郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2

2012年10月20日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1の続きです。

 メイエルの娘、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)は、1909年(明治42年)、日露戦争の5年後にニコラエフスクで生まれました。うちの祖父母と同じくらいの世代です。

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 ロシア革命から内戦の時代を描いた映画で、日本で公開されているものは、あまりないような気がするのですけれども。
 このデイヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバコ」は、1965年、冷戦の時代に西側で撮られた映画です。従いまして、撮影はスペインやフィンランド、カナダなどで行われました。
 私、数年前にケーブルテレビで見まして、DVDを買ったのですが、ラブストーリーが中心にすえられ、ロシア革命の過程は非常に短縮して描かれている、とは思うのですが、名作といわれるだけのことはあるのではないでしょうか。
 最近、キーラ・ナイトレイ出演リメイク版テレビドラマのDVDが発売されているようでして、内容は置いておいても、撮影はロシアでしょうから、買ってみるつもりでおります。ロシア版テレビドラマもあって、これこそロシア国内ロケまちがいなしでしょう。見たいのですけれども、お値段がちょっと。

 ともかく。
 1965年版の「ドクトル・ジバコ」なのですが、1905年1月9日の血の日曜日事件から1917年の2月革命まで、12年の歳月が流れているとは、ちょっとわかり辛いストーリー展開になっています。

 ロシア革命の幕開け、とも位置づけられる血の日曜日事件は、ロシア帝国の首都ペテルブルクにおきまして、日露戦争の最中に起こっております。
 簡単に言ってしまえば、天安門事件のようなもの、でしょうか。
 血の日曜日事件は、体制をゆるがして12年後の革命につながりますが、天安門事件は体制側がひきしめに成功して、20年を超えた今も強権独裁政権が続いている、という点で、ちがいはするのですけれども

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 ひえーっ! YouTubeで、血の日曜日事件に関する動画をさがしていますうちに、1971年のアメリカ映画「ニコライとアレクサンドラ」に、かなり史実に近い感じで描かれていたのを思い出しました。これ、映画としてはおもしろくなくって、内容を忘れこけていたのですが、史劇ですし、そこそこ当時を思い描ける映像ではあるんですよね。
 えーと、消されなければいいのですが、下の動画が「ニコライとアレクサンドラ」の血の日曜日事件の部分です。曲は映画のものではなく、エヴァネッセンス(Evanescence)の「 All That I'm Living For」。

Bloody Sunday (1905) - Кровавое Воскресенье



 この映画で描かれていますように、軍が労働者のデモ隊に発砲し、大虐殺が起こりました主な舞台は、ペテルブルクの冬宮、現在のエルミタージュ美術館前広場です。
 ロシア帝国政府の公式発表で、死者130人、負傷者299人。誇張された報道に基づき、レーニンが想定した死傷者は4600人。歴史家が述べる妥当な線で、死傷者800人から1000人の間、だそうです。(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p150)
 動画の字幕は死者4000人ですから、誇張された数の方をとっておりますね。
 デモ隊の真ん中にいます僧侶は、ガポン神父。デモ隊を組織し、請願行進を主導した人物です。

 以下、主に西島有厚著「ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合 (1977年)」を参考にしまして。

 このガポン神父、一応、ロシア正教会の聖職者なのですけれども、通常の僧侶の歩むコースからは大きくはずれた人でした。
 レーニンと同じ年に、ウクライナの豊かな農民の子として生まれ、ロシア正教会の神学校へ進みますが、トルストイ主義(作家トルストイは独自のキリスト教信仰を公言していまして、正教会から破門されました)の影響を受け、社会的で行動的なキリスト教を求めて、既成のロシア正教会には批判的になっていきます。

 ガポンはいったんは正教会の聖職についたものの、結婚問題もあり、挫折して、ペテルブルクで、労働組合といいますか、労働者互助会といいますか、を組織し、労働運動を主導します。
 ガポンの労働者組織の基盤には、警察が治安対策としまして、労働者を体制側に囲い込むために組織していました御用組合があり、保安警察(オフラーナ)からの資金援助を受けていました。しかし、やがて組織の幹部に社会主義者が入りこみ、かならずしも体制よりとばかりもいえないものとなってゆきます。

 とはいいますものの、ガポン神父が企てましたのは、「労働者の保護政策、日露戦争の中止、憲法の制定」などを、皇帝へ請願するために冬宮へ向けて行進しようということでして、しかも体制側は事前に、大規模請願デモになることを知っていました。
 知っていましたから、軍隊を動員し、周辺から行進してくるデモ隊を市の中心部に入れないために、各所に配しておりました。ところが、取り締まる軍と警察の間に連携はなかったようでして、労働者が多数住む地区の警察官は、なにしろ御用組合のデモですから、先頭に立って行進し、軍の銃弾をあびて死んだりもしているんですね。

