郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

イギリスVSフランス 薩長兵制論争5

2009年11月08日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争4の続きです。実は前回も使ったのですが、以下の2冊が主な参考書です。

イギリス国民の誕生
リンダ・コリー
名古屋大学出版会

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ウェリントンの将軍たち―ナポレオン戦争の覇者 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)
マイケル バーソープ,リチャード フック
新紀元社

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 第2次百年戦争と呼ばれる18世紀の百年間、イギリスはフランスとシーソーゲームをなしつつ、世界帝国を築き上げていきました。前回にも書きましたように、それは、主には海軍力によるものでして、植民地における英仏対戦にまで言及していく必要があるのですが、それは置いておきます。

 七年戦争(wiki七年戦争参照)で勝利したイギリスは、アメリカ独立戦争で敗北を喫し、支配者層は未曾有の危機感を持ちます。とはいうものの、これまでの戦争において、一度たりともイギリスは、本国が戦場になったことはありませんでしたし、大海軍を擁した島国であったがため、本格的な敵軍上陸の危機にさらされたこともありませんでした。
 また、アメリカ独立戦争にしましても、独立側に心をよせるイギリス貴族もありましたし、挙国一致というにはほど遠く、もともと、王の専制は議会によって押さえられ、貴族層と商工業者(ブルジョワジー)とに境目が無く、18世紀の半ばからは産業革命が起こって、他国を凌駕する商工業の発展をみていましたので、エリート層の自己改革もうまく軌道に乗ろうとしておりました。

 皮肉なことに、危機が訪れたのは、勝利したフランスの側でした。これについては、wiki-アメリカ独立戦争におけるフランスが、的確に解説してくれております。フランスの国家財政が苦しくなりましたのは、別にマリー・アントワネットの浪費によるものではありませんで、アメリカ独立戦争への介入によるものです。

 フランス大革命のイギリスにおける衝撃は、勃発の一年後、庶民院(下院)におけるエドマンド・バークの演説が象徴してくれています。以下、「イギリス国民の誕生」からの引用です。

「……富裕なジェントルマンの家系に生まれ、報酬や所領の維持を狙っていると疑われるだけで、彼ら自身には何の責任もないのに、大邸宅が破戒、略奪され、身体は乱暴され、傷つけられてしまう。奪われた権利証書は、彼らの目の前で焼却されるし、ヨーロッパ中の国々に、家族を引き連れて逃亡しなくてはならない状態を想像してみたまえ」

 えーと、ですね。ずいぶん以前に「江戸は極楽である」において、水谷三公氏の「江戸は夢か」 (ちくま学芸文庫)をご紹介しました。19世紀欧米において、「財産権は個人の権利であり、貴族だからといってその例外ではなく、それを侵害するのは政府の暴挙」であった、という話なのですが、水谷氏はイギリスの研究所におられた方ですし、もともとはイギリス近代史がご専門だったようです。わけてもイギリスにおいては、そうだったのではないでしょうか。
 財産権の侵害は、暴虐以外のなにものでもなく、「自由を抑圧する独裁」というわけです。
 20世紀にいたっても、イギリスのフランス革命に対する大衆的イメージが、「恐怖政治」であったことは、「紅はこべ」 (創元推理文庫 507-1)が語ってくれます。

 1789年、バスティーユ襲撃の時点で、イギリスの正規陸軍は4万でした。これが、ナポレオン戦争が終結する1814年までに、25万に膨れあがります。
 フランス革命からナポレオン戦争にかけて、ちょうど産業革命が軌道に乗った時期でもあり、絶対王政時の軍事革命に次ぐ、軍事革命の時代といわれ、国民国家誕生の産床となりますと同時に、それまでとは隔絶した規模で、国民全体をまきこむ戦闘が行われるようにもなったわけです。

 この正規軍のふくらませ方の一つとしまして、上記「ウェリントンの将軍たち―ナポレオン戦争の覇者 」から、私的義勇軍、というんでしょうか、最初から正規軍部隊をめざして、のようでもあるのですが、貴族や大地主が借地人を募集して、歩兵連隊を編制し、そのまま正規軍となる話が散見されます。

 まずはアクスブリッジ伯ヘンリー・パジェットの場合。彼は伯爵家の長男で、革命までの本人の軍務経験は、父親が指揮するスタッフォードシャー州民兵軍の将校を務めたことがあるだけでした。1793年、ルイ16世が処刑されるにいたり、イギリスは危機感を持って第一次対仏大同盟を主催し、対仏戦争に突入します。同時にヘンリーは、父伯爵の借地人から志願者を集め、第80歩兵連隊を作って、一時的に陸軍中佐になった、というのです。そのまま彼はフランダースの戦場に赴き、旅団を指揮するまでになりましたが、歩兵ではなく騎兵隊を指揮したい、ということで、父親に働きかけてもらい、軽竜奇兵の中佐の地位を得て、大活躍をします。
 
