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郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第2回

2009年12月10日 | 伊予松山
「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第1回の続きです。サラ・ブライトマンの歌、なかなかいいです。

NHKスペシャルドラマ 「坂の上の雲」 オリジナル・サウンドトラック
久石譲,外山雄三,NHK交響楽団
EMIミュージックジャパン

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今回の目玉は、なんといってもサン・シール!!!wiki-サンシール陸軍士官学校)です。

社団法人・日本映画テレビプロデューサー協会 特集 大型企画1「坂の上の雲」

しかし、サンシールを出すならば、子規の叔父・加藤拓川を、ぜひ、出していただきたかったところです。

加藤恒忠(たむたむページ)

上のサイトさんに詳しいのですが、好古の友人です。

「坂の上の雲」の幕末と薩摩で、
フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)
と書いたんですが、確かどうも、最初に拓川が伯爵のお供をして、好古は後から追いかけてフランスへ行った形だったようですので、黒田清輝と好古と、顔合わせくらいはあったでしょうけれども、つきあいがあったかどうかは微妙です。私、大昔に仕事で、ごく短い好古さんの伝記を書いたことがあるのですが、詳しい内容を忘れこけてしまっております。

ひとびとの跫音
司馬 遼太郎
中央公論新社

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上の司馬遼太郎氏の作品は、「坂の上の雲」後日談というにはとても地味なんですが、正岡子規の死後養子で、加藤拓川の息子、正岡忠三郎の周辺を描いたドキュメンタリー、といいますか、随筆のような物語で、私はとても好きです。拓川も出てきますし、子規の妹・律も出てきます。
実は拓川の伝記も、ごく短いものですが、書いたことがありまして、お墓の写真を撮りに行きましたが、拓川は「少しでも解放の役に立てば」と、遺言により、一族の寺ではなく、関係者のお寺の境内に眠っているんです。外交官が市長を務める、というのは、当時において、陸軍大将だった秋山好古が、新説私立中学校の校長を務めたのに匹敵するくらい異例のことだったようでして、乞われたとはいえ、両人、ほんとうに故郷を愛していたのだと思えます。

ところで今回、最大のえええっ???は、原作にない話なんですが、律さんが真之を追いかけていく場面でして、当時、律さんが住んでいました中の川から三津浜までは、けっこうな距離なんです。三津浜は、お城下ではありませんし。まあ、当時の人は歩いて行きもしたでしょうけれども、「走るかっ!? 普通???」と、私が思わず叫びましたら、妹は「律さんはマラソンランナーだったのよ、ホホホホホ」と応じました。

NHK松山放送局 坂の上の雲 正岡律ゆかりの地

地図を1/75000に切り替えますと三津浜が出てきますが、JRでも一駅ありますし、JRの三津浜駅はえらく港から離れてまして、実際の距離からいきますと2駅分くらい。現在では、三津浜港はさびれていまして、旅客船は大方、すぐ北にある高浜港のそのまた北、松山観光港に着きます。で、律さんが住んでいた場所に近い市駅から高浜まで、伊予鉄道高浜線が走っていまして、こちらでいきますと市駅から六つ目が三津駅です。

だいたい、ですね。夏目漱石が「坊っちゃん」 (新潮文庫)で描いております「坊ちゃん列車」は、明治21年、全国でも2番目に古い私鉄として城下から三津までが開通していまして、三津浜は、もっと賑やかな場所だったと思います。

坊ちゃん列車(たむたむページ)

調べてみましたら、海軍兵学校が築地から江田島に移ったのは、この明治21年でして、真之の帰郷は江田島からということですから、好奇心旺盛な真之は、三津浜から、あるいは三津浜まで、できたばかりの坊ちゃん列車に乗った可能性が高いんですね。

ついでにもう一つ、細かいことを言いますと、私が生まれました大街道は、明治時代、真ん中に川が流れておりまして、道幅は、現在よりもだいぶん狭いんです。米軍の空襲で全焼し、戦後、区画整理で住民が土地を供出し、現在の道幅になりました。
川のそばには柳が植えられていたらしく、まあ、そうですね、賑やかな城崎温泉街とか祇園白川通りとかをイメージすればいいのでは、という感じです。真之が帰郷して、父親と出会ったのがこの大街道なのですが。

話はとびますが、日露戦争中、松山には捕虜収容所がありましたが、その待遇のよさが知れ渡り、投降するロシア人は「マツヤマ!」と叫んだといいます。道後温泉の入浴や海水浴もあり、経済的に余裕がある者は、市内に妻を呼びよせることも可能だったりしたみたいなんですが、やはり、慣れない土地での暮らしです。当時は、今のように医療水準も高くないですし、百名ほどがここ松山の地で、亡くなったんですね。異国で果てた彼らを葬ったロシア人墓地が、今も城北にあり、近所の人々がボランティアできれいにお祀りしております。






第一次大戦のときも、一時、少数ながらドイツ人捕虜を預かっていたような話で、そのとき病死した一人の海兵隊員も、このロシア人墓地で眠っています。

 

さらに、松山が空襲を受けた太平洋戦争において、空襲機、あるいは空襲機の護衛をしていた米軍艦載機のパイロットの中には、迎撃機に打ち落とされて松山近辺で戦死、ということもありました。その中で、結局身元がわからなかった米兵のお墓も、一つあります。墓石の裏面には、昭和20年8月9日とありますから、終戦のほんの6日前に亡くなったんですね。
無名の米兵の墓が、ずっと守られてきたということは、おそらく、なんですが、息子や夫が戦死して、遺体も帰ってこなかった松山の人々が、異国に眠る身内に思いをはせつつ、敵であった無名戦士を悼んだ、ということなんでしょう。

 



ドラマに話をもどしますと、松山の描写については、いろいろと細かな不満があるのですが、全体に、NHKにしては近年になく、出来のいい歴史ドラマ、と思います。ああ、そういえば、夏にやった「気骨の判決」も、けっこうよかったですけど。

NHKスペシャル 終戦特集ドラマ「気骨の判決」

しかし、司法の話とかははりきってドラマ化しますのに、近代戦史はろくにドラマ化してこなかったNHKが(妙に内籠もりに偏った反戦スタンスをとったものならあったのかもしれませんが)、世界史の中の日本、という視点を尊重して、「坂の上の雲」をドラマ化してくれているのは、歓迎です。

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