郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

庄屋さんの幕末大奥見物ツアー

2006年02月14日 | 幕末文化
慶応元年(1865)といえば、維新まであと3年の動乱期。この年、近江堅田村から江戸へ、助郷役免除の嘆願に出かけた庄屋さん。ついでに江戸見物もしたのでしょうが、江戸城大奥見物ツアーにも出かけた、といったら、ちょっと驚きませんか?
男子禁制の大奥です。庄屋さんはもちろん男です。
でも、ほんとうなんです。許可を得て見学した庄屋さんの日記が残っているのだそうなんです。

このお話が載っているのは、氏家幹人氏の『江戸の女の底力 大奥随筆』
氏家幹人氏といえば、『武士道とエロス』『小石川御家人物語』で、江戸時代の意外な断面を、確かな資料を駆使しつつ、鮮やかに切り取って驚かせてくださったんですが、今回も期待を裏切りませんでした。
江戸の女たちは、どんな人生を送ったのか?
大奥の女性たちをも含めて、思い込みが覆されるお話が、けっこうあります。

さまざまな女性たちが登場するのですが、一番、印象に残ったのは、幕末、日露外交などに腕をふるった幕臣・川路聖謨の妻、高子です。この夫婦の仲がよかったことは、たしか野口武彦氏のご著書(なんだったか思い出せません)にも、載っていました。
幕臣の娘として生まれた高子さんは、15歳で紀州徳川家の江戸屋敷の奥女中となり、その後、広島浅野家の江戸屋敷でやはり奥女中を務め、三十五歳、当時としては高齢で、川路聖謨の四度目の妻となります。
川路家には、先妻の子供たちがいて、聖謨の養父母、つまり舅、姑もいます。おまけに高子さんは病弱。
しょっちゅう寝付いて、聖謨にいわせれば「立ちはたらきはすくなく」なのですが、聖謨は高子さんを大切に思っていた様子が、日記などにうかがえますし、高子さんはまた、りっぱに一家をきりまわしていたのだ、というのです。
おまけに彼女は教養深く、歴史問題、男女問題など、正面から聖謨に反論します。
面白いのは、女の嫉妬と男の妾に関する論争で、高子さんは堂々と、「周公の心の内疑うべし」と、漢籍の儒教道徳を非難し、男が妾を持つことを否定した、というのです。

川路聖謨の日記には、高子さんの上をいくインテリ女性の話も出てくるのだそうです。その女性は、多数の妾を認める中国の儒教を非難し、中国を淫国と罵ったというのです。さらにその女性は夫に、「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」と、論じたてたのだそうです。

川路聖謨は、戊辰の春、江戸開城を目前にして、自決しました。享年68歳。
冷静沈着にそれを受けとめた高子さんは、そののち16年生きて、世を去りました。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 トラックバックテーマ 文化へ文化


コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 幕末人気コミック『白縫譚』... | トップ | 『源氏物語』は江戸の国民文学 »

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
幕末日記について (郎女)
2006-02-18 17:35:11
活字本で刊行されていれば、幕末の日記はけっこう読みやすいのですが、刊行部数が少なくて、古書では高価になっていることも多く、図書館でコピーでもするしかないのが辛いですし、注釈がしっかりしたものでなければ、出てくる人物や事物がわからなくて、困ったりします。

それでも直接読んでみると、あの当時の人物をごく身近に感じますし、目から鱗、もあったりします。

うちの地方でも、県が編纂した史料に幕末の神官の日記があって、図書館で読んだんですけど、黒船見物など、とてもおもしろく感じました。当時の人々は物見高いんですよね。



氏家幹人氏あんんですが、近世史専攻で、国立公文書館に勤務されていた古文書読みの専門家です。

あと、松山へ来てお城で月見をした旨、詞書きに残しているのは、小林一茶でした。





返信する
追伸への御礼 (みずのように)
2006-02-18 09:49:54
郎女さんいろいろ調べてくれてありがとうございます。

私も検索してみました。



「中仙道十四垣根・東海紀行」は堀田摂津守領分近江国滋賀郡本堅田村年寄を勤めた錦織五兵衛義蔵によって記された日記。錦織五兵衛は、元治2年(1865)に、東海道大津宿にかかる助郷について、村の困窮事情などを理由に免除歎願のために大庄屋、郷士惣代ら四人で江戸出向した。

錦織五兵衛義蔵は渥美格之進(あつみ かくのしん)のような生真面目で日誌を欠かさない性格であったらしいく、「東武日記」「歳番日記」なども残されているという。ちなみに、渥美格之進は水戸黄門の「格さん」である。



 日記から「読み解き」できたら楽しいでしょうね。
返信する
追伸 (郎女)
2006-02-15 21:52:09
錦織五兵衛の『東武日記』ですが、検索してみました。

『日本都市生活史料』(三一書房・1978年発行)、第2巻 三都篇(2)におさめられていまして、p686~p724だそうです。
返信する
みずのように様 (郎女)
2006-02-15 13:58:58
ようこそ。コメントありがとうございます。

氏家幹人氏は、作家ではありません。現在は存じませんが、以前はどこかの学芸員をなさっていたはず。



公表されている庄屋・錦織五兵衛の『東武日記』からの記述なのですが、読み解き方の問題でしょう。

当時の江戸城には、火事で焼けたまま本丸がありません。したがって、大奥も本丸ではなかったわけです。

錦織五兵衛さんは、新築なった西丸と二丸の見物に訪れていますが、「七つ口」から奥へ入った記述があるのだそうです。「七つ口」とは、外部から大奥へ入る、男子禁制の出入り口です。



大奥老女へ、「小釜一つ差し出し」とあるそうですから、なんらかの賄賂だったのか、とは推測されますが、大奥老女の許可を得て、のものであったことは確かです。

日記の解題を書かれた熊倉氏は、「見物がシステム化されているふしも見え」と推測されているそうですが、「七つ口」から奥へ入ったことの意味に、気づいてはおられなかったのではないでしょうか。

私が直接日記を読んだわけではなく、これは氏家幹人氏の読み解きです。



私は、幕末だからというよりも、新築にともなった慣例で、こういうこともあったのかな、と、愚考いたしました。



小寺武久氏の『尾張藩江戸下屋敷の謎』でも、評判の大名庭園を、町人が見物していたらしい記録があるそうですし、私の住む松山でも、とっさに思い出せませんが、有名な俳人が訪れ、お城で月見をしたような記録があったか、と思います。
返信する
庄屋の「江戸城大奥見物ツアー」 (みずのように)
2006-02-15 08:57:29
堅田の歴史にも1865年(元治2年・慶応元年)本堅田村が助郷免除を江戸表へ嘆願という記録がありますが「庄屋さんの江戸城大奥見物ツアー」は公表されていません。

日記を覗いた作家が庄屋さんの許可を得ず、公表したのかな?



1865年は2月28日(旧1月2日)に「長州で高杉晋作らが挙兵し下関を占領」といった事件があったいわゆる「幕末」だから、幕府の財政も厳しく「江戸城大奥見物ツアー」などで、かせいでいたのかな?
返信する

コメントを投稿

幕末文化」カテゴリの最新記事