早くて精巧な仕事ぶりで、都会の大工を脅かすほどの人気を集めた。

沖縄県内に残る最古の鉄筋コンクリート建築といわれる旧大宜味村役場庁舎を、
わずか半年で完成させたのもイギミゼークだった。
その時、棟梁として敏腕の大工集団を率いたのは弱冠22歳の金城賢勇だった。
金城は、晩年に記した自伝の中で 「 八角形というこれまでにない型枠工事は難しく、
かなりの技術を要求されました 」 と工事を振り返っている。

「 これまでにない斬新な庁舎 」 を設計したのは、国頭郡の建築技手、清村勉だった。
「 沖縄のコンクリート建築の父 」 と呼ばれる清村は熊本に生まれ、
26歳の時に沖縄に渡って来た。
鹿児島の高校で教員をしながら日本に導入されて間もない
「 鉄筋混凝土 ( コンクリート ) 」 を独自に研究していたことが伝わり、
郡役所に招かれたのだ。

着任早々清村は、南北約70キロに広がる郡内を自転車でくまなく見て回った。
そして、島の木造建築が台風や白蟻(あり)の被害に悩まされる様を見て、
耐久性に優れた鉄筋コンクリートこそ沖縄に適していると確信した。

しかし清村の考えはなかなか島民に浸透しなかった。
美里工業高校教諭の木下義宣さんは、生前の清村からこんな話を聞いた。

「 『 生きている人間が何でイシヤー(石屋)に入らないといけないのか 』 と、
強い反発があったそうです。
沖縄では石の建物イコールお墓のイメージでしたからね 」 と振り返る。

それでも清村はあきらめなかった。
実際に小さな建物を造ってみせるなどして台風や火事に強い最新工法をアピールした。
その努力が実り1925年、旧大宜味村役場庁舎が誕生した。

洋館風の外観デザインは、洋行する知人に送ってもらった絵葉書を参考にした。
茅葺き屋根が並ぶ村に瀟洒(しょうしゃ)な近代建築が立ち現れた時、
村民はさぞかし驚いたことだろう。
材料の海砂を自分の舌でなめて塩分濃度を確かめたというエピソードなど、
数々の設計秘話を残した清村も感無量だったに違いない。

「 鉄筋を曲げる道具さえなく全てが未体験という中で、
研究を重ねてそれを技術者に伝え、完成させた。その熱意に感動します」

誰も成し得なかった最初の鉄筋コンクリートの建造物。
清村のパイオニア精神と、
彼の先駆的ビジョンを受けとめた大宜味大工の職人魂。
米寿を過ぎて卒寿に達した白亜の建物には、
両者の運命的な出逢いが厚く塗り込められている。

晩年になっても当時の設計をミリ単位まで記憶していたという清村は、
沖縄に約20年滞在した後、熊本に戻った。
その間に手がけた建築のほとんどは姿を消したが、
戦時中も銃弾一つ受けなかった旧庁舎が清村と大宜味大工の功績を語り続ける

旧大宜味村役場 
所在地  / 大宜味村字大兼久157-2 
電話  / 0980−44−3009 
平日9時〜12時、13時〜17時(土・日・祝日休み)


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