 もう一人、トーマス・グレアム。どうもこの人、英国では相当に有名な人物のようです。この時代を舞台にしたイギリスのテレビドラマ「炎の英雄 シャープ」 DVD-BOX 1に出てくるようなんですが、見たいと思いつつ、私、まだ見ていません。
 ともかく、トーマスは、パースシャーのバルゴワンの大地主の三男として生まれました。オックスフォードで学んだ後、キャスカート卿の娘・メアリーと結婚し、パースシャーの領地を購入して、農業経営に専念しました。夫人が病弱であったため、海外で暮らすことも多く、1792年、南仏滞在中に、ついに夫人は病没します。ゲインズバラの肖像画が残っていますが、この夫人が美女でした。

 

 遺体を故国へ運ぶ途中、フランス革命軍の役人が、密輸品を探す目的で夫人の棺を開けたんだそうです。これに憤慨したグレアムは、とりあえず単身イギリス正規軍に志願して将校となり、軍務を経験した上で、故郷バースシャーに帰り、私財を投じて、第90歩兵連隊を編制します。
 えーと私、パースシャーのバルゴワンってどこぞや? と調べてみたんですが、スコットランドの高地地方でした。勇猛でならしたハイランダーの土地、です。古くから傭兵を産出し、近代ではイギリス陸軍の精鋭部隊を生み出した地方ですから、グレアムの歩兵連隊は、当然、強かったことでしょう。

 で、正規軍はもっぱら外地に赴いたわけでして、国土防衛軍なのですが、前回書きましたように、各州民兵軍は常に兵員不足で、平時には3万2千の定員をも満たしていませんでした。それには、人数の割り当てが実情にあっていなかったこともあったようです。急激な産業化で、兵役が勤まる若い男性は、都市集中していたにもかかわらず、都市よりも農村への割り当てが多かったそうでして、おそらくは、ヘンリー・パジェットやトーマス・グレアムのような、貴族やジェントリを主な指導者に想定していたがためなのでしょう。
 最初の5年間、といいますから、イタリア戦役にナポレオンが登場するまで、ですが、イギリス当局は民兵隊の兵卒不足に、積極的な手を打ちませんでした。1796年になって、ようやく民兵補充法ができ、最終的には、百万にまでふくらんだのだそうです。

 「イギリス国民の誕生」によれば、当局は当初、民兵隊の拡大に腐心するよりも、ジェントリによる私設義勇軍を奨励し、それは主に、「当局が自国の武装した民衆(兵卒となる人々)を恐れ、国内の無秩序を防ぐための護衛軍を求めたため」だったのだそうです。
 しかし、どうなんでしょうか。確かに、支配者層の自国民(下層の、ですが)への信頼が足りなかったことは事実なのかもしれませんが、私設義勇軍は私費で賄われるわけでして、正規陸軍だけではなく海軍も膨らみ、戦費がいくらあっても足りない状況において、当局が金のかからない防衛軍を望んだ、ということは、言えると思います。それに、著者も後に述べていますが、貴族やジェントリが指導者となって、あるいは地域の仲間が集まって、結成する義勇軍は、州民兵隊とちがって正規軍のきびしい軍法に従う必要がなく、自己運営される気楽さがありますし、州民兵隊よりも広範に人集めができる、ということが大きかったのではないでしょうか。

 最初のうち、まだまだ、イギリス本土にまで災いがおよぶ実感がない間は、義勇軍を結成するのは裕福な人々がほとんどで、きらびやかで、非実用的な制服を作って着込み、肖像画を描かせる、といったお遊び感覚も目立ったそうです。
 しかし、1797年、ナポレオン軍は欧州大陸を席巻し、第一次対仏大同盟は崩壊して、イギリスは孤立します。以降、紆余曲折はありますが、1802年から一年間和平が成り立った期間をのぞいて、イギリスは戦い続け、1805年には、ナポレオンが18万の兵をドーバー海峡に面した地に集め、イギリス上陸をもくろむ、という危機もありました。
 トラファルガーの海戦の勝利で、一応、フランス陸軍に上陸されるという未曾有の危機は遠ざかりましたが、1806年、ナポレオンは大陸封鎖令によって、イギリスと大陸諸国との交易を禁じる手段に出ます。

 こういった切迫した母国の危機によって、イギリス当局が当初は軽視していた下層の職人や労働者たちまで、愛国心をめざめさせることとなり、「イギリスの自由を守る」義勇軍の兵数も50万にまで膨れあがりました。以下、「イギリス国民の誕生」から、イングランド北部のカンバーランド、ウェストモーランドで2万人近くが署名した宣誓書の文言です。

「われわれは、君主専制をこのうえなく嫌悪する。共和専制をそれ以上に嫌悪する……、われわれが生きているうちは、いかなる類いの専制政府にも屈するつもりはない」

 「市民」とはいうものの、「持てる者」のスローガンだったイギリス伝統の専制政治への嫌悪、自由の尊重は、ナポレオン戦争を通じて、持たざる庶民層にも、浸透していくことになったのです。

 えーと、フランスとの比較まで、今回たどりつけませんで、次回に続きます。


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