小樽のパパの子育て日記

日々のできごとを徒然なるままに2006年から書いて19年目になりました。
ヤプログから2019年9月に引越し。

授業参観

2011-04-12 12:20:15 | インポート
今日は小学校の授業参観。
ママが仕事で行けないというので、パパがお休みをいただいて行くことにした。

朝、それを遥に話すと、

「えー パパが来る人なんていない。はずかしいからこないで。」

パパ
「え?じゃ、パパもママも誰も行かないことになるよ。そのほうがいいの?」

「パパだけでくるんなら・・・・・まあ・・そういう・・・・ことかな


んだとぉ~。意地でも行ってやるからぁ~


コスト意識

2011-04-12 08:30:50 | インポート
行政事務は、コストだけで測ることのできない仕事が多い。
例えば税金の徴収などは、公平性確保の観点から場合によっては、
1000円集めるために1万円の経費を掛けることもあるだろう。
(この1万円をどう8000円、6000円にしていくか、という業務効率化の話は別の機会に。)


しかし、1000円集めるために1万円の経費を掛けると言われて納得する人も
これが、100円集めるために100万円掛けました、と言われたらどうだろう。
いくら何でもかけ過ぎだろうとなる。

つまり程度問題なのだ。

どの程度までなら経費を掛けていいのか。
どの程度までならみんな(市民)に理解されるのか。

自治体を運営していく上で、すべての事務事業においてコストを意識することは、これからの時代は必須である。
そして、一番高いのが人件費であることも。






例えば広報誌の写真。
いい写真を撮ろうと担当職員は頑張るのだが、その頑張りは過度に期待されるべきではない。
市政の記録を残すためにも写真は必要なものだが、その写真には芸術性は必要がない。
担当職員にそれを求めるとコストが高くつくからだ。

数年おきに異動する職員は、その担当になってはじめてカメラを持ち出し、撮影技術を身につけようとしてきた。
過去には、その訓練のために相当の時間と金を費やし、研修などにも職員を参加させていたのだが、限られた人員で自治体運営をしなければならないこの時代にはそんなことに悠長に経費をかけるべきではない。
本人の自己研鑽に任せ、素人のそれなりの写真でいいと割り切るのだ。

もし芸術性の高い写真がどうしても必要なら、写真を趣味にしている方から(もしくは職員から)
提供してもらえばいい。市民協働の時代なのだから。
(そういうネットワークづくりに人、モノ、時間を積極的に割くべきだ、という話は別の機会に。)


ごく最近の過去にあったできごと。
表紙写真は顔であるとの理由で、その撮影だけのために数名でロケハンし、トータルで数日もかけて渾身の1枚を撮っていた。
自己研鑽、自己満足のためにやっているのであれば理解もできるが、業務としてそれを行い、多額の超過勤務手当が発生していたとしらどうだろう。
表紙写真はいい写真であるに越したことはないが、残念ながら、注力すべき仕事の力点を見失っていたと言わざるを得ない。




「取り組み」と「取組」。
「受け付け」と「受付」。

この表記、どっちが正しいか?なんて一般の人がどれだけこだわるのだろうか?



公文書の作成に関する訓令によれば、
公文書に用いる漢字は、常用漢字表(平成22年内閣告示第2号)の範囲とし、その使用等については、公用文における漢字使用等について(平成22年内閣訓令第1号)の例によるものとし、仮名遣い及び送り仮名については、それぞれ現代仮名遣い(昭和61年内閣告示第1号)及び送り仮名の付け方(昭和48年内閣告示第2号)の例による、
と規定されている。

ちょっと面倒な部分は省略するが、
つまり、この訓令に基づけば「取組」、「受付」が正しい表記となる。

一方、この訓令とは別に広報誌だけは、共同通信社「記者ハンドブック 新聞用字用語集」を参考にして編集することを慣例としてきた。
新聞記事にならい、日常一般に使われる標準的な口語体を使って、誰でも読める分かりやすくやさしい文章で広報誌を編集すべきとの考えに基づいている。

この新聞用字用語に基づけば「取り組み」、「受け付け」が正しい表記となる。


これらチェックを担当職員が行う。
各課からの原稿の「取組」を「取り組み」に、「お問合せ」を「お問い合わせ」に修正する。
結構時間がかかる。1時間でチェックしているならいいのだが、完璧を求めるためにその何倍もの時間も費やしているとしたらどうだろう。
人がチェックするということは、つまり人件費が発生するということだ。

肝心な日付が間違っている、なんていうのは言語道断であるが、
「取り組み」が「取組」になっているくらいの間違いは許容されてもいいのかも知れない。
「取り組みだろうが、取組だろうが、どっちだって読めればいいです。」
一般の方は案外そう思っているのかも知れないのだ。
これは極論であるが、そもそもどっちでもいいことにして表記揺れを許容してしまえばこの仕事自体もなくなる。
(仕事そのものをアウトソーシングすべきだ、という話は別の機会に。)


官庁が発行する公文書には微塵の誤りも許されない。昔の役人はそう考えた。(今もか?)
しかし、その完璧は、相応のコストを掛けることによって成立しているのだ。
軽微な誤りを許容することによって、コストがうんと下がるのであれば、それも一つの選択肢となり得るのではないか。
つまり、これも程度問題なのだ。




「一般的」とは何か。「普通」とは何か。

どの程度までなら皆に(市民に)許容されるのか、意識しながら仕事をすることが大切だ。
そして、コストを意識して、コストと連動させながら前例にとらわれずに仕事を組み立てていくこと。

常に感覚を研ぎ澄ましていなければいけない。

自戒をこめて。




選挙総括(北海道新聞)

2011-04-12 08:14:04 | インポート
北海道新聞の後志版。
選挙を総括していた。

知事選
小樽でも木村氏の得票は26.87%にとどまった。
うーん。現職はもちろん強いのだが・・・。

道議選
記者座談会。このABC形式、たまにはいいですね。
読者には、道新はしっかりとした取材に裏打ちされているという安心感があります。
だからこそいいのです。好き勝手にも言えて。

「しこりがのこったねえ。」
「黙認していたんだよ。」
「正直、少し白けてしまった。」

フフフ。

核心にせまりすぎてもいけない微妙なバランスを保ちつつも、チクッと刺すのが筆者の腕の見せどころです。


それにしても共産議席が小樽から無くなるとは・・。