郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

幕末の大奥と島津家vol1

2005年12月20日 | 幕末の大奥と薩摩
いったいいつからを幕末というか、については、いろいろな解釈があり、「幕末」という言葉もさまざまな使われ方をするのですが、とりあえず、嘉永6年(1853)、ペリーの黒船浦賀来航で火がついてからが、もっとも「幕末」という言葉のイメージにふさわしい時代、とはいえるでしょう。

この黒船来航のときの将軍は、十二代家慶なんですが、騒ぎの最中に、六十歳で死去します。跡継ぎの男子は、30歳になろうとする家定一人しかいませんでした。
この家定は、病弱な上にお菓子作りが趣味で、政治向きには関心がなく、子孫を残す能力のない方であった、といわれます。
事実だったかどうか、しかとはわかりませんが、政治は老中たちがするものでしたし、それまでの平和な時代であれば、おそらく、なんの問題もなかったのです。跡継ぎは、養子をもらえばすむことですしね。

変革期には、無数の政治的決断が必要になってきます。
しかし大方の場合、大変革の決断には、大多数の人々が反対します。だれだって、慣れ親しんだこれまでの暮らしを、突然大きく変えられたくないですよね。
攘夷ができるならば、それにこしたことはないのですが、黒船と戦争になれば、あきらかに江戸は戦火にあい、負け戦の末に、幕府は大きな変革を迫られます。
開国すれば……、結局、幕府はこちらを選んだのですが、それはそれで、とりあえずはその場しのぎの対応を続けていても、実際にそうなったように、大変革なくしては立ちいかなくなります。

大多数の人々が反対する中で、大変革に取り組むには、いままでお飾りでしかなかった将軍に、政治的決断を求めるしかありません。権威と権力を一致させなければ、大きな変革は不可能です。
かといって、家定公にはなにも望めません。
そこで浮上してきたのが、子がなく、病がちな家定公の世継ぎ問題です。
幕末、賢侯といわれた大名数名が、危機意識を持って、この将軍家お世継ぎ問題に取り組みました。
その先頭にいたのは、ご三家のひとつ、水戸徳川家の烈公、斉昭でした。黄門さまのご子孫、です。
この人は、頑迷な攘夷主義者のようにいわれることがありますが、かならずしもそうではありません。
当時の幕府主流派、といいますか、井伊大老を中心とする幕府守旧派の方針というのは、「とりあえず開国して外国をぶらかしておいて、国力を蓄えてまた鎖国をしよう」ということです。
それに対して、水戸烈公の言い分は、「ぶらかしなんぞというその場しのぎで姑息なことをして、それでも国力を蓄えることができるならばいいが、危機意識など喉元すぎればすぐ忘れるものなのだから、何年たっても国力増強などできまい」
というのですから、後に、長州が攘夷戦争をしてみて、はじめて大変革の必要性が飲み込めたように、予言的なお言葉ではあるのです。
あるいは、江戸を焼け野が原にする覚悟で、幕府が攘夷を実行していたならば、幕府も大変革をなし得て、ちがう形の維新があったかもしれません。
しかし、長州や薩摩という藩ではなく、幕府は一国の統治者であったのですから、無謀な攘夷が、大火傷になってしまった可能性もあります。

そして、因果なことに、公方様は征夷大将軍なのです。
水戸烈公は「攘夷をしない征夷大将軍はそれだけで権威をなくす」というようなことをおっしゃっていて、これもまた、おっしゃる通りなんです。
つまり、守旧派は幕藩体制を守るためにぶらかし開国を選びますが、そんなその場しのぎで幕藩体制は守れないだろう、というのですから、これもまた予言的なお言葉なのです。
そうなんです。賢侯たちはけっして反幕だったのではありません。むしろ、幕藩体制を守りたかったし、またこの時点では、体制を根本的にはくずさないままの変革の方が、現実的で、諸外国につけこまれるすきが少ないだろう選択だったでしょう。

