Mail Onlineにエジルの生い立ちを追った記事が出ていました。
ドイツからスペイン、そしてイングランドのクラブへと移籍してきて、アーセナルを元気100倍にしているエジル^^
どんな生い立ちなのか英国人にも知ってもらおうという意図の記事なのでしょうか。
以前読んだドイツWelt Onlineの記事にも出てきた、かつての担任クラッべ先生など、エジルの成長に関わった人達の声が中心になっていました。
(話があちこち飛ぶので、少し修正してしまった箇所あります。テキトー訳で)
=================================
Mail Onlineより
The making of Ozil: How boy who took his ball to bed grew into £42m wizard
エジルはどんな風に育ってきたのか
ボールを抱いて寝ていた少年が4200万ポンドの価値ある天才プレーヤーになるまで
By Laurie Whitwell 8 November 2013
次の一手を敏感に感じ、そして考えるプレーヤーであるエジルが、チェスに精通した子供だった、と聞いてもさほど驚きではないだろう。
エジルは常にフットボールのことを考えている少年だったが、同時にルーク、ビショップ、ナイトを使って遊ぶゲーム、チェスも彼の高速回転する脳には魅力的だったようだ。
11歳から16歳の間、彼のフォーム管理担任だったクリスチャン・クラッベ氏は思い出しながら次のように語った。
『私達の学校にはチェスクラブがありました。彼は数学と、論理的思考、戦略と大いに関係するチェスに興味を持ちました。彼はかなり上手かったですよ。
もし今、ドイツチームから離れて、暇な時間を持てるなら、彼はチェスボードを持っていくでしょう。』
==================================
日曜日(10日)、アーセナルのミッドフィールダーはオールド・トラッフォードを舞台にそのスキルを披露するだろう。
彼のそのレーダーを使ったようなパス技術が、最初に磨かれたのは、彼の家からほど近いゲルゼンキルヒェンのビスマルク地区にある『猿の檻』と呼ばれる網状フェンスで囲まれたスペースだった。
『彼は晴れの日も雪の日も雨の日も、毎日そこに行っていた。』と話すのは彼の兄、ムトゥル。
中学校の副校長ヨアヒム・エルマン氏は、当時のエジルはフットボールに魅了されていて、『少し自閉症気味』だった、と語った。
『彼はボールをベッドの中まで持って寝ているのではないか、といつも感じるほどでした。』
教室の窓からはシャルケのホーム・スタジアムが見えた。
早いうちから現れていた才能と、ブンデスリーガと密接な関係にある学校、素晴らしい卒業生たち。。。そんな環境の中で、夢見る少年の心がそちらに向くのは当然のことだった。
ノイアー、ドレクスラー、へヴェデスなどもこの学校の卒業生だ。
この学校では週三回、午前中はフットボールの練習に当てられた。
エジルは控え目な子で通っていたが、トレーニングと試合の日だけはその性格が一変した。
『彼と初めて会った時、年を尋ねたのですが、彼は他のメンバー達より2歳は年上に違いない、と思いました。それほど知能の高さを感じました。
彼はピッチ上では別人格でしたね。爆発していました。』
=================================
エジルはトルコ移民2世であるムスタファとグりツァーの息子だ。
(お母さんに帰郷の挨拶をするエジル)
Bornstrasse 30にあるアパートで、ムスタファとグリツァーによって育てられた。
そこは静かな住宅地域で、手入れの行き届いたビルが並ぶ。
彼は両親の他、兄のムトゥル、妹のNese、Duyguと住んでいた。
近所の住人の一人は、こう話している。
『メストは優しい子で、彼に会うといつも親しげな挨拶をしてくれました。』
ビスマルク地区は、住人16,000人程の多少暗く雑然とした郊外地区だ。かつて炭鉱産業に移民労働者たちが多く集まった地区である。エジルの祖父も1960年代にそうした労働に携わった一人だった。
