郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.8

2012年11月23日 | 尼港事件とロシア革命
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7の続きです。

 私、最初に尼港事件の賠償問題を知りましたとき、「これって、拉致事件と似てない?」と思ってしまいました。
 1925年(大正14年)1月、日本はソビエト社会主義共和国と日ソ基本条約を結び、国交正常化をするに至ったのですが、このとき、北樺太の石油利権と引き替えに、尼港事件の賠償問題を、事実上、棚上げにしたんですね。

 当時、軍艦の動力が石炭から石油へ転換していまして、イギリス、フランスは中東の産油地帯を押さえておりましたし、第一次世界大戦開戦前、ロシアと良好な関係を築いておりました日本が、共同開発を計画しておりました北樺太の石油を、あきらめきれなかった事情はわからないでもないのですけれども、しかし。
 尼港事件を人権問題、ソビエト・ロシアの国家犯罪として、きちんと世界に訴えきれていなかったのではないか、という思いは残ります。

 拉致事件は、起こりましてから長らく、北朝鮮の策動でなかったことにされ、国交正常化交渉において、ようやく北朝鮮が事実関係のみはを認めた、というちがいはあるのですが、しかし、尼港事件におきますソビエト・ロシアの犯罪性もずっとソ連は認めてこなかったわけですし、拉致事件もまた経済的な利権と引き替えに、棚上げにされかねない可能性は、今なお消えていないわけです。

 しかも、ですね。
 双方、日本国内の左翼インテリ層によりまして、「悪いのは日本政府の方!」といわんばかりの叫びがあがり、「共産主義体制が生み出したテロル」である、という認識が、日本においてさえ、希薄なんです。結果導かれますのが、「国交正常化のために棚上げを!」という、いわゆる識者(!)の論調です。

 1920年(大正9年)、尼港事件直後に発行されました中央公論7月号に、吉野作造の論評が掲載されているのですが、吉野はまず、「日本は対ロシア関係において、シベリアでさらなる困難を背負い込むことになってしまった」とし、その原因を以下のように記しています。

 第一西伯利(シベリア)に出兵した事、第二セミヨノフとかコルチャックとかいふ民間に人望の無い反動的保守階級を対手としたことが原因である。

 そして、尼港事件。

我々は、一部為めにする所あるものの罠にかかって不当に興奮するの極、本件に関する本当の責任者を見損なってはならない。しかしてそのいわゆる真の責任者は明白に(日本)政府、ことに軍事当局者にあるのであるが、ここにまた在野政客の一部の間には、得たり賢しと之を政争に利用せんとするものがある。
 
 い、いや……、言っていることが嘘だと言うわけではないのですけれども、ソビエト・ロシア、ボルシェビキ政権の責任は、どうなっているのでしょうか。
 いわゆるインテリ評論家って、大正の昔からこうだったんですね。
 百年の後のロシアで、レーニンの像が倒され、コルチャークの像が建ったことを、教えてあげたい気がします。

 
世界をゆるがした十日間〈上〉 (岩波文庫)
ジョン リード
岩波書店


 アメリカの左翼ジャーナリスト、ジョン・リードが、ボルシェビキ革命の始まりと同時にロシア入りし、まったくロシア語を知りませんでしたにもかかわらず革命を取材し、アメリカで出版しました「世界をゆるがした十日間」は、今なお名著とされておりますが、現在読みますと、「人間はここまで、自分の見たいものしか見ないでいられるんだ!」と不思議ですし、北朝鮮を地上の楽園と報じたかつての日本のマスメディアと知識人を思い出します。

ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム
セルゲイ・ペトローヴィッチ メリグーノフ
社会評論社


 「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」は、アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマンの「ニコラエフスクの破壊」(ロシア語)が出版されましたと同じ1924年、場所も同じベルリンで出版されました。
 著者のセルゲイ・ペトローヴィッチ・メリグーノフは、旧貴族出身のインテリで、人民社会主義党(エヌエス)の活動家であり、社会民主主義者だったため、10月革命以降、ボルシェビキ政権からたび重なる弾圧を被りました。一度は死刑判決を受けもしましたが、クロポトキンなど、古参活動家のおかげで、減刑、釈放され、1922年に国外へ亡命します。

 社会主義政党連合の熱烈な支持者でしたメリグーノフは、エヌエス国外委員会を立ち上げ、ボルシェビキ独裁政権批判の言論活動をはじめます。その中で出版されました代表作が、この「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」です。
 おそらく、なんですが、グートマンとも知り合いで、「ニコラエフスクの破壊」も読んでいたのではないでしょうか。

