郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

函館戦争のフランス人vol2

2006年01月20日 | 日仏関係
函館戦争のフランス人vol2

この写真は、函館市立図書館にあったんだそうです。
篠原宏氏の『陸軍創設史 フランス軍事顧問団の影』によれば、昭和11年に北海道史編纂された時に、見つけだされたのだとか。
また同書によれば、まったく同じ人々が、同じときに撮ったもので、顔の向きとかポーズなどが少々ちがっているものがあり、それは、石黒敬七氏が大正年間にパリの骨董店で見つけ、複写した写真なのです。

函館戦争のフランス人vol1

上の昨日の記事のブリュネ大尉単独写真ももそうなのですが、この軍服こそ、フランス式に、上着が青でズボンが赤、なんでしょうねえ。で、帽子とかのモールは金なんでしょう。

フランスの軍艦マーチ

上記の記事で、「はあ、それにしても、当時のフランス軍って、上着が青でズボンが赤って……、将校もそんな派手な軍服なんでしょうか」と書きましたが、どうも、そうだったようなのです。
鹿島茂氏の『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』によれば、普仏戦争では、ド派手なのでよく目立って、射撃の的になったとか。プロシャ軍は上下チャコールグレーだったか、ド地味な軍服です。
古写真で見れば黒一色ですからシックなんですけど……、赤と青。
そりゃあ、ブルネ大尉は似合ったでしょう。でも日本人は、どーなんでしょ。デザインがちがうようなので、色もちがうんでしょうか。もし、日本人が着ているのも赤と青だとすれば、よく着ましたよね。

昨日ご紹介したクリスチャン・ポラック著『絹と光 日仏交流の黄金期』では、この写真の人物名が特定されています。

前列左から、細谷安太郎、ブリュネ大尉、松平太郎、田島金太郎(応親)。
後列左から、カズヌーブ伍長、マルラン軍曹、福島時之助、フォルタン伍長。

で、この写真なんですが、函館で発見されたので、函館で撮ったと思われがちなんですが、篠原氏は、函館へ行く以前、江戸において、浅草の内田九一による出張撮影ではないか、と、推測されています。
土方歳三の写真についても、江戸、あるいは横浜撮影説があったんですよね。
それぞれの人物については、鈴木明氏の『追跡』が詳しいんですが、四人の日本人はみな、伝習隊関係者と推測されています。
松平太郎は、鳥羽伏見の戦いで歩兵頭。江戸へ帰ってから陸軍奉行並となり、榎本艦隊に資金をまわした人物ではないか、ともいわれていまして、函館では副総裁です。
天保1十年(1839)生まれですから、明治元年には29歳。
田島金太郎は弱冠17歳の幕臣です。伝習では砲兵隊に属し、ブリュネ砲兵大尉に習った士官です。仏語習得が抜群だったようで、榎本軍の外交文書で、フランス語のものは、すべて彼の手によるようです。
北海道へ鷲之木へ上陸した旧幕軍は、大鳥隊と土方隊に別れて進軍しますが、川汲峠に向かった土方軍には、フランソワ・ビュフィエ軍曹が同行し、通訳のためでしょうか、田島金太郎もこちらに加わっていました。
細谷安太郎も幕臣で砲兵伝習を受けたもようですし、福島時之助についての詳細はわかってないのですが、伝習を受けた幕臣士官であったことはまちがいないでしょう。

ユージン・ジャン・バチスト・マルランは、ビュフィエと同じく歩兵軍曹。
フランソワ・アルチュール・フォルタンは、騎兵隊伍長です。
カズヌーブは異色で、フランス帝室種馬飼育場付伍長であり、ナポレオン三世が慶喜公に贈ったアラビア馬の飼育調教のために来日し、伝習に加わりました。
フランス伝習教師として来日していたフランス人のうち、函館戦争に参加したのは、この写真の四人と、先に述べたビュフィエ軍曹の五人です。

函館戦争の後、本国で陸軍勤務に復帰したブリュネ大尉を除けば、残りの四人は、再び日本の土を踏みます。
ビュフィエ軍曹、マルラン軍曹、フォルタン伍長は、わずか二年後の明治三年、当時大阪にあった兵部省に雇われ、マルラン軍曹は明治五年に死去。神戸外人墓地に葬られました。
ビュフィエ軍曹、フォルタン伍長は、さらに東京に移った兵学寮に雇われ、フォルタン伍長のその後はわかっていませんが、ビュフィエ軍曹は、明治14年に日本で死去し、横浜の外人墓地に眠っています。
鈴木明氏は、このビュフィエ軍曹が日本女性と結婚し、日本に子孫を残していたことを突き止めたのですが、息子のオーギュスト・ルイ・ビュフィエは、フランス国籍で、日本で生まれて日本で育ち、フランスの地を踏んだことがないにもかかわらず、第一次世界大戦でフランスから招集令状がきて、四十を超えた歳で、ヨーロッパへ出征したのだそうです。

最後に、カズヌーブ伍長です。
カズヌーブ伍長は、函館で重傷を負っていました。
これも鈴木明氏の『追跡』によるのですが、明治六年三月、カズヌーブ伍長が明治新政府に提出した意見書が、残っているのだそうです。
日本軍馬の馬種改良に関して、フランスから連れて来たアラビア馬の活用を建言しているのです。
慶応三年、カズヌーブがフランスからつれてきた26頭のアラビア馬は、戊辰戦争の混乱で、その大方が行方不明になってしまったのですが、カズヌーブは9頭の所在を確かめているといい、さらにさがせばまだ見つかるはずだ、としているんですね。
彼は、馬たちをさがしていたように思えます。
そして、気になるのが、以前に書きました下の記事です。

桐野利秋とアラビア馬
大正十年発行、有馬藤太の『維新史の片鱗』、流山で新撰組の近藤勇捕縛した経緯が書かれていることで有名な本なのですが、この後書きに、「立派な功績が他の人の事績になっていたり」する例として、以下の一行があるんです。

「桐野とアラビア馬」が「大西郷の妾」と化し(大正八年十一月発行ポケット)

カズヌーブ伍長は、この意見書が契機となったように、明治六年四月に宮内省に雇われるのですが、ちょうどこのころ、桐野は、熊本鎮台司令長官から陸軍裁判所長官に転任し、東京へ帰っているんです。
あるいは、カズヌーブ伍長と桐野に、接点があったのではないか、と思うのですが。
もっとも、桐野は同年十月には辞職して鹿児島に帰っております。
そして、カズヌーブ伍長は翌年、陸軍省に雇われるのですが、そのわずか五ヶ月後、なぜか福島県の浪江町で逝去しています。葬られた場所は、わかりません。
アラビア馬をさがしていたのではないかと、そんな気がするんです。

函館で戦ったフランス人たちのうち、日本に骨を埋めた男は他にもいるのですが、それはまた次回。

関連記事
函館戦争のフランス人vol1

土方歳三 最期の一日
桐野利秋とアラビア馬


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2 コメント

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ご存じかもしれませんが。 (fh)
2008-09-06 09:00:42
たまたまみつけましたので、お知らせまで。
澤護氏「S.カズヌーブに関する若干の資料」(『敬愛大学研究論集』70、2007年)
http://nels.nii.ac.jp/els/110006487621.pdf?id=ART0008514689&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1220658985&cp=
返信する
ありがとうございます! (郎女)
2008-09-06 21:29:33
さっそく、DL保存しました。
PDF書類は、そのまま保存できて便利です!
返信する

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