賢侯の中でも、越前の松平春嶽は徳川家の親藩ですからそれでいいとして、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城は外様で、ほんとうに反幕の意図がなかったのか? と思われるかもしれませんが、幕府の倒壊は、幕藩体制の倒壊でもあるのです。さらに、維新まで生きた容堂も宗城も、けっして倒幕を望んではいませんでしたしね。
で、島津家です。もしも維新まで斉彬が生きていたらどうなんだろう、という仮定には、ちょっとうなってしまいます。ただ、斉彬公もまた、倒幕は望まなかったとは、いえると思います。

島津家は外様ですが、長州の毛利家などとちがい、徳川家に対して、身内の感覚を持っていました。
なぜかといえば……、ということで、話はようやく大奥につながります。

大奥というのは、いうまでもなく、将軍の正妻、御台所が君臨する将軍の家庭なんですが、将軍の世継ぎ問題というのは政治ですし、世継ぎを決めるにあたっては、大奥の意向も強く響きます。
そういう意味では、表の政治の介在する場所でもあります。
で、徳川幕府の基礎が固まったのち、三代将軍家光からは、諸大名を外戚にしないために、正妻はかならず京の五摂家か宮家から、という不文律ができあがるんですね。
結果、正妻の御台所はお飾りで終わり、しかも、偶然かどうなのか、三代将軍以来、将軍の正妻が将軍の生母となることは、いっさいありませんでした。男子が生まれたこともあるんですが、幼児のうちに亡くなっています。
で、将軍は世継ぎを得るために数多の側室を持つことが普通で、歴代将軍の母親は、三代以降、幕末まですべて、側室腹でした。

ところが十一代家斉、つまり、今話題にしている幕末の子無し将軍・家定の祖父ですが、その家斉の正妻は、それまでの不文律を破って、外様の大藩である島津家の姫君だったんです。
これは、家斉公が、御三卿、一橋家から将軍家への養子であったから、なんですが、島津家の徳川家食い込み策が幸運を呼んだ、わけでもありました。
将軍家斉の夫人・広大院茂姫は、薩摩の島津斉彬公の曾祖父・島津重豪の娘ですから、斉彬には大叔母、にあたります。

島津重豪は、海外通で、さまざまな文化事業を興した賢君として知られていますが、10歳という若さで藩主となりました。このときにちょうど、長良川の治水工事が完成しています。
天領岐阜にある長良川の治水工事は、幕府が薩摩の力を弱めるために押しつけたものだといわれます。巨額の費用がかかった難工事で、千名近い薩摩藩士が工事に従い、病に倒れたほか、はかどらない工事の責任を感じて多数の藩士が自刃し、苦難の果てに完成させたあげく、工事の責任者だった家老も切腹して果てます。
家老をはじめ薩摩藩士たちの自刃には、幕府への抗議の意志も込められていたのですが、薩摩藩は幕府への遠慮から、すべて病死としました。
この工事はおそらく、薩摩藩士たちに、根深い反幕感情を植えつけたでしょう。
自藩の治水工事ならば、苦難も納得がいくでしょうけれども、苦労して多くの仲間を死なせたあげくに、藩は多額の借金を背負い、自藩領にはなんの益もなく、暮らしは苦しくなるばかり、だったのです。

重豪の父、重年は、いわば藩士たちに負わせてしまった苦難に心を痛め、若くして死んだようなものでして、幼い重豪の後見には、祖父の継豊が立ちますが、父を、そして息子を亡くした孫と祖父は、二度とこんな理不尽な要求を幕府にさせないために、徳川家への接近をはかるのです。
実は、そのためのいいパイプ役がいたのです。
継豊公の正妻で、重豪公には義理の祖母にあたる竹姫です。

さて、ここでお話は大奥にもどります。
現在、フジテレビで放映中の大奥ドラマ、たしか明後日が最終回ですが、五代将軍綱吉公の大奥のお話です。生類憐れみの令で有名な将軍ですね。
ドラマにも出てきますが、この将軍の側室に、大典侍(おおすけ)の局といわれる京の公家の娘がおりました。子供が生まれず、京から兄の娘をもらって養女にします。これが竹姫なのですが、綱吉公の養女にもしてもらって、血筋は公家ながら将軍家の姫君、ということで、会津藩の嫡子と婚約しましたところが先立たれ、今度は有栖川宮家の親王と婚約。親王がまた早死にされます。