 メリグーノフは、「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」の前書きで、次のように言っています。

 ボリシェヴィキがなした以上に人間の血を流してはならない。ボリシェヴィキのテロルで具体化された以上に破廉恥な形を想像することはできない。これは自分のイデオローグを見つけ出すシステムである。これは暴力を計画的に実施するシステムであり、これは世界中のいかなる権力もまだ到達したことがないような、権力が持つ武器として殺人を公然と礼賛することである。これは内戦の心理状態にあれこれ説明を求めることができるような過剰行為ではない。
 「白色テロル」は別の秩序の現象であり、まずは放埒な支配と復讐に基づく過剰行為である。いつ、どこで、政府政策の条文やこの陣営の政治評論に、諸氏は権力のシステムとしてのテロルの論理的根拠を見いだすであろうか。いつどこで組織的で公的な殺人を呼びかける声を聴いただろうか。いつどこでデニーキン将軍やコルチャーク提督やヴラーンゲリ男爵の政府にこれが見られたか。


 つまりメリグーノフは、例えばコサックのアタマンに見られたような白色テロルは、むしろ政治権力の弱さ、内戦の混乱が生み出した過剰行為だったけれども、赤色テロルは、権力が武器として意図的に殺人を礼賛するシステムである、と言っているんです。そして、こうつけ加えています。

 わが民主的ジャーナリズムがシベリアの反動の責任をコルチャーク提督に負わせるなら、ロシアで過去にも現在にも起こっていること(赤色テロル)の責任は誰が取るのか。

 吉野作造はもちろん、メリグーノフの著作は、読まなかったものと思われます。
 いえ、吉野作造など、日本の知識人だけではありませんで、欧米の知識人にも、基本的に「世界をゆるがした十日間」のロマンを信じる者は多かったのです。

 メリグーノフは、国際連盟の難民高等弁務官としてロシアの大飢餓救済に活躍したフリチョフ・ナンセンにも、抗議の声を上げています。ナンセンは、「ロシアの政治的抑圧は専制政治であった旧体制下でも同様に存在した」とし、どうも「革命という非常時であることを理解して許そう」というような論文を書いたらしいのですね。

 そもそもロシアの大飢餓が、ボルシェビキ政権の人為的災害であったことが、ナンセンにはわからなかったのでしょうか。
 いえ……、わかったからといって、どうしようもないことだったから非難しなかっただけなのでしょうか。
 メリグーノフは訴えます。

 「黙っていられない」というトルストイの言葉を、なぜ、われわれはヨーロッパで聴かれないのか。ごく最近、革命時には平時以上に倫理的価値を守ることが必要であると見たロマン・ロラン(フランスの作家)は、レフ・トルストイに近いと思われるのに、なぜ、「人間的良心の神聖な要求」の名の下に声を挙げないのか。なぜ、国際連盟は人間と市民の権利に沈黙しているのか。

 メリグーノフは、ドイツの社会民主主義者で、ソビエト・ロシアのボルシェビキ独裁を痛烈に批判しておりましたカール・カウツキーに心酔していたようでして、けっして白色テロルに同調する立場にいたわけではありません。
 グートマンもまた、反共と言いましても、反ボルシェビキ独裁であったと、理解するべきでしょう。
 グートマンの「ニコラエフスクの破壊」を英訳しましたエラ・リューリは、1993年に至ってなお、こう述べています。

 読者の中には、著者のグートマンが、自らの強烈な反共精神に基づいて、パルチザンが犯した残虐行為を、大幅に誇張して記述している、と感じる人もいるだろう。また、当然のことながら、ソビエトの文筆家達は、グートマンが、パルチザンを血に飢えた犯罪者達と位置付けていることに対して、強い抗議の声を上げている。ブージン・ビッチ、アウッセムは、それぞれの回顧録の中で、行き過ぎた行為があったことは認めているが、トリャピーツィンと数人の腹心達、特にラプタがやったことだ、と非難している。その一方で、個々の出来事に関する彼らの記述を見ると、本書の付録に収録しているものも含めて、他の目撃者の証言と一致しない。指揮した者達を許そうが許すまいが、このニコラエフスクの話は、スターリンがソビエト政権下では日常茶飯事と化すずっと以前に、ボルシェビキが無差別テロを実行した事実の、明白な証拠である。




