なんといいますか、久しぶりに仕事をすることになりまして、ごく一般向け(例えば幕末維新といえば龍馬と新撰組くらいしか知らない、というのが「ごく一般」の想定です)の文章を書くのってこんなにうっとうしいことだったんだなあ、と、悪戦苦闘しておりました。なにがうっとうしいって……、ちょっと仕事から離れておりました期間に、「ごく一般の人」の感覚が、つかみ辛くなってしまっていたんです。
で、伝説の金日成将軍と故国山川 vol4の続きなんですが、シベリア出兵について、少々文献不足(といいますか、私、ロシア語が読めません。韓国語のように、機械翻訳にかけてなんとかなるものでもなさげですし)も手伝いまして、考えがまとまりきらず、めんどうになってwiki金擎天を、先に書いてしまったような次第です。えー、韓国で建国勲章を追敍され、はっきり経歴がわかっている人物であるにもかかわらず、日本語のHPでは、まるで正体不明のような話しか載っていませんでしたので、つい、ブログに書くよりwikiに書いた方がよさげな気がしまして。
そして、書きかけのシリーズを多数放り出し、ちょっと今回は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争の続きです。
えーと、ですね。これ、もともと続編を書く予定ではあったのです。といいますのも、薩摩がフランス兵制を採用することで話が落ちついたか、といえば、どうにもそうは思えなかったから、なのですけれども。
といいますのも、国家予算がろくになかった当時、フランス兵制をとって徴兵制をしくことになれば、陸軍に莫大な費用がかかり、海軍にはろくろく予算がまわらない、ということになるしかないから、なんです。
参考書が出てきませんで、不正確なんですけれども、ともかく、明治4、5年ころの話なのですが、海軍は陸軍の10分の1に予算を抑えられ、幕府はおろか、海軍熱心だった佐賀や薩摩一藩にもおよばない艦艇の状況が、確か明治10年近くまで続くんです。これはイギリスに習って海軍力を重視する薩摩にとって、なんのための維新だったのか? という状況ではないでしょうか。
あるいはこのことは、明治6年政変から西南戦争へと、尾を引く問題であったのではないか、という、もやもやとした推測、といいますか憶測を、私はずっともっておりまして、折に触れ、ころころと転がしてはいたんです。
まずは、「元帥西郷従道伝」から、です。
モンブラン伯爵のいるフランスへ、兵制視察に行っていました山縣有朋と西郷従道が帰国し、明治3年10月2日、新政府陸軍はフランス式となることが、公式発表されます。「同時に薩摩もフランス式に転換した」とされているんですが、私は、それほどすっきり転換されたものなのかどうか、ちょっと疑っているんです。これは後述しますが、軍制度がフランス式かイギリス式かということは、国家デザインそのものに、大きくかかわってくる問題であったからです。維新の時点においては、おそらく、憲法よりも、です。
薩摩藩兵は、9月に引き上げたままです。新政府と薩摩藩とのつなぎ役となっていた小松帯刀は、その直前の7月に病没しています。長州閥を中心とします生まれたばかりの新政府にとって、これは不気味なことでした。西郷隆盛と藩主・島津忠義の上京を促す勅使派遣の下準備ために、10月12日に、西郷従道が薩摩へ向かいます。10月22日、従道は東京にいる大久保、吉井に手紙を書いています。えー、私、原本を見ていませんで、「元帥西郷従道伝」からの孫引きになります。
「最早愚兄にも相見え篤(とく)と朝廷の実情を詳らかに申し述べ、就て当今御両公(久光・忠義)之御趣旨、かつ鹿府の動静、素より次来目的如何と慨嘆議論、真密に尽し候ところ」 、隆盛は、「落涙に相及候次第に御座候」 でした。
これがどういう状況を示すことなのか、具体的なことが書かれてない以上、憶測にしかならないのですが、従来「守旧的な久光が下級藩士が中枢にいる新政府を嫌っていて」というような解釈がなされてきたように思います。
