郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

真説生麦事件 上

2009年01月23日 | 生麦事件
 私、まさか生麦事件の続きを書くことになろうとは、思っていなかったのですが、冤罪事件追及者さまがいらして、討論させていただくうち、どびっくりなことに気づきました。どうしても叫びたいので、本日は、生麦事件と攘夷の続きです。

 まず、冤罪事件追及者さまからご紹介しましょう。ご本名を名乗っておられないので、ご著書を紹介していいものなのかどうか、アマゾンで2冊さがすことができます。新しい方のご著書は、たしか品切れで、古書しかありませんが、古い方のご著書は、まだあります。
 二冊とも同じテーマです。生麦事件のリチャードソンへの一太刀目は、奈良原兄弟の兄なのか弟なのか、ということを追求なさってこられた方です。定説では、一応、兄です。昭和3年に出された薩藩海軍史という、この事件の基本文献とされている本が、本文で、そう書いているんです。そこらへんは、wiki生麦事件を見ていただければ、わかりやすいです。

『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であったという。

 この奈良原兄弟、私なぞ、よくまちがえまして、いえ、私だけでなく、書物もまちがえているそうです。一応、寺田屋事件が弟、生麦事件が兄と、そこまではいいんですが、桐野と一時は仲がよかった、というのはどっちだっけ? 高見弥一を引き取ったのは? と、なんか書くたびに???となって、調べ直しておりました。

 で、兄弟のご子孫が、ですね、「生麦事件の一太刀目は兄ではなく弟」と言い出され、新聞報道された、というのは、なんとなく知っていたのですが、なにしろ私、以前にも書きましたが、大名行列の無礼討ちですから、命令があろうがなかろうが責任は久光にあり、個々の藩士はたまたまであって問題にする必要はない、と思っていましたから、事実関係に興味がなかったですし、まして兄弟の区別もろくにつきませんから、「戦後、著述家やメディアが個人の犯罪みたいにいうようになって、子孫も気にするんだろうなあ」と、うすぼんやり考えていた程度でした。

 冤罪事件追及者さまは、私とちがって、ご子孫と面識をもたれ、真剣に探求しておられたのです。その過程で、冤罪事件追及者さまは、作家の桐野作人氏から、吉田東洋を暗殺し、生麦事件当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の書簡を紹介されたんです。文久2年10月、那須信吾が、実兄の浜田金治に宛てた書簡には、以下のようにあります。

秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎などの働きと承り候

 上、漢字とかかなづかいとか私がいいかげんに変えておりますので、悪しからず。
 那須信吾のリアルタイムの書簡は、「一太刀目」というわけじゃないんですが、兄ではなく弟の名を出しています。で、那須が誰からこの話を聞いたかといえば、海江田であった可能性が高いんです。那須信吾たちは、長州の久坂が、薩摩の海江田と吉井に頼んで、京の薩摩藩邸にかくまわれたわけなのですから。
 さらに言えば、那須が聞いたのは自慢話であったと憶測できます。だって、リチャードソン一行に女性がいて、その女性にも藩士が斬りかかったことには触れていませんし、実際にはリチャードソン以外は死んでいないのですが、正確な情報を得て、ではなく、俺たち、二人も斬り倒したんだぞ!と語られたような感じだから、です。
 つーか、事件が起こった場所も神奈川宿と不正確ですし、「東下」とのみあったのでは、読む側にしてみれば往路とも考えられ、どうやって口コミで話が事実とかわっていくか、見本みたいな書簡ですね。

 私、「桐野作人氏によれば、那須信吾の書簡には、兄ではなく弟と書いているそうなんですよ」というお話は、だいぶん前に桐野ファンの大先輩からお聞きして、「へえ、那須信吾の書簡なら印刷本を持っているはず。そんなこと書いてたっけ?」と思ったんですが、どこへやったかわからず、「まあ、そのうち」と思っていたら、出てきまして、本当にそう書いてあったわけです。同時代の史料ですし、弟であった可能性は高そうだと、さっそく、生麦事件をはじめ、wikiの関連記事に、註釈をつけてまわったような次第です。