 中央の白衣の人物が、ニコラエフスクを襲いました赤色パルチザンの中心人物、赤軍司令官ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンです。
 この写真は、1920年3月の日本軍決起以降、4月ころのものと推測されています。
 といいますのも、参謀長だった隻腕(片腕)のナウモフ(日本軍の襲撃で死亡)の姿がなく、背後には、日本居留民から掠奪した屏風が見えるからです。
 トリャピーツィンの左の女性が、ニーナ・レペデワ・キャシコ。ナウモフの後を継いで、参謀長になりました。
 ニーナの左隣、椅子にすわって足を組んでいます人物が、副司令のラプタ。

 ニコラエフスクの日本人居留民皆殺しの情報は、すでに3月、それを指令しましたトリャピーツィンの宣伝電文によって、日本軍もあらましをつかんではいたのですけれども、港が氷で閉ざされ、アムール川の氷が不安定な間、救援隊を出すことができませんで、ようやく5月、日本軍救援部隊がニコラエフスクに迫りました。
 ここへ来てトリャピーツィンたちは、「日本軍の保護の下で政権ができることを妨げるために」町を徹底的に破壊し、数千人を虐殺し、残った住民を強制的に引き連れて逃げたのですが、ただ一人ラプタのみが、救援日本軍を待ち伏せて戦いを挑み、戦死しました。

 追い詰められました赤軍パルチザン部隊は仲間割れを起こし、トリャピーツィンとニーナは処刑されますが、残った赤軍パルチザンは、町の破壊にも虐殺にも掠奪にも、異議をはさむことなく実行に参加していたくせに、です。トリャピーツィンとニーナ、そしてラプタにのみ、罪をかぶせて残りの人生を生きた、というわけです。

 
 
 ハバロフスク上空ですけれども、シベリアに飛ぶ日本軍の飛行機です。
 
 救援に向かいました日本軍は、「戦闘を前提にそちらへ向かっているわけではない。捕らえられた日本人(100人あまりです。事情がわかっていなかったハバロフスクの山田旅団長の停戦命令に従い、武装解除の上、投獄された軍人がほとんどで、一般居留民は、虐殺を逃れて日本軍兵営に逃げ込むことができた十数名のみ)の解放交渉に応じる用意がある」と、飛行機でビラを蒔くなどして呼びかけていましたにもかかわらず、全員が惨殺され、そればかりか町は破壊するは、住民を殺しまくるはのあげくに、犯人たちは逃げ去ったのです。

 日本の救援隊指揮官の談話などは、むしろ、真っ正面から戦いを挑んできて戦死しましたラプタにのみは、好意的です。写真で見る通りのいい男ですし、スタイリッシュでもあったそうです。
 また、このラプタが率いていました部隊の装備が、ですね。外套や毛布、缶詰などの食料に至るまで、すべて日本軍から掠奪したもので、最初、救援部隊は「日本のものをなぜ?」と首をかしげたそうなのですが、すぐに事情を察し、無念の思いに歯ぎしりをすることとなりました。

 私、この事件について、もう一度詳しく書く気にはとてもなりませんで、ぜひwiki-尼港事件をご覧になってみてください。
 ただ、つけ加えますならば、ハイパーインフレが起こり、ルーブルが紙くずになりまして、日本人の島田元太郎が発行しました紙幣の方が、信用を得ていました内戦期のシベリアです。
 指導層のロシア人にはユダヤ系が多く、日本人やイギリス人、アメリカ人が経済をささえていましたニコラエフスクには、金鉱もありまして、掠奪するにはおいしい都市だったでしょうし、そのわりには駐留日本軍の数が少なく、交通が途絶されて救援部隊が容易には派遣できません冬期を狙えば、赤軍支配が簡単に実現できる、と見られていたのでしょう。
 また、これは私の憶測でしかないのですが、パルチザン部隊は中国砲艦に事前にアプローチして、味方についてもらえる約束ができていた可能性が高いのではないでしょうか。

 ニコラエフスクの白軍守備隊の数は、多いときでも500人くらいだったそうでして、それくらいの数ならば、給料を払いえた、ということなんですが、それが、10倍近い4000人もの赤軍パルチザン部隊と入れ替わったわけです。掠奪をしなければ、とうてい、食べさせていける数ではありません。
 また、どうしてそれだけの人数を集めることができたか、ですが、勢力を得てからは強制動員をかけたにしましても、当初、ほとんど経済的基盤のありませんでしたパルチザン部隊が、雪だるま式に増えたにつきましては、ニコラエフスクへ至るまでにそうとうな掠奪を行い、またニコラエフスクでのおいしい掠奪がえさにされていたらしい、と、推測できる証言も多々あります。

