郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

リーズデイル卿とジャパニズム vol1 出会い

2008年07月06日 | ミットフォード
 また長らく休んでしまいました。
家庭の事情もあるのですが、アーネスト・サトウの生涯を調べているうちに、大英帝国の極東外交とか、植民地政策とか、世界戦略とか、それに対峙した清朝の状況とか、ヴィクトリア朝の社会情勢とか、あらゆる方向に興味が飛びまして、あれこれあれこれ、本を読みふけってしまいました。
 と、そうこうするうちに、えええっ!!!!!と、驚くことがありまして、興味はすっかり、幕末維新期に、アーネスト・サトウの同僚、といいますか、上司だった在日イギリス外交官、後のリーズデイル男爵、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード、愛称バーティの上に。
 えー、現在週に一回、英語の個人教授を受けつつ、バーティの伝記を読み進めておりますんですが、そうまでになりました理由を、まず。

「英国外交官の見た幕末維新―リーズデイル卿回想録」 (講談社学術文庫)
A.B. フリーマン・ミットフォード
講談社

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 この本はもう、何回もご紹介しています。
 冒頭で、「遠い崖」の荻原延壽氏が、「本書に寄せて」という一文を書いておられて、その中に、1916年(大正5年)、といいますから第一次世界大戦の最中、バーティ・ミットフォードが79歳で死去した折、サトウが日記に記した文が引用されています。

 8月17日 (前略)散歩から帰ると、リーズデイル夫人の電報が届いていた。「主人は今朝安らかに息を引き取りました」と。さっそく悔みの電報を夫人に送った。
 われわれがはじめて日本で会ったのは、1866年(慶応2年)の秋、リーズデイルが当時横浜に在ったイギリス公使館の一員になったときである。それ以来、われわれはずっと親しい友人であった。わたしはかれの日本語の勉強の手助けをするため、初歩的な日本語の例文を書き、これを「会話編」と名付けて印刷させた。かれは日本語を学びはじめたとき、すでに相当の数の漢字を知っていた。やがてパークス(公使)が公使館を江戸に移してからは、丁度公使館の門前に在って、泉岳寺とも向き合っていた門良院という小さな寺を二人で借り、勤勉と放縦とが入り交じった生活、つまり、よく働き、よく遊ぶといった生活を共にした。われわれは数多くの冒険を共有したが、そのことは昨年かれが刊行した「回想録」(Memories)に述べられている通りである。
 かれは1837年(天保8年)2月の生まれだから、わたしよりも約六歳年長である。
 わたしはかれのバッツフォード(Batsford)の古い家にも、それを後にかれが建て直した新しい家にも、よく泊りにいったものである。最後に会ったのは、この7月23日、昼食を共にしたときだが、あのときは非常に元気そうに見えたのだが。


 バーティ・ミットフォードは、1870年(明治3年)1月、休暇をとるためイギリスに帰国し、その後、外交官として日本にかかわることはありませんでした。
 一方のアーネスト・サトウは、通訳官から外交官に昇格し、以降も長期間にわたって、日本と関係を持ち、日清戦争の後、イギリスにとって日英関係の重要性が増した時期に、駐日公使をも務めました。
 帰国後のバーティは、ヴィクトリア女王の長男であるエドワード皇太子、後のエドワード7世、なぜかこの方も愛称がバーティですが、に気に入られ、建設省長官を務めているうちに、独身子なしの親戚から広大な領地を相続し、下院議員となってみたり、どうも華麗な社交生活を送ったみたいなのです。
 なにしろ、エミール・ゾラの「ナナ」にも登場し、フランスにまでも遊び人として名がとどろいていたエドワード皇太子の、お気に入りだったんですから。
 
 えーと、私、それで、ふと、サトウが泊りに行ったこともあるという、バーティのカントリー・ハウス、バッツフォード(Batsford)について、調べてみる気になりました。
 バーティ・ミッドフォードは、1901年(明治34年)にヴィクトリア女王が崩御し、親友の皇太子が即位して、男爵に取り立ててくれるまで、爵位はありませんでしたが、バーティに領地を残してくれた親戚は、男爵、伯爵と二つの爵位持ちでしたし、バーティのように親戚に貴族がいるような、イギリスのジェントリー(地主・郷紳)は、例え爵位がなくとも、フランスなどの基準でいうならば、貴族なのです。
 バッツフォードは、バーティが領地と共に爵位持ちの親戚から譲り受けたカントリー・ハウスですが、エドワード7世も宿泊したということですし、大庭園つきのマナー・ハウス(領主館)といえるような規模のものだろう、と思ったような次第です。
 ヴィクトリア朝のカントリー・ハウス! 執事がいてメイドがいっぱいて、これはもう、りっぱに「エマ 」(Beam comix)の世界です!
 で、検索をかけてみました。