しかしそれも1966年、北西地区の主要炭鉱が閉鎖となり、移民の雇い入れは停止となった。
社会の流動性が制限され、ゲルゼンキルヒェンはドイツで最も失業率の高い都市のひとつとなった。
炭鉱業の活気が徐々になくなり、ついに閉鎖されてから後、数十年間の失業率は30%に近かった。
==================================
エジルの実家は、今はきちんとした地域のタウンハウスへとアップグレードされている。
ドライブウェイがあり、きれいに手入れされた芝生のある家だ。しかしエジルの資産を考えると、まだ控え目の住宅である。
兄ムトゥルは地元のクラブでプレーしていた。
父ムスタファは(小さなレストランを経営していた)兄よりもっと優れたスキルを持つエジルを、Westfalia 04 Gelsenkirchenへ連れていった。
そこで彼は7歳の息子を、大胆にも『世界最高のプレーヤーになるだろう』と言って紹介した。
当時のクラブ・コーチRalf Maraun氏は振り返る。
『彼は貧弱で小柄な子でしたが、25メートルのシュートを放てました。足は速く、どのボールの競い合いにも加わっていました。
彼は本当のストリート・フットボーラ―でしたね。一度我々のクラブが12対0で勝った試合がありましたが、そのうちの10点はメストによるものでした。
その試合後、相手の監督が私を脇に呼んでこう言ったのです。「次の試合では、あの子を家に残しておいてくれないか?」ってね。』
3年後エジルはTeutonia Schalke-Nordに移った。それから1999年にはFalke Gelsenkiruchennへ。
エジルがFalkeを去った時のことは、ファルケ当局者にとって今でも胸の痛みとして残っている。エジルは12歳の誕生日を迎える33日前に去ったのだった。
従ってファルケは、選手が移籍する際に生じるFIFA規定による育成金を受ける権利を得られなかった。
その後エジルは2000年から2005年までRot-Weiss Essenでプレーした。
このクラブは今回のアーセナルとの契約金の一部640,000ポンドを得る権利がある。
アンドレアス・ヴィンクレル氏が当時のコーチだった。
ヴィンクレル氏はエジルの父親の扱いの難しさについて、彼の考えを次のように述べている。
『ムスタファ・エジルは取引する相手としては手を焼く人です。彼はエジル一辺倒で、彼が大きな才能の持ち主だということを知っていました。
彼は全てのトレーニング、全ての試合に来ていました。彼の生活の中心に息子メストがいたのです。』
ムスタファが2011年7月、息子の代理人となった時、人々は眉をひそめた。
が彼はその役割を先月手放した。エジルが兄ムトゥルを代わりに代理人に任命すると決めたからだ。
『私はムスタファとは良い関係を保っていました。私も彼と同意見で、エジルの才能を見てとりました。』とヴィンクレル氏は続けた。
『当時メストはやせ過ぎでいて、クラブの代表は長い間彼の潜在能力を見抜けませんでした。でもチームメイト達には彼の才能が伝わっていました。
ウチのフィールドは穴があったり、芝の代わりに灰が撒いてあったりで、ひどく悪い状態でしたが、メストにとってそれは問題じゃありませんでした。彼のボールコントロールに何の支障もなかったです。』
ピッチ上では頭角を現していたエジルだったが、それ以外では痛々しいほど静かな存在だった。
『メストは言葉を発しませんでしたね。』とヴィンクレル氏。
『とてもシャイだったけれど、人懐こい眼をしていました。彼が話をした唯一の時といえば、ナイキの新しいシューズを買ってあげた時でしたね。
彼は特別なプレーヤーだったので、私がシューズを買ってあげていたのです。』
裕福とは程遠い家族からそれは歓迎され、結局苦労が報われた形となった。
ヴィンクレルはエジルの父親から、Rot-Weiss Essenを去る際、お別れの印としてもらったプレゼントを思い出す。
『ムスタファは私にトルコの特別な食糧が詰まった袋をくれました。中には数匹のイワシ、紅茶、ソーセージ、それに小さなグラスが感謝の気持ちとして入っていました。』
