郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

戊辰の春、名女形の壮絶な舞台

2006年02月12日 | 幕末文化
チャンネルをまわしていて、偶然、時代劇チャンネルで『田之助紅』という古い映画を見ました。
三代沢村田之助といえば、幕末の名女形です。
幕開けは、万延元年(1860)、田之助の立女形披露らしき場面。
安政六年(1859)正月15歳で襲名、翌年、16歳で立女形になった、という事実からしますと、映画の役者さんは老けていたんですが、これは見なくっちゃ! と。

映画は、もちろん実話ではなく、実在の田之助を主人公とした舟橋聖一原作のフィクションです。モノクロで、ずいぶんと古い映画みたいでした。
で、いま、時代劇チャンネルのHPで見てみましたら、なんと、1947年の映画!
終戦の2年後ではないですか。

後世の感覚って、なんか変なんですよね。
戦争していたら、当時の世の中はそれ一色だったんだろうと、つい思ってしまいます。
戊辰戦争もそうで、戊辰の春の江戸も、いつもにかわらず歌舞伎が上演され、多くの人々は普通に暮らしていたんですよね。
そして1947年、戦後の占領期、時代小説でさえ検問を受けて、出版できなかった時期とはいえ、作り方によってはこうい映画も、ありえたんですよね。
制作年を最初、勘違いしていて、戦時中の映画だと思い込んでしまっていました。
映画の筋を簡単にいえば、田之助は「風紀を乱す」という感じで奉行所に睨まれるのですが、芸一筋の田之助は、慕う女たちに庇われ、さらには、真摯な田之助の舞台が奉行の心をも動かす、といったものです。
これ、軍部をお奉行さまに見立てて、田之助の芸にかける心意気が、映画人の心意気なのかと思っていたのですが、あるいは、お奉行さまは、GHQであったかもしれないですね。

ちょうど太平洋戦争開戦の2ヶ月ほど前に、『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』という聞き語り本が出版されました。
語り手は、今泉みね。
 徳川将軍家の蘭医・桂川家の娘として、安政2年(1855年)、幕末の江戸に生まれた女性です。
 みねは、維新後、落ちぶれた桂川家から、元佐賀藩士で新政府出仕の今泉利春に嫁ぎますが、司法畑にいた利春は反政府運動にもかかわり、みねが獄中に差し入れにいくようなこともありました。
 昭和になって、80を越えたみねの少女時代の想い出を、孫たちが聞き書きしたものが、この『名ごりの夢』なのです。
 花のお江戸から飛行機が上空を飛ぶ東京へと、みねの生きた時代は、すさまじいスピードで流れました。
 「私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした」と、みねは、消え果てた江戸の光景を、夢のようになつかしむのです。
その『名ごりの夢』で、三代田之助のことが語られています。

私がよく見ましたのはあの足の悪かった田之助でした。この役者の人気と申したらとても大したもので、どうしてあんなに人気があったのかと聞かれますが、実に名優だったのでしょうね。美しいことも、私が見た中であれほどの美しさは前後になかったと思います。ただの美しさではなく、なんとなくこうごうしい美しさでした。それに足の悪いことも贔屓の人たちの同情をひいて、一層の人気を増したかもしれません。とにかく芝居小屋は田之助の紋のついたものばかり、幕があいても「紀の国や紀の国や」の声はわれるようでしばらくは鳴りもしずまらぬほどでした。あの最初の宣教師であり医者でもあったヘボン博士が外科手術で田之助の足を切断したことは、当時田之助をも博士をも有名にした話だったでしょう。歩けなくなってからの田之助は大きな笊(ざる)の浅いようなものに乗って舞台へ出ました。

足が悪かった、というのは、壊疽だったといわれます。
横浜のヘボン博士の手術で片足を切り落とししたのが、慶応三年です。
明けて戊辰の春、田之助はアメリカ製の義足をつけて、舞台に立ちます。
さらにはもう一つの足も失いつつ、なおも舞台に立ちつづけた名女形は、壮絶なまでに美しかったのです。

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