Batsford Arboretum(バッツフォード植物園)

 第一次大戦後、バーティの跡を継いだ息子が、維持しきれずバッツフォード邸を手放すのですが、第2次大戦後には、広大な庭園はバッツフォード植物園として、一般公開されるようになったようなのです。
 舘の方は、今なお個人住宅で、公開されていません。
 驚くのはこのバッツフォードの庭園、和風を取り入れていたことです。
 バーティは、1896年(明治29年)にThe Bamboo Garden(竹の庭)という本を出しましたし、竹とか紅葉とか桜とか、日本から植物を取り寄せて、大規模なジャパニズム風景庭園を造ろうとしていたようです。
 一時、荒廃していたそうなのですが、現在では整備され、上のリンクの写真でも、仏像とか石灯籠とか狛犬とか、バーティが日本から自分の庭へ運んだらしいものがいまも残っていて、どびっくりです。
 ちなみに、バーティがイギリスで「竹の庭」を出版したころ、アーネスト・サトウは公使として日本に赴任していましたが、すっかりこの昔なじみの本の影響を受けて、竹の栽培に熱中し、一橋伯爵家の竹林を見学したりしました。
 おそらく、休暇でイギリスに帰ったサトウは、バッツフォードにバーティを訪れ、二人して庭園を散策して、一橋家の竹林の話をしたりなんかしたんだろうな、と思うのです。
 イギリスのコッツウォルズの、壮麗なネオ・ゴシック様式のカントリー・ハウスの庭を、幕末維新の激動の中に若かりし日を送った英国紳士が和風にしたてて、いまも極東と深いつながりを持つかつての仲間を招き、思い出話をしながら散策する‥‥‥。

 それにしても、これって!
 フランスほど顕著ではないのですが、ヴィクトリア朝のイギリスでは、ジャパニズムがもてはやされ、英仏世紀末芸術と日本人で書きましたように、ラファエル前派の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなどが、薩摩の留学生をお茶会によんだり、なんかしていたんですね。
 この当時、というのは慶応2年(1866)の春ですが、バーティは北京公使館に勤務していて、まだ日本の地を踏んでいなかったわけではあるんですが、その4年前の文久2年(1862)、第2回ロンドン万博において、初代駐日公使ラザフォード・オールコックが、日本で集めた多数の美術工芸品を展示し、幕府の文久使節団(福沢諭吉や薩摩の寺島宗則も加わっています)を会場に招いて、大評判となりました。それ以前から日本美術に関心をよせていたロゼッティなど、ラファエル前派の画家たちは、むろん、大歓迎です。
 バーティは、ちょうど、イギリス外務省アフリカ局に勤務してロンドンにいましたから、これは知っていたはずなんですけれども、さらに、1865年(慶応元年)、志願して北京公使館に赴任したときの上司(駐在公使)が、オールコックだったんです。

 私、あわてて、丁寧に、「英国外交官の見た幕末維新」の訳者あとがきを読み返してみまして、バーティの経歴に仰天!


 1846年イートンに入学し、54年まで在学した。三級下のクラスに従兄弟に当るスウィンバーン(詩人・評論家。1837~1909)がいて、彼らは親友になった。

 えええっ!!!!!
 イートンで、スウィンバーン親友!!!???

 

 えー、上、ロセッティの手になるアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンの素描です。
 スウィンバーンについては、なぜかwikiがけっこう詳しいので、ご参照のほどを。
 イートンからオックスフォードと、バーティと同じく名門子弟のエリートコースを歩み、唯美主義の詩人になった方です。後期ラファエル前派の仲間の評論家、でもありました。

 しかし、これって‥‥‥‥、まるっきり、映画アナザ・カントリーの世界ではありませんか!!!
 いや、私、なんでいまのいままで、こんなおいしい‥‥‥‥、いや、もとい、こんなに興味深い一行に、気づかなかったのでしょう。

 イートンで、スウィンバーンと親友だったバーティ・ミットフォード。
 もしかすると、モンブラン伯爵の上をいく怪しいお方だったんじゃないかと‥‥‥‥、いや、いまさら気づくのもなんですが、なにしろ「享楽の王子」といわれたエドワード皇太子の親しいお友達だったわけなのですから、それだけで十分に怪しいわけで、著作のまじめさに騙されておりました。
 さすがに、表面あくまでも上品であることを旨とした、ヴィクトリア朝の紳士です。
 というわけで、次回後半、その怪しさの解明、といいますか、なぜ怪しいのかを、もう少し詳しく書くつもりでおります。

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