その頃にはエジルはピッチ外でも自分を表現し始めていた。シャルケの目にとまった17歳の彼は、髪を染めていた。
シャルケのU19コーチ、エルゲルトは2005年のエジルに目眩を感じた。
『彼の優れた判断力は並はずれたものでした。私は当然のことながら思ったのです。
- この若者はシャルケでプレーしてもらう、と』
2006年バーミンガムのウィンガー、Peter Lovenkrandsはシャルケに移籍してきた時、エルゲルトと同じように、その痩せたプレーヤーの抜群のボールタッチの上手さに驚嘆した。
『当時エジルはまだ少年で、ほんの数回しか出場の機会がなかったけれど、トレーニング時の彼は現実とは思えないほど素晴らしかった。最高の選手の一人で試合を支配していた。
彼のテクニークは夢のようだった。二人の相手に囲まれていても、突然抜き去ってしまう。彼を捕まえることは出来なかった。彼の足の動きは速過ぎでした。』
2007年11月、そのLovenkrandsがエジルに代わってCLグループステージ、対チェルシー戦にサブとしてメンバー入りした。
シャルケは最終的には準々決勝でバルセロナに敗れたが、エジルはノックアウト・ステージでも出番はなく、新加入のIvan Rakiticのディフェンシヴな役割が優先された。
『彼は残りたかっただろうし、シャルケで評価され、プレーしたかったと思います。』とLovenkrands。
『エジルはちょっとイラ立っていました。当時シャルケのジェネラル・マネジャー、アンドレア・ミュラーと話し合ったのをおぼえています。
『彼を手放してはダメですよ。』と私は言ったけれど、
ミュラーは『我々には代わりにRakiticがいる。彼は素晴らしい!』と言っていました。
残念です。今現在のエジルを見てみるといい。』
当時ヨーロッパのビッグチームがエジルに興味を示し、マンUとアーセナルからは接触があった。
(シャルケU19の監督)エルゲルトはエジルが当時『いつかスペインとイングランドでプレーしたい。』と言っていた、と語る。
彼が口にしたクラブはアーセナルだった。
しかしエジルはまだドイツを出る覚悟は出来ておらず、そのためブレーメンが得をすることになった。そして代表チームも。
彼はブレーメンで新しい役割を与えられ、成長、活躍した。創造性が評価され、アシスト王にもなった。
2009年2月、エジルは彼の父ムスタファが1967年移住してきた国、ドイツの代表に初めて選出された。それまではトルコ代表入りを打診されていた。
エジルはドイツ代表試合前、ドイツ国家を歌わない。
イスラム教徒なので、コーランの一節を暗唱する。
(2010年WCでの活躍で一躍注目を浴びた)
2010年WC後、レアル・マドリードへの移籍を果たしたエジルの活躍は周知の通り。
今回アーセナルのチームメンバーとして、ドルトムント戦に勝利するため生まれ育った町の近くまで遠征してきた。
学校に立ち寄ることは出来なかったけれど、クラッベ先生へメールを送った。
『先生の幸福を祈ります』などと書いてあったそうだ。
シャルケとドルトムントがライバル同士であることを考えてみると、エジルは水曜夜、(ドルトムント戦で)注目の的かもしれない。
しかしエジルはそんなことでは怯まないだろう、とクラッベ氏。
『彼が16歳だった時、電車に乗ってドルトムントの試合を観戦しに行ったことがありました。
一緒に南スタンドで観戦したのですが、そこでドルトムントのファン達が歌い叫ぶ姿を目の当たりにしたのです。
私は『胸に留めておくべきなのは、この雰囲気だ。』と彼に言いました。
『メストは観客達の様子を見て、本当にビックリ仰天していました - ファン達のハートはフットボールの中にあるんだ、と。彼らはクラブのために生き、フットボール以外のことは話さないんだ、と。』
人々は未だにゲルゼンキルヒェンにいたエジルのことを話題にするそうだ。
どう相手を打ち負かすか(チェックメイトするか)を常に追及していた少年のことを。
(Mail Online記事ここまで)
=================================