しかし久光は、この時点で守旧的だったのでしょうか。
薩摩スチューデント、路傍に死すで述べましたが、久光は、イギリス密航留学を拒む門閥の子弟を、自ら説得しているんです。
そして実際に薩摩藩は、紡績機の導入など、さまざまな一藩近代化策を講じようとしていましたし、「イギリスを見習った近代化」は、久光も賛同した藩を挙げての事業でした。
その薩摩藩、わけても久光が思い描いた新しい日本とは、いったいどういうものだったのか。
まずは幕末の現状認識なのですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!?に書いておりますように、モンブラン伯爵が地理学会で発表し、アーネスト・サトウが「英国策論」で書きました『日本は天皇をいただく諸侯連合国』でした。
まあ、欧州で例えるならば、ドイツ連邦のような状態です。で、目標としていた「帝を中心とする新しい日本」なのですが、モデルをフランスにするのかイギリスにするのかでは、中央集権化の度合いが、大きくちがってきまして、軍制は、それに密接にかかわってくるんです。
久光が思い描いていたのは、地方分権的なイギリス型であり、薩摩藩全体においても、そうだった、と言えるのではないでしょうか。その傍証とするには、ちょっと弱いかもしれないのですが、fhさまのところの備忘 伊地知正治、「大久保宛伊地知正治書簡」の「農兵・屯田兵的な形での開墾と、それを「西洋流行之農器」の使用と結びつけて実効を挙げようという考え方」は、その気分を伝えてくれているのではないでしょうか。
そして後半、薩摩留学生たちが見学した「ハワード兄弟が クラッパム公園邸(荘園)を買い取り、近代的に運営されていた農園」なんですが、兄弟は自分の雇用者たちを組織して歩兵隊を作っていたということで、当時のイギリスの義勇軍(ミリシア)のあり方も、見えてきます。余談になりますが、fhさまにお送りいただいて、この論文を読んでみましたところ、クラッパム公園邸をハワード兄弟に売ったのは、バーティ・ミッドフォードの母親の実家、アッシュバーナム伯爵家(リーズデイル卿とジャパニズム vol6恋の波紋参照)でした。
ということをふまえて憶測すれば、です。
大久保を中心とする、新政府中枢の元下級藩士たちにとっては、です。自分たちの権威は、新政府こそが保障してくれているのであり、いくら長州閥と基本的な方針がちがっても、手切れをするわけにはいかないのです。となれば、妥協点を見出しつつ、自分たちの構想をも実現していく必要があり、部分的にでも、薩摩藩が思い描いたイギリス流近代化が実現するならば、久光も納得するだろう、ということだったのではないでしょうか。そのうち、どうしても実現しなければならない最大の課題は、斉彬以来、薩摩藩が力をそそいできた近代海軍の整備です。
つまり、従道の説得の大筋とは、「新しい日本のデザインについては、長州閥には長州閥の考え方があり、薩摩が妥協点を見出さなければ、困るのは朝廷である」ということに尽きたのではないかと、私は憶測しています。
明治3年12月18日、勅使・岩倉具視、参議・大久保は、陸軍の山県有朋、海軍の川村純義を伴って、薩摩に到着します。これも孫引きですが、「明治天皇紀」によれば、岩倉は次のように述べたというのです。
「具視さらに正旨を敷演して曰く、維新以来天下の形勢容易ならざるものあり、日夜宸襟を悩ましたまう。さきに薩長二藩は同心戮力、もって大政復古に尽す。これすなわち両藩報国至誠の致す所、実に皇室の羽翼、国家の柱石といふべし。前途ますます多事ならんとするに当り、聖慮切に久光をして隆盛を伴いて東上せしめ、万機を補佐せしめんことを望みたまふ」
つまり岩倉は、「いまの新政府を作ったのは薩長両藩で、両藩協力して朝廷をささえるべきなのに、片方が欠けている現況に帝はお悩みだから、久光さん、西郷さん、上京してね」といっているわけでして、私の憶測も、それほどはずれたものでは、ないと思います。
