沖縄県今帰仁村運天にある「百按司墓(むむじゃなばか)」
墓の説明版
百按司墓に通じる墓道
源 為朝公上陸の地碑
昭和初期に沖縄県今帰仁村の古墳「百按司墓」から
旧京都帝国大(現京都大)の人類学者が持ち出した遺骨を
京大が占有し続けているのは違法だとして、
第一尚氏の子孫を称する県民2人や
琉球民族遺骨返還研究会代表で龍谷大学の松島泰勝教授らが
遺骨の返還と損害賠償を求めた訴訟で、
京都地裁(増森珠美裁判長)は今日、請求を棄却した。
以前、琉球王朝時代の王や按司の墓や、
羽地朝秀や玉城朝薫など、琉球の歴史上の人物の墓をめぐっていた。
そんな時、今帰仁上がり(なちじんぬぶい)の志慶真乙樽や赤御墓、
大北墓(うふにしばか)などと一緒に百按司墓にも訪れたことがある。
「百按司墓(むむじゃなばか)」は、
沖縄県今帰仁村運天の運天港を見下ろす丘の中腹にあり、
「源為朝公の上陸の碑」の側から細道を下りて行くと樹木に覆われ、
昼間でも薄暗い墓道を進むと
左側の岩窪に積み石をめぐらして漆喰で固めてある。
墓口は無いが天井が開いている。
ここには数基の墓があり、いくつかの時代の墓所と思われる。
1、羽地按司に滅ぼされた中北山の戦死者の墓。
2、後北山が尚巴志王に滅ぼされた時の戦死者の墓。
3、尚巴志王統が滅び、その監守たちが葬られた墓。
4、尚徳王の悪政について行けない貴族たちの遁世(とんせい)した墓。
5、薩摩軍の攻撃で戦死した北山監守たちの墓。
そんなことが推測される。