 結果、ニコラエフスクでなにが起こったのか、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5でご紹介しました、エラ・リューリと同じ年の女の子、石田虎松副領事の遺児、石田芳子が記しました「敵を討って下さい」の続きを、溝口白羊の「国辱記」から引用します。

 三月の末でしたお家の新聞に
 ニコラエフスクの日本人が、
 一人残らずパルチザンに殺されたと書いてあったので
 あたしビックリして泣き出しました
 おばあ様もおどろいて、これはうそだ
 何かのまちがひだと云ひました
 さうよ、きっと何かのまちがひよ
 けれども何やら心配で、その晩
 こわいこわい夢を見ました。
 これが嘘であればいい、まちがひであればいい
 お父様やお母様はご無事でせうかしら
 今頃綾ちゃんや赤ちゃんはどうしてるかしら

 うそだと思っていたことが、ほんとうでした
 大変大変まあ、どうしたらいいでせう
 お父様もお母様も、
 綾ちゃんも赤ちゃんもみんな殺されてしまいました。
 仲のよかったお友達も
 近所に住んでいたおばさんも小父さん達も彼も
 みんな殺されてしまひました
 槍でつかれたり、鉄砲でうたれたり
 サーベルで目の玉をえぐられたり
 八つ裂きにされたりして殺されたのです
 まあ何と云ふむごいことをするのでせう
 にくらしい狼の様なパルチザン

 お家は焼かれるし、お金はとられるし
 はだかにされて、なぶり殺しにされる時
 まあどんなにかうらめしかったでせうね
 死ぬる時には、日本の方を伏し拝んで
 どうかお国の人達よ、この敵を討って下さいと
 きっと涙をこぼして願ったでしょう
 敵を討ってくれる人は
 お国の人よりほかに無いのですもの
 敵を討って下さい、どうか敵を討って下さい
 そしてうらみを晴らしてやって下さい
 もしもこのうらみが晴れなかったなら
 殺された人たちは、死んでも死ねないでせう

 
 女子供も容赦なくなぶり殺された中で、わずかに命が助かった子供の話を、したいと思います。

 中華民国の砲艦は、白軍に攻撃され、日本軍の関与も疑っていましたので、赤軍に共感を抱いていたのですが、基本的に中華民国は、日本と同じく連合国側なのです。公然と日本軍や日本人攻撃に加わりますことは、外交上、非常な問題をかかえた行為だったのですが、パルチザン部隊に300人の中国人が加わっていたことも手伝い、やってしまいます。

 そのため、ニコラエフスクの2000人の華僑の安全は守られたともいえ、そして華僑たちの多くは、決してニコラエフスクの知識人や指導者、富裕層、そして日本軍と日本人に反感を持っていたわけではありませんで、個人的なつながりのある人々を、なんとか助けようとしました。
 日本人で、中国人にかくまわれて助かりましたのは、主に、中国人や中国人と親しいロシア人の内縁の妻になっておりました十数名の女性にすぎないのですが、その中に、三人の親子が、まじっていました。
 佐藤さきとその幼い二人の子供、ツユと杢之助です。

 さきの夫・佐藤林吉は、長崎出身の仕立て職人で、1914年、第一次世界大戦開戦の年に、ニコラエフスクへ渡ってきました。
 林吉は、義勇兵として日本軍に加わって早くに戦死してしまい、日本人虐殺がはじまって、さきは二人の子供をかかえてふるえているしかなかったのですが、知り合いの日本人女性の夫が中国人で、中国人たちにかくまわれ、一度は捕まったのですが、中国領事の尽力で釈放され、最後は中国砲艦に乗せてもらって、逃げることができたのだそうなのです。
 日本人の子供で、生き延びることができたのは、この二人だけでした。

 次に、子供ではありませんが、生き延びました不思議な日本人夫婦のお話を。

 ニコラエフスクを破壊し、アムグン川上流のケルビ村に逃れてなお、トリャピーツィンたちは虐殺を続けていました。
 日本の救援軍がニコラエフスクに入って20日、6月23日になって、ロシア人二人が日本海軍の部隊に「日本人の夫婦がトリャピーツィンたちの迫害を受けそうだ」と言ってきました。さっそく救出に向かいましたところ、親日家のギリヤーク人に助けられた二人に行き会い、無事保護することができました。