 で、今回、冤罪事件追及者さまと討論させていただき、ご著書も読ませていただき、私の読んでいなかった史談会速記録とか、春山育次郎が海江田から聞いた話とか、事件当日、行列に加わっていた薩摩藩士の書簡とかの内容を知りまして、やっぱり一太刀目は兄であったのではないか、という結論を得ました。
 それよりも、私がどびっくりしましたのは、以下の本に載っております「生麦事件の始末」の内容が、相当に正確なものである、ということが、わかったことです。これが正確な話なのならば、通説とは、かなりちがってきます。

横浜どんたく (1973年)

有隣堂

このアイテムの詳細を見る


 安い古本が、一冊だけありますね。お買い得ですよ(笑)
 この本は、明治40年から明治42年の間に、横浜開港50周年を記念して「横浜貿易新報」に連載された読み物を、昭和48年に上下2冊にまとめて復刻したものです。
 テーマはいろいろなんですが、全部、開港当時を知る古老からの聞き書きで、語る人物によって、素朴な思い出話から、史料を駆使してのけっこう綿密な回顧録から、いろいろです。日本初の婦人服仕立て職人や、開港直後にふらりとアメリカへ密航した小商人やら、おもしろい話がいっぱいなんですが、「生麦事件の始末」は、一次史料をはさんでの、かなり本格的な回顧録なんです。

 語り部は、川島弁之助。17歳の時から、戸塚の宿役人をしていた人で、慶応2年、つまり生麦事件の4年後に横浜に移り住み、なにしろ、宿場町で「人馬継立」を任務としていたわけですから、職務上も知っておかなくてはいけないと、生麦事件のことをずいぶん調べたんだそうです。
 事件当時、戸塚にいた、ということは、事件現場こそ目撃していないものの、久光一行の旅程変更を受けて奔走したでしょうし、余波の渦中にはいたわけです。

 維新までは、生麦の住人たちも、後難を怖れて、なかなか詳しいことを語らなかったそうなんですが、維新以降、だんだんと詳細に語るようになり、弁之助は目撃証言を聞き出してまとめておいたのです。
 生麦に事件を記念する石碑が建った明治16年以降のある日、弁之助は、事件当時の生麦村の名主で、渦中で奔走した関口次郎右衛門に、自分の記録にまちがいがないかどうか見てもらおうと訪ねたのですが、次郎右衛門の記録は、石碑を建てるときに、碑文を書いた中村正直に貸し出したまま帰ってこないでいまして、次郎右衛門は自分の記憶で、のみですが、弁之助の記録の誤りを正してくれた、ということなんです。

 実際、弁之助の語りの間には、事件直後、神奈川奉行所役人の取り調べに答え、村の住人が、村役人と連名で出した目撃届け出書きとか、リアルタイムの確かな史料もはさまれていまして、かなり信頼がおけそうだったんですが、私は、wikiを書くにあたって、はさまれた届出書以外は、ほとんど使いませんでした。
 なんといっても、事件の直後に調べた話ではないですし、通説とは大きくちがっていて、私に真実を確かめるすべはないですし、非常に簡略ではありますが、事件直後の神奈川奉行所の調べ以外は信用すべきではない、と思ったんですね。小説を書くなら、もう絶対に使うところなんですけど、wikiですし。

 今回、弁之助の語りが相当に正確だった、とわかり、これをもとにして、あるいはこうであったのではないか、という生麦事件の詳細を、書いてみたいと思います。
 ただ、薩藩海軍史が語るところの「リチャードソンへあびせた久木村治休の二太刀目」というのは、薩摩海軍史収録の神奈川奉行所役人の覚書にも記録されていませんし、弁之助も記録していません。とりあえず、その部分は、あんまりあてにならないんだそうですが、久木村自身の回顧録から補います。回顧録は読んだことがないんですが、以下のサイトに、簡単なその内容を見つけました。

日本ペンクラブ 電子文藝館 『ヘボンの生涯と日本語』(新潮選書)より
当時十八歳の鉄砲組徒士(かち)久木村利久は、供頭(ともがしら)当番奈良原喜左衛門が抜刀するのを目にし、供頭非番・海江田信義が「無礼者」と叫ぶのを聞いて、反射的に斬ってしまったと、のちに告白している。彼はお咎めを覚悟していたところ、主君からお褒めにあずかり、金子(きんす)を賜った。