綱吉公死去の後、甥の六代将軍家宣公は、わずか三年の在世で終わり、その子の幼将軍家継公も三年で夭折。その後に、紀州徳川家から八代将軍吉宗公が入ります。
つまり、六年間の間にめまぐるしく将軍が入れ替わったわけでして、売れ残り状態になっていた竹姫は、江戸城で、ひっそりと八代将軍を迎えました。
将軍となったとき、すでに吉宗公は、宮家の出だった正妻を亡くしていて、側室腹の世継ぎはいますし、後妻を娶る気はなかったようなのですね。
こういう場合、前代将軍の正室が大奥の主となるのですが、前代は幼くて正妻がいませんでしたし、吉宗公は、六代家宣公の正妻・天英院熙子を、大奥の主として遇します。
天英院は近衛家の出で、近衛家は五摂家の一つですが、戦国時代から島津家と関係があり、非常に親しいのです。
吉宗公は、江戸城に入ってみたところ、将軍家の娘として遇されている竹姫が売れ残っていると知り、自分の養女にして、嫁ぎ先をさがします。
しかし、婚約者が二人も死んでいるのは不吉で、縁起が悪いと評判がたち、適当なところがなかったので、自分の後妻に据えようとしたともいわれますが、真偽のほどはわかりません。
ともかく、吉宗が相談したのでしょう。竹姫の嫁ぎ先に心をくだいたのは、天英院だったようです。実家の関係から、島津家へ話を持ちかけるのですが、当初、島津家は警戒しました。
養女とはいえ将軍の娘ですから、物入りです。さらには、当主継豊公にはすでに側室腹の世継ぎがいて、竹姫が後妻に入り男子を生んだ場合、お家騒動の種になりかねません。
しかし、竹姫を案じる吉宗公が、「竹姫に男子誕生の場合も世継ぎにはしない」など、島津家側の言い分を全部のんだため、無事、竹姫は島津家に輿入れしたといいます。

竹姫は、嫁いだとき、すでに24歳になっていて、当時としては晩婚です。結局、継豊との間に生まれたのは姫君一人でしたが、側室が生んだ男子、宗信、重年を養子にし、義理の孫の重豪公養育にもあたり、島津家と徳川家の融和に心をくだく、賢夫人であったようです。
夫とともに、でしょうけれど、竹姫は徳川家と島津家の婚姻をはかるのです。
重豪の正妻として、吉宗の孫になる一橋家の姫君を迎えたのが第一歩とすれば、さらに竹姫は遺言で、重豪の娘・茂姫を、早々と一橋家の世継ぎ・家斉と婚約させます。
竹姫の遺言は、あるいは重豪の遺志の補強であったかもしれません。
徳川将軍家は、八代吉宗から九代家重 十代家治と、父子関係が三代続きましたが、直系世継ぎがなくなった場合、養子に入る可能性がもっとも高かったのが、九代家重の弟の血筋である一橋家だったのです。

十代将軍家治には、家基という世継ぎがいたのですが、十七歳で急死したため、毒殺説もあります。
あー、余談ですが、昔、家斉の父・一橋治済と島津重豪が共闘して、将軍家世継ぎを毒殺するという短編小説を書こうか、と思ったことがあるのですが、資料調べがめんどうになって、やめました。治済の妹が重豪の正妻ですしね、あってもおかしくない話ではあるんです。
ともかく、家基は急死し、家斉はわずか六歳で将軍家の養子となります。十代家治の死去にともない、十四歳で十一代将軍となりますが、幼い頃の婚約を守って、島津重豪の娘、茂姫を正室にしました。茂姫は、一応、公家の近衛家の養女の形をとりますが、重豪は将軍の岳父として、さまざまな便宜を手に入れるのです。
そのかわり、大奥にもかなりの金銭をばらまいたでしょう。