 結局、数万人を集めたデモ隊が、体制側の予想を大きく超えたということなのでしょうか。
 非暴力のデモでしたけれども、万一の事態のために、ということで、武器の携帯は許可され、銃を携帯する者もあり、一部応戦したりすることもあっったのかもしれません。
 軍は、各所で流血沙汰を起こしながら、結局、冬宮へ向かう群衆を止めることができず、映画「ニコライとアレクサンドラ」で描かれました冬宮前広場の惨劇、となります。

 「ニコライとアレクサンドラ」では、この事件の裏に日露戦争があったことをも的確に描いています。
 実はガボンは、旅順陥落にあわせてこの請願デモを行った、という話もあります(「ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合 」p291)。
 事件後、国外へ出たガボンには、ロシアの反政府運動を支援していました明石元次郎との接触があった形跡があり、社会革命党(エスエル)とともに、明石が工作資金を流した事件に関係します。イギリスの貨物船ジョン・グラフトン号で、ロシアの反政府勢力のために武器を密輸しようとしたのです。失敗に終わりはしたのですけれども。(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p174)
 ガボンが、事件前から明石工作に関係していた、という証拠はないのですが、いずれにせよ請願には、はっきりと「日露戦争の中止」と謳われていますし、事件が日露戦争と密接な関係をもって起こったことは確かです。

 日露開戦当初、大多数のロシア国民はかつてないまでに愛国心に満ちて、ツァーリ(皇帝)と戦争を支持していました(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p103-105)。ロシア国内が戦場になる心配はないと確信されておりましたし、戦争の相手は、大方のロシア国民には縁のない極東の異人種で、簡単に勝利が得られるはずでした。

 ところが、ロシア国民にとりましては、なんともすっきりしません状況のもと、初戦から敗退の報が届き、次第に、挙国一致の熱は冷めていくんですね。
 やがて戦場には、ロシア西部の正規軍から予備役までがかり出され、鉄道は軍事輸送のみに使われて、物価が急上昇し、実質賃金が目減りします。おまけに、開戦の1904年、ロシアの農作物は不作でした(「ロシアはなぜ敗れたか―日露戦争における戦略・戦術の分析」)。
 そうなってきますと、膨大な戦費を費やして、若者が戦場にひっぱられ、なんのために遠い異国の満州で戦っているのか、一般国民には意味が見いだせなくなっていき、一挙に不満が噴き出します。

 日露戦争の遠因に、1891年(明治24年)から始まりましたシベリア鉄道の建設があります。
 露清密約によりまして、満州での大きな権益を得ましたロシアは、東清鉄道を建設してシベリア鉄道ににつなぎます。主にフランスからの投資で進められましたこの事業は、ロシアのシベリア・満州開発に拍車をかけ、戦時の輸送力を飛躍させますことから、日本にとっては大きな脅威となり、またロシアでは、鉄道建設によります工業化効果で、農村人口が都市へ流れ込み、貧しい労働者がスラムを形成するようになります。(「シベリア鉄道―洋の東西を結んだ一世紀」 (ユーラシア・ブックレット)

 以下、主にハリソン・E.ソールズベリー著、後藤洋一訳「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」によりますが、一方で産業の拡大により、19世紀末のロシアには、サッバ・モロゾフ、サッバ・マンモートフ(Савва Иванович Мамонтов)などの大富豪が生まれておりましたが、ロシア帝国は彼らを、体制側に取り込むことができないでおりました。

 サッバ・モロゾフの祖父は農奴で、自分と家族の自由を買い取った上で、事業の基礎を築き、次の代で繊維、工作機械、製造業などの連合企業体経営で億万長者となり、サッバはそれを受け継ぎました。
 一方、サッバ・マンモートフは父親が徴税代理人で、鉄道事業を手がけて富を築き、息子のサッバがそれを拡張しました。
 そのモロゾフもマンモートフも、ボリシェビキやメンシェビキ、社会革命党など、反政府勢力に莫大な資金援助をして、その活動をささえていたんです。彼らはまた、多数の芸術家たちのパトロンでもあり、マンモートフはモスクワ芸術座の財政を賄ったことで有名です。
 
 新興ブルジョワジーの富は、変革への期待を育み、新しいロシアの文化を大きく花開かせたわけです。チェーホフやゴーリキーの脚本による演劇。リムスキー=コルサコフなどの音楽。ニジンスキーなどのバレエ。

 またこの当時、ベルエポックの華やかなパリとペテルブルクは、豪華寝台車で結ばれ、富裕な人々や芸術家たちは、気軽に行き来してもおりました。
 アメリカのダンサー、イサドラ・ダンカンは、ヨーロッパ公演の一環でロシアを訪れ、血の日曜日事件で虐殺された人々の葬儀を目撃しています。
 そして、血の日曜日事件のよく年からは、ディアギレフを中心として、ロシア美術や音楽、そしてバレエのパリ進出が実現し、世界的に認められることともなりました。

