郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

幕末の大奥と島津家vol2

2005年12月21日 | 幕末の大奥と薩摩
大奥というのは、不思議なところです。
昨日、十一代将軍家斉の大奥が乱れに乱れていたことを書きましたが、しかし、女たちには女たちの言い分が、あったようなのです。
この家斉公、ともかく子供の数が多かったものですから、養子に、嫁にと、あちこちの大名家に子供たちを押しつけました。
有名なのは、加賀前田藩に嫁いだ溶姫でしょうか。将軍御息女が大名家に下れば、専用御殿を建て、御守殿さまと奉らなければなりません。加賀屋敷の溶姫のための専用御殿の門が、現在の東大の赤門なのです。
この溶姫のご生母、お美代の方は、一応、旗本の娘であることになっているのですが、実は日啓という坊さんの隠し子で、家斉にねだって、実父のためにりっぱな寺を建ててもらっているのですね。
この日啓のお寺は、日啓の息子でお美代の方の兄、日尚に引き継がれ、ここで大奥女中たちが、密通をくりひろげていました。家斉死去後の幕府の調べでは、正室・広大院茂姫つきの老女(高級奥女中)の名もあがっていますから、お美代の方周辺だけではなく、大奥総ぐるみで遊んでいた、としか思えないのです。
まあ、お美代の方が大奥で勢力を培うための接待であった、のでしょうけれども。
しかも、真偽のほどはさだかではないのですが、お美代の方は、家斉の世継ぎに、加賀に嫁にいった溶姫の息子、つまり自身の孫を据えようとしたといわれ、そんなこともあって、幕府は家斉の死去後、お美代の方がらみの寺に、捜査の手を入れたのですが、結局、将軍家の権威にかかわる問題ですので、寺側はきびしく罰しても、大奥には手をつけませんでした。

ところで、島津家にも、家斉公の御息女は入っています。
今回話題にしている島津斉彬の正室、英姫です。
しかし島津家は、大奥に正室・広大院茂姫を送り込んでいますし、勝手がきいたのでしょう。英姫を、将軍の息女としてではなく、一橋家の養女としてもらった上で正妻に迎えていますので、前田家のような大騒ぎはしないですんでいるんです。

実は、家斉公の御息女は、水戸藩にも天下っています。
これも今回話題にしている水戸烈公・斉昭の兄にあたる、前藩主・斉修の正室、峰姫さまがその人です。
こちらは、大騒ぎだったようです。水戸屋敷と加賀屋敷は近く、峰姫さまは姉妹の溶姫さまに張り合って、あれこれと贅沢な要求をなさる。貧乏な水戸藩としては、たまったものではありません。
水戸烈公は、兄の養子となって藩主となりましたので、峰姫さまは義母です。
ところが水戸烈公は、大奥から峰姫さまについてきた最高級の奥女中・唐橋に手をつけたというのです。嫌がるのを無理矢理犯した、といわれています。
大奥というところには、独特の決まりがあったようでして、例え将軍といえども、お清、つまり生涯処女、と決まっている最高級の奥女中には手をつけないもの、だったそうなのですね。したがって、乱れに乱れていたはずの家斉の大奥なんですが、家斉は唐橋の美貌に目をつけながらも、手は出せなかった、と。
つまり、将軍でさえ手をつけなかった唐橋を、水戸藩主ごときが犯した、というのが、大奥の水戸烈公に対する反感の最たるもの、であったかもしれません。
峰姫さまは怒って、唐橋は公家の娘でしたから、京の実家に返したそうなのですが、烈公は手をまわして……、って、貧乏公家の唐橋の実家に金を払った、ということなのでしょうけれど、唐橋を側室にし、水戸に置いて、つまりお国御前として遇し、寵愛したそうです。
ああ……、江戸には義母の峰姫さまがおられますしね。ここらへんの意地くらべも、大奥の反感を募らせたのでしょう。

さらに水戸烈公は、息子の正室に手を出したとの噂もありました。
息子とは、慶喜の兄で、水戸藩主となった慶篤で、正室は、有栖川宮家の娘・線姫なのですが、このお方は、12代家慶将軍の養女となって慶篤に嫁いでいますので、京から江戸へ下り水戸屋敷へ輿入れするわずかな期間ですが、大奥にいたことがあるんです。
といいますのも、家慶と水戸烈公の正妻は、ともに有栖川宮家の娘で姉妹なのです。
家慶の正妻・楽宮は世継ぎを生みませんでしたが、烈公の正妻・登美宮は、慶篤、慶喜と男子をもうけました。楽宮は甥たちをかわいがり、親族の有栖川の娘を慶篤の妻にと、配慮したわけです。
家慶も妻の甥たちに親しみを見せ、そんな縁から、慶喜は、家定に男子がない場合の将軍家世継ぎ候補として、一橋家に養子に入りました。
で、話は慶篤の正室・線宮にもどりますが、烈公は無理矢理、この美しい嫁を犯し、線宮はそれを恥じて自害した、というのですね。烈公の妻の親族ではありますし、ちょっと信じられない話なのですが、そういう噂が流れていたことは確かで、またそれとは別に、烈公が息子の側室となにかあったというようなほのめかしが、島津斉彬が松平春嶽に送った手紙にあるといいますから、まあ、烈公の女性関係が、行儀のいいものではなかったのは事実でしょう。艶福であるだけならいいのですが、ルール違反なんですね。

家慶の正妻・楽宮は、ペリー来航より十年以上前に亡くなっていましたし、家定が将軍となった当時の大奥の女性たちは、家定の生母・本寿院を筆頭に、水戸烈公を嫌いぬいていました。
そんな中へ、烈公の七男、一橋慶喜を将軍世継とするために、島津斉彬は養女を送り込みます。
それが、大奥の最後をしめくくった、天璋院篤姫だったのです。

で、次回、ようやっと本題に入れそうです。

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