 うー、ほんとにあてになんない回顧談ですね。喜左衛門の一太刀目を目撃し、海江田が「無礼者」と叫ぶのを聞いたって、ちょっとありえんです。鉄砲組徒士であった、というところのみを、重視させていただきます。

 wikiにも書いたんですが、久光の行列は、京から江戸への往路でも、外国人に遭遇しています。弁之助によれば、一行が神奈川駅を通過しようとしたとき、川崎駅の方から外国人2人が馬で駆けてきて、前駆を横切っていったんだそうですが、行列を指さして笑うような無礼な態度ではあったものの、それ以上、駕籠にむけて乗り入れるというわけではなく、なにより勅使・大原重徳の護衛で、これから江戸で一働き、という前ですから、見逃したんだそうです。
 なんで「横切った」という言葉が出たかについては、幕末には、全国規模の報道機関がありませんでしたし、口コミで事件が伝わるうちに、往路の遭遇話とごっちゃになり、鳥羽伏見の直後に備前事件が起こったとき、これはそれこそ「横切った」事件でしたから、生麦事件と同じといわれ、明治になって、あんまりよく事件を知らないものが、生麦事件も横切った事件として書いたりして、延々、現代まで受け継がれたんじゃないんでしょうか。
 まあ、行列の正面から久光の駕籠近くまで馬を乗り入れられて、薩摩藩士がそれまで我慢した、というのも、ちょっと信じられない話ですし、当の元薩摩藩士たちも、我慢したことが恰好がいいこととはとても思えず、あえて否定しなかったにちがいありません。

 そして、復路です。
 大原勅使は8月22日江戸を発つ予定で、久光一行は一日早く、21日に出発しました。とはいうものの、勅使の前駆を務める、という意味において、あまり勅使と距離を置くつもりはなかったので、いつもの薩摩藩主の旅程とは、ちがっていました。 薩摩藩主の通常の参勤交代では、江戸を発ったその日に、戸塚までいってそこで一泊なんだそうです。戸塚の宿役人だった弁之助のいうことですから、ほんとうでしょう。
 それにくらべて、事件当日の久光の旅程は、短いものでした。戸塚は横浜より先にありますが、手前の神奈川宿で一泊予定。川崎宿で昼食、生麦の茶屋で休憩、というゆったりとした旅程だったんです。

 
 ともかく、ものすごい数の大行列ですから、先駆の人々は、すでに午前11時ころから、生麦村に到着していたんだそうです。これは、私の推測なんですが、生麦村も川崎宿の一部ですから、本陣近くで昼食をとるものと、生麦まで行って昼食をとる者に分かれたんじゃないでしょうか。
 久光の本隊が生麦村にさしかかったのは、2時間後の午後1時ころです。
 どうも、海江田と奈良原弟は、非番であったため、この先共にいたらしく、久光が休憩する予定の藤屋という料理茶屋の前に自分の駕籠をとめて、久光の到着を待っていたらしいのですね。まだ藤屋で食事をとっているものもありました。
 藤屋は、事件が起こった現場から、300メートル(あるいは4、500メートル)ほど先、神奈川宿よりにあります。

 久光の本隊は、藤屋に近づきつつありました。御徒数十人が前駆で、つづいて鉄砲隊100人、なんですが、鉄砲は50人づつ、猩々緋と青色と駆け袋の羅紗の色が分かれ、整然とした2烈縦隊です。参勤交代の折には、きらびやかな金紋の鋏箱や長柄の槍など、藩主の駕籠前の「伊達道具」と呼ばれるものが続く場所へ、この鉄砲隊が入っていたのだそうです。
 さて、鉄砲隊が終わると、侍衆が数十名、そしていよいよ久光の駕籠なんですが、駕籠脇前後には近臣数名、この後ろに鞍を置いた乗り換え馬と武器弾薬、そして、お供頭・小松帯刀の一行400人が続いていました。
 
 長くなりましたので、続きます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
 

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« テレプシコーラ舞姫第2部 | トップ | 真説生麦事件 下 »