 しかし、文化的には独自のインパクトを持つに至ったそのロシアにおいて、日露戦争開戦時には、国会(ドゥーマ)は開設されておらず、憲法もありませんでした。
 ロシアの文化人たちの多くは、血の日曜日事件に衝撃を受け、ガボンの知り合いだった劇作家のゴーリキーは、事件の夜、「われわれは、こういった種類の体制にはもう堪えられない。すべてのロシア市民に、専制に対抗して団結し、不屈の闘争に立ち上がるようよびかける」といったアピールを執筆しました。

 ペテルブルク音楽院の院長で、政治的には、決して急進的ではなかったリムスキー=コルサコフも、政府批判を行って一時職を追われます。一幕もののオペラ「不死身のカシチェイ」は、血の日曜日事件の犠牲者にささげられ、ロシアの専制政治を風刺している、といわれます。
 事件の翌年から一年をかけて作られ、コルサコフの遺作となりましたオペラ「金鶏」にもまた、専制への抗議の思いが込められていました。

 
リムスキー=コルサコフ:歌劇《コックドール(金鶏)》全曲 パリ・シャトレ座2002年 [DVD]
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 このDVDは、2002年、パリ・シャトレ座で上演されました、市川猿之助演出の「金鶏」です。
 「金鶏」は、プーシキンのおとぎ話を原作としていますが、オリジナルといってもいい筋立てでして、ある王国の老いた独裁者ドドン王とその王子たちが、東方の謎の王国シェマハの女王にまどわされ、滅びていきます。女王は「軍事ではなく美の力で征服しにきた」と言いますし、東方といいましても中央アジアのようではあるのですけれども、作られた時期が時期でありますだけに、シュマハの女王は日本を象徴しているのではないか、という見方もあります。

 日露戦争の前後には、川上貞奴や花子(ロダンの彫像のモデルとして知られています)がロシアで公演し、また浮世絵などの日本美術も注目をあびまして、ロシアにもジャポニズムの波は起こっていました。「美の力で征服」も、当時の日本にふさわしかった、といえば、いえなくもありません。
 
Rimsky Korsakov - Hymn to the Sun - Le Coq d'Or



 シェマハの女王のアリア「太陽への讃歌」です。

 1905年、血の日曜日事件の後も、日露戦争におきますロシアの敗退は続き、ロシアをおおいました不穏な空気は消えません。社会革命党によるセルゲイ大公暗殺事件も起こりました。
 夏になって、ロシアにとりましては有利な条件でポーツマス条約が調印され、ようやくのことで、日露戦争は終わります。
 その直前に、ニコライ二世は、さまざまな制限つきではありますが、国会開設を認可する新法を発布しました。

 しかし、事はそれではおさまりませんでした。
 亡命していた革命家たちが帰国し、ペテルブルク、モスクワで、学生たちが大規模なデモをくりひろげ、労働者がゼネストをはじめ、それが地方都市に飛び火します。

 ニコライ二世は、「人はつねに自由を求めて刻苦する。教養ある人は、自由と法、法に規制されたる自由と、彼の権利の安泰を望む」と洞察した改革派のウィッテの献策を入れ、立憲君主制への道を開く詔書を発布します。
 しかし、体制側が示しましたこの妥協は、例えばトルストイや、立憲民主党(カデット)を創設することになるパーベル・ミリュコーフなど、穏健な人々にとりましても、漸進的にすぎまして、納得がいかないものだったのです。

 騒動は収まらず、むしろ激しい反政府暴動となりまして、結局、体制側は、徹底した武力弾圧に転じました。
 ロシアでは、革命を扇動する革命家たちはユダヤ人だと見られ、騒動鎮圧の過程で、ポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こりもします。
 結局、ほぼ1905年いっぱいで争乱は収束し、12年間の間、一見、革命の芽は消えたかのようにも見えました。
 トロツキーは「1905年の革命は、1917年の革命の舞台げいこであった」と結論づけています。

 そしてリムスキー=コルサコフは、「金鶏」の最後をドドン王の死でしめくくり、残された王国の人々に「もう一度夜明けはくるのだろうか? 王様なくして国はどうなるのだろうか?」と嘆かせているんです。
 ロシア帝国の土台は、確実に時代の流れに削り取られていました。

 リムスキー=コルサコフが世を去りました翌年、極東のニコラエフスクに、ユダヤ人実業家の娘として生まれましたエラ・リューリ・ウイスエル。

 血の日曜日事件だけで、長くなってしまいまして、エラのお話は、次回に続きます。


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