その行為が教育としてほんものであるかどうかは、そこにほんものの学問、ほんものの芸術があるかないかの一事で語られる。
教育の場は、ほんものの学問、ほんものの芸術を享受して継承するだけでなく、それを想像して発展させる胎盤である。
(むのたけじ『詞集 たいまつ 1』90-91頁、評論社)
こんにちは
困ったときの「むのたけじ」です。
教育に関わる者として、耳が痛い・・・。
数年前、広島に高校生を連れて被爆者の方たちに話をうかがったことがありました。
教室で「広島に原爆が落とされ、多くのかたが亡くなりました。広島に原爆が投下された理由は・・・」といった授業をすることよりも、被爆者の方たちに話をうかがうことがどんなに大切なことか。
広島のまちそのものに「圧倒的な教育力」があると感じたことがあります。「ほんもの」がありました。
ほんものに触れると言うことの大切さはわかってはいることですが・・・。
まして自分がほんものになる・・・厳しい限りです。
はやく自分も「ほんものの学問」否、学問にとらわれず、「ほんもの」になりたいと思います。
ああ・・・それにしても・・・耳が痛い・・・。
今日も来てくださってありがとうございました。