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
一つ一つ・・・ (冤罪事件追及者)
2009-01-31 16:40:15
 風邪が治癒したあとも他のことに気を取られ、自分のブログのコメントはともかく、郎女さんのブログを覗きもしませんでしたが、今日ようやく入ってみて驚きました。『真説生麦事件』が掲載されているではありませんか。それも、悔しいかな私のドモリ口調の語りではなく、いつもの絶妙な語り口調で。
 ところで、全部を読んでからトータルなコメントをさしあげるべきなのでしょうが、そうすると、どこで何を言ってたのかなど忘れてしまいそうで、一つ一つ気づいたことをコメントしておきましょう。
 まあ、聞き書きはどれもそうですが(お送りした宮里孫八郎書簡や那須信吾書簡なども)、聞き違いや間違いは仕方ありません。ただ、その中からより正しいと思われることを判断する上でも、こういう史料もありますよ、ということはあげておかなければなりません。
 その前に、どうでもいいといえばどうでもいいのですが、往路の川崎宿の期日が7月6日となっているのです。知らない事実でしたので、早速年表に書き込もうとしましたところ、6月7日には江戸に着いているです。そして、次の項目では6月7日勅使無事到着となっているのですから、単なる校正ミス(6月7日の)なのでしょうが、これがため年譜記入には躊躇せざるをえませんでした。非常に面白い記述なのですが。
 (これ以上は揚げ足取りになるので止めますが、他にもあきらかなミスが見出せます。かなり喋っているので仕方ありませんね)
 ですが、川島弁之助さんの陳述で一番気になったのは、「薩摩藩主の通常の参勤交代では、江戸を発ったその日に、戸塚までいってそこで一泊」という記述です。確かに、神奈川だあ、保土ヶ谷だあ、戸塚だあ、という話はありますが、最初から保土ヶ谷で間違いないと思います。大久保の日記もそうですが、それより何より、『御登道中日帳御下向・列朝制度』(鹿児島県立図書館編)に、幕末期の100名前後の薩摩藩の行列記録があるのですが、そこでも保土ヶ谷が最初の泊まり地ですし、以後も大久保日記(翌日の強行軍は違いますよ)を踏襲していますので、かりに弁之助さんが戸塚の宿役人だったとしても、すぐにはうなずけません。
 私は、保土ヶ谷で問題ないと考えておりますが、これは事件そのものとは関係ないので弁之助さんの陳述を否定するわけでもありませんし、『史談会速記録』をより客観化しうる有力な聞き取り調査であることは間違いありません。
 次に、海江田と奈良原弟が一緒(ともに非番ということも)にいたという郎女さんの推論ですが、ありえないことでないとしても、私のイメージでは、「侍衆が数十名」の前あたりなのです。市来と春山育次郎の描写を信じているわけではありませんが、このあたりは一致しているように思えるのです。
 もっとも郎女さんの語りは、全体の流れとして私の継ぎ足し継ぎ足しの描写よりずっといいですね。すぐ続きを読みたくなりましたから。

尚々。私(長岡由秀)は別に名前を秘しているわけではありません。今年が裁判員制度の始まる年なので、それに掛けてそう名乗ったにすぎません。以後、「冤罪事件追及者」で言いにくかったら、実名出しても問題ありません。

 
返信する
いや、そのー (郎女)
2009-01-31 17:50:32
他の方にもいわれたのですが、自分では、どこが「絶妙な語り」なのか、さっぱりわかっておりませんです。私としましては、弁之助の語りがあまりに流麗なので、史料として出すのが気が引けまして、押さえたつもりなのですが。

あー、泊まりの予定の件ですね。かならずしも、一泊目が戸塚と決まったものでもないんだろう、とは、思っておりました。しかし、戸塚泊まりが多かったとすれば、たしか大久保が日記で戸塚を出しているんですよね?(すみません。史料が出てきません) 戸塚が宿泊予定にあがった理由もわかりますし、第一弁之助は、「今度島津三郎上京に付、今二十一日神奈川駅旅伯の旨相触置候処、都合に由り左の通り繰替旅行致候に付云々」という薩州人馬方・橋本某から「神奈川宿から平塚宿まで 宿々問屋役人中」という触書が、はさまれておりますよね。これは、弁之助が保存しておいたものでしょうし、こんなどうでもいいことで、書類を偽造するいわれもないと思います。