読み返してみたら、なんだかまとまりのない記事でした。
誰が発した言葉なのか分かりずらいデス。。
そんな中から『やっぱりそうだったんだ~』と感じたことを拾っておくことにしましょう:
☆10歳にも満たない頃から、すでに『ただ者ではない』ウィザードぶりを発揮していた!。それも並はずれた、現実じゃないような子だった、という形容の仕方がすごい。
☆それなのに、ものすごく口数少なく、必要なこと以外はしゃべらなかったという極端に引っ込み思案な性格。
☆ムスタファさんの評判;;だけどお別れの食料品の入った小さなプレゼントには、ちょっと胸熱。
☆ブレーメンへ移籍時、もうすでにマンU、アーセナルとの接触があった。エジル自身もアーセナルの名を口に出していた。
☆どこかで読んだ気がするのだけれど、やっぱり先月、代理人がパパ・ムスタファから兄ムトゥルに代わっていた。
☆今でも恩師クラッベ氏に、事あるごとにメールを送って連絡を取っているらしい、そんな律儀な面。
これら全部ひっくるめてエジルという人物が出来上がっているのだな、人って複雑でミステリーに満ちていて面白いな、って思います。
明朝には、いよいよビッグゲーム三連戦目のマンチェスター・ユナイテッド戦がやってくる。
気持ち引き締めて、良いプレーと良い結果を!期待します。
フラッベ先生の記事は読んでいるだけで、自分も諭されている気がしてきます。
以前は「謙虚であるように、自分らしくあるように」、「自分の足で歩きなさい」にドカンと心がやられました。
そうそう。香川君のおかげでBS1で時々エジルが観れますね!
ラッキーです。
バラックのファンでしたので、その頃から楽しみでした。
エジルも実は、このプログで知り、お気に入りの選手でした。
そして今シーズン、一番お気に入りのチームに加入してくれました!
優しくおとなしい選手という印象で見ていましたので、親のような心境で心配していましが、チームに馴染んでくれていますね。
これからもエジルとプログを応援します。
通っていたベルガーフェルト総合学校の教育方針、人間教育は素晴らしいですね。
学生達に『君たちはフットボールの才能には恵まれているけど特別な人間ではない』と常に諭して現実に引き戻す。
エジルは本当に良い指導者たちに恵まれましたね。今でも連絡をとっているという先生、とても慕われてるようです。
NHK、マンU戦放送ありますね。アーセナルは首位を走っているので放送数も増えるのでは^^? JSportsでは毎試合放送してくれてます!
国際親善試合イタリア戦、どこも放送してくれないわ、と思っていたら、エジル、メルテさんはどうもインフルエンザで不参加みたい。
ハイライトを観るだけ、になりそうです。
koさんはアーセナル応援隊なのですね。心強いです!
ガナーズについては新米応援隊員でして、やっとメンバーの名前を覚えてきた程度。
ロシツキーはかつてドルトムントのエースナンバーを背負っていた人なのだ、って先週のCL戦で初めて知りました(^^;)。こんな程度なので危なっかしく見守ってくださいませ。
マンU戦、残念ながら負けてしまったアーセナルでした。
メルテ、ロシツキーの欠場はウィルスに倒れた、と伝えられてますが、実はエジルもアルテタもニャブリも体調不良だったようですね。
15日のイタリアとの親善試合には二人とも参加は控えるみたいですし。
ロンドンでのイングランド戦はどうでしょうか。インフルエンザなど、早く振り払って元気になってほしいです。
やはり彼のプレーからみんなインテリジェンスを感じるのですね。
ところで、NHKとスカパーの放送を見比べたら、NHKはエジルがちょっといい動きをしたところやらアップされたシーンやら2分近くカットされてました!!
なぜエジルをカット・・・(泣)
傍でプレーしていると、何か発信しているものを感じるのでしょうか。不思議なパワーを持っているように思えます。
エジルが来ると周囲がみんなハッピーになるような、そんなパワー^^
NHKとスカパー両方見たんですか~!?すごい~!しかも2分間とか、時間まで計って。もう気合の入り方が違う~。頭下がります。尊敬します^^。
でもなぜカット?