で、松下 芳男の「徴兵令制定史 」によれば、なのですが、薩摩へ来た山県有朋を、従道はなじります。なぜなじったかというと、「山県は従道に相談することなくして、兵士の教育、調練、その他兵器の製造等に着手して、兵部省の定額30万石をこれに充用してしまった」からなんです。当時、陸海ともに兵部省で、予算は一本化されていましたから、海軍には一銭もまわさずに、山県が使ってしまったわけだったようなのです。
薩摩藩は、すでに手持ちの艦船を、政府に寄贈しています。最新式のオランダ製軍艦を所有していた佐賀藩もそうです。これでは、それらの艦船の整備でさえ、できません。このあげくに、山城屋和助事件が起こったのですから、薩摩閥の長州閥への不満は、尋常ではなかったのです。
で、次回なんですが、手探りながら、イギリスとフランスの軍制のちがいについて、もう少しつっこんでみるつもりでいます。
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で、伝説の金日成将軍と故国山川 vol4の続きなんですが、シベリア出兵について、少々文献不足(といいますか、私、ロシア語が読めません。韓国語のように、機械翻訳にかけてなんとかなるものでもなさげですし)も手伝いまして、考えがまとまりきらず、めんどうになってwiki金擎天を、先に書いてしまったような次第です。えー、韓国で建国勲章を追敍され、はっきり経歴がわかっている人物であるにもかかわらず、日本語のHPでは、まるで正体不明のような話しか載っていませんでしたので、つい、ブログに書くよりwikiに書いた方がよさげな気がしまして。
そして、書きかけのシリーズを多数放り出し、ちょっと今回は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争の続きです。
えーと、ですね。これ、もともと続編を書く予定ではあったのです。といいますのも、薩摩がフランス兵制を採用することで話が落ちついたか、といえば、どうにもそうは思えなかったから、なのですけれども。
といいますのも、国家予算がろくになかった当時、フランス兵制をとって徴兵制をしくことになれば、陸軍に莫大な費用がかかり、海軍にはろくろく予算がまわらない、ということになるしかないから、なんです。
参考書が出てきませんで、不正確なんですけれども、ともかく、明治4、5年ころの話なのですが、海軍は陸軍の10分の1に予算を抑えられ、幕府はおろか、海軍熱心だった佐賀や薩摩一藩にもおよばない艦艇の状況が、確か明治10年近くまで続くんです。これはイギリスに習って海軍力を重視する薩摩にとって、なんのための維新だったのか? という状況ではないでしょうか。
あるいはこのことは、明治6年政変から西南戦争へと、尾を引く問題であったのではないか、という、もやもやとした推測、といいますか憶測を、私はずっともっておりまして、折に触れ、ころころと転がしてはいたんです。
まずは、「元帥西郷従道伝」から、です。
モンブラン伯爵のいるフランスへ、兵制視察に行っていました山縣有朋と西郷従道が帰国し、明治3年10月2日、新政府陸軍はフランス式となることが、公式発表されます。「同時に薩摩もフランス式に転換した」とされているんですが、私は、それほどすっきり転換されたものなのかどうか、ちょっと疑っているんです。これは後述しますが、軍制度がフランス式かイギリス式かということは、国家デザインそのものに、大きくかかわってくる問題であったからです。維新の時点においては、おそらく、憲法よりも、です。
薩摩藩兵は、9月に引き上げたままです。新政府と薩摩藩とのつなぎ役となっていた小松帯刀は、その直前の7月に病没しています。長州閥を中心とします生まれたばかりの新政府にとって、これは不気味なことでした。西郷隆盛と藩主・島津忠義の上京を促す勅使派遣の下準備ために、10月12日に、西郷従道が薩摩へ向かいます。10月22日、従道は東京にいる大久保、吉井に手紙を書いています。えー、私、原本を見ていませんで、「元帥西郷従道伝」からの孫引きになります。
