昨日の新聞記事に目が止まった。
長野で行われたパラリンピックの取材を志願した
冨重圭以子記者が書いた競技の読み物は、
それまでの定番とひと味違った。
選手が障害を持つに至る過程や、
克服の仕方についてはあまり書き込まない。
それより一般のスポーツ記事と同様に、
その時点の能力でいかに戦ったか、
結果をどう受け止めたかにポイントを絞った。
アスリートの側面が浮かび上がった。
以下記事抜粋
「 視覚障害の選手を見ると、
最初は 『 大変だね 』 とささやきが聞こえる。
しかしレースが進むごとに 『 速い 』 、
『 格好いい 』 との感想に変わった 」
「 選手の側は、スポーツとしての扱いをかねてから求めてきた。
観客もスポーツとして認知し始め、
選手の望む方向へ、第一歩を踏み出した 」 とある。
障害の有無にかかわらず、人にはスポーツを楽しむ権利があり、
上達するにつれて、それにふさわしい競技の場が用意されるべきだ。
競技としての到達点の高さに感動し、称賛をするのに、
何かの区別をつける理由もない。
20年前に、現在の状況を見通していた冨重記者は
先月26日、楽しみにしていた平昌大会を前に62歳で亡くなった。
しかし、パラリンピックを見る人たちの視点が
後戻りすることはもうないはずだ。
これから9日間、白熱の戦いが始まる。
自分も競輪というスポーツを生業としていた関係から、
実際に出走していないレースを仮想で組み立てることがある。
このメンバーだったら、 「 こう走ろう 」 とか、
「 この選手を警戒しよう 」 とかを考え、
頭の中で走らせるのである。
まるで自分が走っているように・・・
スポーツ観戦は大好きである。
だからここでも気持ちがその選手に付いて行く。
選手が急斜面を滑ると、その傾斜やカーブに合わせて
知らず知らずにカラダを傾ける自分が居る。
そこには冨重記者が書いたように、
障害者との壁は無く、あるのはアスリートとしての戦いである。