 この二人、埼玉出身の山本粂太郎と島根県出身の日高たつのは、内縁関係だったらしいのですが、ニコラエフスクの西方200キロの山の中に住んでいたんだそうなんです。粂太郎が30、たつのが40くらいの年齢だった、というような記事もありまして、そうだったとすれば、妻の方が十歳年上、ということですよねえ。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたが、ニコラエフスクには、出稼ぎをしている水商売の女性が、100名近くいました。想像のしすぎかもしれませんが、たつのさんは水商売の女性で、粂太郎はたつのさんに惚れて、年季が明けるのを待っていっしょになった、とか。
 しかし、それにいたしましても、シベリアの山の中で二人っきりで暮らしていた、というのが、なんだかすごいですよねえ。

 エラ・リューリのいとこたち、7歳の男の子と5歳の女の子ソフィヤも、ともにアブラハム・リューリ(エラの父メイエルの弟)の子供なんですが、両親と日本人の乳母を失いながらも、祖母に守られて生きのびることができました。

 ニコラエフスクにパルチザンが押しよせましたとき、アブラハムは兵役で白軍に加わっていて、近郊のマリンスコエ村に出かけていて留守でした。
 アブラハムの母アンナと妻エステル、そして二人の子供達だけの家にパルチザンは上がり込み、ついには接収して、一家は裏庭の小屋へ追い出されます。
 金目のものはすべて掠奪され、エステルは身につけていた指輪とブローチまで、その場で奪われました。
 3月9日、ですから日本軍決起より前の話なのですが、エステルは理由もなく逮捕され、監獄で殺されてしまいます。

 ニーナ・レベデワは、殺したエステル・リューリの毛皮のコートを奪い、堂々と公衆の面前に着て出ていたそうでして、私、臆面もないのはニーナの個人的資質なのだとばかり思っておりましたら、何で読んだのだったか、そもそもソヴィエト・ロシアのボルシェビキ政権が、毛皮のコート没収令を出していたんだそうです。毛皮は労働者にこそ必要なものだ、といいますので、片っ端から毛皮のコートを没収し、しかし結局は、役得、というんでしょうか、政権の中枢にいる者が恣意的に自分のものにしたり、気に入った人物に与えたりしていたそうでして、ニーナが特別恥知らずなわけではなく、ボルシェビキ独裁政権下では、あたりまえのことだったんです。

 アブラハムがいつ捕まったのかはわからないのですが、妻のエステルと同じく処刑されます。
 日本軍が決起したときには、二人の子供の日本人の乳母が殺されました。
 アンナ・イリニシュナ・リューリの証言です。

 「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」

 アンナは、知り合いの中国人や朝鮮人などに助けられ、なんとか孫を守って生き延びました。
 6月、日本の救援部隊がニコラエフスクに入った後、エラの父メイエルは、船をチャーターし、日本海軍の許可を得てニコラエフスクに向かい、他の人々とともに、母のアンナと幼い甥、姪を救出しました。
 救出された人々が、日本へ着いたときのことを、エラは70年の後にも鮮明に覚えていて、次のように記しています。
 「人々は、まるでボロきれのようで、皮膚病に苦しんでおり、見ていて悲惨だった」

白系ロシア人と日本文化
沢田 和彦
成文社


 アンナ・リューリとエラの両親の墓は、横浜の外人墓地にあるのだそうです。
 わずか5つで、尼港事件に遭遇し、両親を亡くしましたソフィヤは、メイエル・リューリに引き取られてエラと姉妹のように育ち、沢田和彦氏によりますと、「白系ロシア人と日本文化」の「漁業家リューリ一族」が書かれました時点(2007年ころ)では、東京に健在でおられたとのことです。

 エラは、ソ連崩壊後の1993年、80を超えて、故郷の惨劇の記録であります「ニコラエフスクの破壊」を英訳出版し、2005年、96歳にして、その生涯を閉じました。遺灰はハワイから日本に運ばれ、横浜外人墓地の両親や最初の夫、娘の墓の傍らにまかれました。

 貨幣研究者の齊籐学氏が、生前のエラから許可を得られ、2001年、「ニコラエフスクの破壊」を和訳出版されましたことは、日本におきます尼港事件の研究に、大きな光をもたらしたのではないでしょうか。
 
 このシリーズ、一応、これで終わりたいと思います。
 実は、最近、近藤長次郎の妹さんのご子孫の方にお会いしまして、ちょっとユニオン号事件に帰るつもりでおります。

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