「最早愚兄にも相見え篤(とく)と朝廷の実情を詳らかに申し述べ、就て当今御両公(久光・忠義)之御趣旨、かつ鹿府の動静、素より次来目的如何と慨嘆議論、真密に尽し候ところ」 、隆盛は、「落涙に相及候次第に御座候」 でした。
これがどういう状況を示すことなのか、具体的なことが書かれてない以上、憶測にしかならないのですが、従来「守旧的な久光が下級藩士が中枢にいる新政府を嫌っていて」というような解釈がなされてきたように思います。
しかし久光は、この時点で守旧的だったのでしょうか。
薩摩スチューデント、路傍に死すで述べましたが、久光は、イギリス密航留学を拒む門閥の子弟を、自ら説得しているんです。
そして実際に薩摩藩は、紡績機の導入など、さまざまな一藩近代化策を講じようとしていましたし、「イギリスを見習った近代化」は、久光も賛同した藩を挙げての事業でした。
その薩摩藩、わけても久光が思い描いた新しい日本とは、いったいどういうものだったのか。
まずは幕末の現状認識なのですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!?に書いておりますように、モンブラン伯爵が地理学会で発表し、アーネスト・サトウが「英国策論」で書きました『日本は天皇をいただく諸侯連合国』でした。
まあ、欧州で例えるならば、ドイツ連邦のような状態です。で、目標としていた「帝を中心とする新しい日本」なのですが、モデルをフランスにするのかイギリスにするのかでは、中央集権化の度合いが、大きくちがってきまして、軍制は、それに密接にかかわってくるんです。
久光が思い描いていたのは、地方分権的なイギリス型であり、薩摩藩全体においても、そうだった、と言えるのではないでしょうか。その傍証とするには、ちょっと弱いかもしれないのですが、fhさまのところの備忘 伊地知正治、「大久保宛伊地知正治書簡」の「農兵・屯田兵的な形での開墾と、それを「西洋流行之農器」の使用と結びつけて実効を挙げようという考え方」は、その気分を伝えてくれているのではないでしょうか。
そして後半、薩摩留学生たちが見学した「ハワード兄弟が クラッパム公園邸(荘園)を買い取り、近代的に運営されていた農園」なんですが、兄弟は自分の雇用者たちを組織して歩兵隊を作っていたということで、当時のイギリスの義勇軍(ミリシア)のあり方も、見えてきます。余談になりますが、fhさまにお送りいただいて、この論文を読んでみましたところ、クラッパム公園邸をハワード兄弟に売ったのは、バーティ・ミッドフォードの母親の実家、アッシュバーナム伯爵家(リーズデイル卿とジャパニズム vol6恋の波紋参照)でした。
ということをふまえて憶測すれば、です。
大久保を中心とする、新政府中枢の元下級藩士たちにとっては、です。自分たちの権威は、新政府こそが保障してくれているのであり、いくら長州閥と基本的な方針がちがっても、手切れをするわけにはいかないのです。となれば、妥協点を見出しつつ、自分たちの構想をも実現していく必要があり、部分的にでも、薩摩藩が思い描いたイギリス流近代化が実現するならば、久光も納得するだろう、ということだったのではないでしょうか。そのうち、どうしても実現しなければならない最大の課題は、斉彬以来、薩摩藩が力をそそいできた近代海軍の整備です。
つまり、従道の説得の大筋とは、「新しい日本のデザインについては、長州閥には長州閥の考え方があり、薩摩が妥協点を見出さなければ、困るのは朝廷である」ということに尽きたのではないかと、私は憶測しています。
明治3年12月18日、勅使・岩倉具視、参議・大久保は、陸軍の山県有朋、海軍の川村純義を伴って、薩摩に到着します。これも孫引きですが、「明治天皇紀」によれば、岩倉は次のように述べたというのです。