十一代将軍家斉は、歴代将軍の中でも、もっとも子供の数が多い艶福家です。
側室数十名、子供も数十人。手をつけた女の数は、数え切れていません。
『偽紫田舎源氏』という源氏物語のパロディ読み物は、この将軍の大奥をモデルにしたといわれます。
将軍が将軍ならば、側室も側室で、後に、この時代の大奥の女人たちが、寺院でくりひろげた密通を幕府は調べ上げるのですが、さしさわりがありすぎて、大奥には手をつけませんでした。
そんな大奥の主であった正室の広大院茂姫は、不幸だったでしょうか。
かならずしも、そうではなかったのではないでしょうか。
これまでの正室だった公家の姫君たちは、京都から嫁いできます。
大奥も、歴代御台所が公家ですし、その御台所に京から公家の高級女中もついてきますので、公家の礼法を取り入れないではなかったのですが、やはり将軍家は武家ですし、奥女中たちも多くは旗本の娘です。側室も、旗本の娘が一番多いわけでして、なんといっても江戸の武家風が基本、なんです。
京から嫁いで、なじむのには努力がいったでしょう。

大名の妻子は、江戸住まいが基本です。お国御前と呼ばれる国元の側室やその子供たちは、地方にいたりもするのですが、女の子は、他の大名家の正室、になることが多いですし、となれば、嫁ぐのは江戸の他藩の屋敷、ですので、江戸住まいが多いのです。
広大院茂姫も、江戸屋敷で生まれ育ち、実家の屋敷はすぐそこですし、父親は惜しみなく援助をしてくれます。
その父親の重豪も、家斉とどっちこっちないほどの艶福家でしたし、そういうことは慣れっこで、絢爛豪華な大奥の主であることに、けっこう満足していたのでは、ないでしょうか。
ともかく、広大院茂姫は世継ぎこそ残せませんでしたけれども、長命を保ち、長く大奥に君臨して、黒船来航の十年ほど前に世を去りました。

それで、ようやく、黒船来航騒ぎの最中に将軍となった十三代家定に、話がもどります。
30歳で将軍になった家定は、すでに二人の妻を亡くしていました。
最初の妻は鷹司家の娘で、次は一条家の娘です。どちらも伝統通り、五摂家の娘なのですが、後妻の一条家の娘には養女であったという噂があり、しかも、人並みはずれて小さく、四、五歳の幼女並みの背丈で、おまけに病弱だったといわれます。
これに懲りたのか、将軍家では実は、三人目の正妻を、島津家から迎えようとしていたのです。
黒船が来る三年前、家定の父、十二代家慶将軍が生きていたころのことで、「島津家から」という要望は、家慶の側室で家定の生母である本寿院から出たことが、書簡に見るそうです。本寿院は旗本の娘で、奥女中から側室となり、広大院茂姫の権勢を目の当たりにしていましたし、嫁は公家の娘よりは武家、という気分もあったようです。

島津家の側に、適齢の娘がいなかったためか、あるいは将軍家への輿入れに莫大な費用がかかることを嫌ってか、この話は進んでいなかったようなのですが、嘉永4年(1851)、藩主になった斉彬は、俄然、この話に注目したようなのです。
斉彬自身に適齢期の娘がいればそれにこしたことはないのですが、分家から養女を迎え、多少強引でも、実子で押し通す手があります。
斉彬が、実際にはいつ、分家の篤姫を養女に迎えたかは、はっきりとわからないのですが、黒船騒動が起こり、家定が将軍となるにいたって、将軍家への輿入れは、具体化しました。
家定が世継ぎを作ることは、不可能でしょう。養子を迎えることになるでしょうし、そしてその養子には、政治的決断のできる英明な人物が望ましいのです。
となれば、世継ぎ問題に発言権を持つ大奥へ、島津家の娘を送り込むことは、大きな意味を持ちます。

さて、このとき、斉彬をはじめとする賢侯たちが、将軍世継ぎに、と望んでいたのは、水戸烈公の七男で、一橋家に養子に入っていた一橋慶喜なのですが、大奥は、これを嫌っていたのですね。
なぜか……、というお話は、明日にいたします。

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