それから、ちゃんと私は、これは後世資料である、と断って、こうであったのではないか、という話をしておりますし、どうしても必要な場面では、他の史料との整合性も、ちゃんと書いております。お願いですから、全部読んでから(資料の方もですが)、コメントなさってください。

 さらに、これは、どうあがいても証明のしようのないことでして(確実な史料がありませんから)、小説の材料にはできても、「絶対にこれが史実であった」などということは不可能です。ですから私は、wikiを書き換えておりません。wikiに神奈川が宿泊予定地だったと入れたのは、私ではありません。
 そういう前提で書いておりますことを、ご理解いただけますでしょうか?
 そもそも私は、史家ではありませんし。こんなあまり人のこないブログですので、好きに書かせていただきたいと存じます。

宮澤氏の本や資料をまじめに受け取られながら、弁之助の語りは、なぜ、それだけ細かく否定なさるのか、私にはさっぱりわかりません。
 その「私のイメージ」は、宮澤氏のご著書や、吉村氏の小説で生まれたものでは、ないのでしょうか。はっきりいって、最初の殺傷現場を客観的に見ていたのは、生麦村の人々しかいないのです。その聞き取りを否定して、客観的な状況はつかめない、と存じます。
 あとは、イギリス側のできるだけ確実な史料と照合すべきと思い、宣誓口述書を採用しました。

 さらに言いますならば、藤屋で久光が休憩した、としまして、お茶休憩の場合、村役人はそのお茶屋でお出迎えしますよね。つまり先共の駕籠が門前に並び、それがひっくり返されて、藩士が怒って飛び出したのは、村役人が全員、目撃していた、ということになりませんか?

 あらためて読み返してみましたら、吉村氏は、宮澤氏よりははるかに、広範な史料を読まれて書いておられますね。ただ、私と「鉄砲隊」に対する認識がづれて、ちがってきているのだと納得しました。

返信する
それと、です。 (郎女)
2009-01-31 19:44:47
私は、一応、大学の選択科目では史学系のものも多くとりましたので(日本中世史とか、ですが)、史学の先生方が、史料の扱いをどう考えておられるか、おおざっぱなことはつかんでいるつもりでおります

ただ、もともと見識が偏向している方が、でどころの確かな、公文書などの確実な史料のみで歴史を組み立てますと、とんでもない、誤った歴史像ができあがることもあります。
和田春樹東大名誉教授など、いい例ではないでしょうか。北朝鮮政府所蔵の史料を、唯一見ることができた日本人だといわれ、現代朝鮮史の権威になられますが、そりゃあ北朝鮮政府の史料ですから確かでしょうが、そもそも偏向していますわね。で、「拉致など証拠がない」と、言い続けられたのですわ。
小泉訪朝で拉致が発覚した後も、教授を取り巻く人々が、関川夏央氏の北朝鮮論評を、「情緒的」というような言葉を使って攻撃しておられましたが、私には、「関川夏央氏が言ってきたことの方があたっていたじゃないの」としか、思えませんでした。関川夏央氏は文芸評論家で、小説のようなものも書いておられますが、とても読みやすく、美しい文章を書かれますわね。

 人に読ませる文章(叙事的なもの)を書く、ということは、とりあえず、自分が描写するものを客観的に見て、それをあらためて、想定した読者に提示することだと思うんですのよ。ただ、そこに対象物に対する愛、っていうんでしょうか、それを描写しようとまで思った著者の情念が感じられると、より共感をよぶ名文になるのではないでしょうか。
 とりあえず、客観視は叙事的な文章を書くことの大前提ですので、案外、小説家の方の方が、歴史の真実をつかんでいる、ということもありえます。細かな事実はまちがえていても、大づかみなところで、です。
 それが、フィクションの醍醐味だと思っております。

 ご著書を拝読しまして思いましたことは、読者を動かすのは、長岡さまの情念なんです。私が、まったく興味の無かったことを考えてみようか、と思いましたのも、貢さんでしたっけ、ご子孫とお会いしてえられたのだろう、長岡さまの思い入れ、でした。
 あくまでも客観的に、ですが、それをもっと語られた方がよかったのではないか、と思いました。
 
返信する

コメントを投稿

生麦事件」カテゴリの最新記事