「具視さらに正旨を敷演して曰く、維新以来天下の形勢容易ならざるものあり、日夜宸襟を悩ましたまう。さきに薩長二藩は同心戮力、もって大政復古に尽す。これすなわち両藩報国至誠の致す所、実に皇室の羽翼、国家の柱石といふべし。前途ますます多事ならんとするに当り、聖慮切に久光をして隆盛を伴いて東上せしめ、万機を補佐せしめんことを望みたまふ」
つまり岩倉は、「いまの新政府を作ったのは薩長両藩で、両藩協力して朝廷をささえるべきなのに、片方が欠けている現況に帝はお悩みだから、久光さん、西郷さん、上京してね」といっているわけでして、私の憶測も、それほどはずれたものでは、ないと思います。
で、松下 芳男の「徴兵令制定史 」によれば、なのですが、薩摩へ来た山県有朋を、従道はなじります。なぜなじったかというと、「山県は従道に相談することなくして、兵士の教育、調練、その他兵器の製造等に着手して、兵部省の定額30万石をこれに充用してしまった」からなんです。当時、陸海ともに兵部省で、予算は一本化されていましたから、海軍には一銭もまわさずに、山県が使ってしまったわけだったようなのです。
薩摩藩は、すでに手持ちの艦船を、政府に寄贈しています。最新式のオランダ製軍艦を所有していた佐賀藩もそうです。これでは、それらの艦船の整備でさえ、できません。このあげくに、山城屋和助事件が起こったのですから、薩摩閥の長州閥への不満は、尋常ではなかったのです。
で、次回なんですが、手探りながら、イギリスとフランスの軍制のちがいについて、もう少しつっこんでみるつもりでいます。
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遅ればせながらリンク欄に掲示していただいていることに感謝いたします。私の方はリンク欄設定していなくて、申し訳ありません。
ついでに、なにか私の書いていることに文句をいっていただきますと、私、燃えるんですのに(笑) 実は、とってもバトル好きです。
まあ、アレです。持論を主張しあっておりますうちに、「あれ?」というような新しい発見があったりもしまして、なかなか有意義なこともございます。
で、私の方から、なんですが、赤松小三郎は、なぜさっさと田舎(自藩)に引っ込まなかったのでしょうか? 私は鏡川さまとは反対で、田舎に引っ込まないであれこれ画策していたから斬られたのだと思っております。ただ、その画策の内容が、いま一つわからないで、あれこれ転がしているのですが、どうもこの「イギリスVSフランス 薩長兵制論争」と関係しないでもないような気が、最近いたしております。慶応3年8月(旧暦)には、モンブラン伯爵が来日することがわかり、薩摩藩では大騒動が持ち上がっています。モンブランがフランス兵制を押しつけようとしていることが、はっきりしたから、です。赤松は英語ができますわ。イカロス号事件でゆれている英国公使館のだれかに、このことを告げようとしたんじゃないんでしょうか。赤松がだれに、このことを聞いたかといいますと……、そうですね。町田にいさん(久成)かと(笑)。だって、本場英国に滞在していたんですわよ。その人物が目の前にいれば、赤松としては、近づきたくもなりますわよねえ。しかし、育ちのいい坊ちゃんをたぶらかしてはいけませんわよ。……って、すみません。妄想ですが。
まあ、もしこんなことが起こっていれば、薩摩から見ればりっぱにスパイですわ。
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/shiryou/komonzyo01_02.html
赤松の件は、さっさと田舎に帰らなかったのは単純に教練がまだ終わっていなかったからと思っていましたが。柴田剛中とは面白いところに目をつけられました。
もう少し勉強しなおしてから、コメントさせてください。
で、ジェラールド・ケンの足取りなんですが、五代がどうも連れて帰ったようでして、ケンは薩摩藩開成所の教師(おそらくフランス語)になり、パリ万博があるので再びパリへ。モンブランとともに(ということは岩下方平とともに)、慶応3年の9月に長崎へ着くんですが、時の長崎奉行がなんと、河津祐邦。池田長発とともに横浜鎖港交渉にパリへ行っていた人で、ケンともモンブランとも知り合いです。それで、尾佐竹博士によれば、河津祐邦がモンブランを「幕府側につかないか」と誘った、というんですわ。で、薩摩側は、幕府側の制止も聞かないで(厳密に言えば、薩摩に外国人は入れないことになっています。すでに、紡績工場でイギリス人が働いていたようですが)モンブランを薩摩に連れ帰ったわけですが、それから、ケンの消息が絶えます。「船から海へ突き落とされて殺された」という伝承からすれば、殺されたのはこのときのことであたのではないか、と、私は憶測しています。ケンが河津祐邦に、モンブランが来日した事情などをしゃべった可能性は高く、またあるいは、ジャーデン・マセソンの関係者とか、イギリス領事館員とか、ともかくしゃべってもらっては困る相手は多かったわけでして、時期が時期ですし、「生かしておいてはまずい」となったのではないかと。赤松も似たケースではなかったかと、思うんです。
赤松の調練、とおっしゃいますが、町田にいさんはイギリスで、海軍と民兵隊の演習に参加したりもしているわけでして、むしろ、赤松が教わることの方が多かったでしょう。
ケンこと白川健次郎はたしかに幕府のスパイ容疑で暗殺されたという説がありますね。もっとも私などは彼の主人のモンブラン自身、幕府と薩摩の二股をかけた人物と思っているのですが。それはさておき埼玉出身の斎藤健次郎なる青年がケンあるいは白川(白山とすればよかったのに)健次郎となる過程には、別の興味がわきますね。
「幕府と薩摩と二股」につきましては、かけようがないです。ロッシュ公使が企てましたソシエテ・ジェネラールを中心とする独占交易に反対していた限りにおいては。最近、福沢諭吉の「痩我慢の説」を読み返す機会がありまして、それに対する徳富蘇峰の反論に、石河幹明が福沢からの聞き書きで再反論しているわけなのですが、これを果たして昔自分が読んでいたものなのかどうか、うかつにも思い出せません。読んでいたとすれば、潜在意識に残っていたのでしょう。ともかく、外交文書を訳していた福沢が、かなり正確に、この生糸独占交易についてつかんでいたことに仰天しました。もっとも福沢は「成功しなかった」としているんですが、彼は押し詰まった時点で渡米して、外交文書から離れておりますから。こっちは、そのうち書く予定でいるのですが。
2,明治22年4月、横浜のモンブランを訪ねた五代は、モンブランの侍女から、かってパリでモンブランが薩摩と幕府の二股かけて武器購入の商売をすすめていた、と打ち明けられたと、『五代友厚秘史』(五代友厚75周年追悼記念刊行会)に書かれているようです。(ようですというのは孫引きですから)私が「二股」というのは、このあたりの事情のことです。
『五代友厚秘史』は持っているのですが、本の山に埋もれて出てまいりません。日記を読むために、全集より安かったので買ったのですが、日記以外には確かな資料はなかったような記憶が。モンブランの侍女って……、フランスお政のことですか? だとすれば、中里機庵の『幕末開港 綿羊娘情史』の引き写しみたいだったので、読まなかった、と思います。いずれにせよ、横浜鎖港使節団には取り入っていますので、それを二股といえば、いえないこともないですわね。柴田さんのときでも、横浜製鉄所建設話で、ベルニーにかわって赤松が指揮をとれば、モンブランが食い込める余地もあったんでしょう。しかし、どちらにせよ失敗していますわね。商売しているんですから、二股といいましても。自由貿易って、そういうものですわ。
イギリスなんか、クリミア戦争の時に、ロシアの戦争資金調達をロンドン金融市場でさせていましたし、薩英戦争直前にも、イギリス商人が薩摩に武器を売りまくって、あんまり気前よく薩摩が買ってくれるので、その商人は忠義公に金時計をプレゼントしていますわ。アームストロング砲まで売る予定だったのを、さすがに、あわてて本国政府が輸出をさしとめたんですけど。