郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」

2015年07月29日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆29回「女たちの園」の続きです。

花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 もう、ですね。普通に見てて、あまりにつまらなすぎて集中できず、内容が頭の中に入ってきません。
 今回、ありえへん奥の行事で、おはぎと羊羹を作って食べさせて、銀姫さまが妊娠しておめでとうございます! で終わりという印象しかないのですが。
 園山役の銀粉蝶さんとか、椋梨藤太役の内藤剛志さんとか、いつも口元に皮肉な笑みを浮かべていて、これ、絶対、馬鹿馬鹿しいシナリオにもほどがある、との思いを抑えきれず、お笑い気分で演じてるんだよねえなんぞと、つい、感じてしまいます。

 とはいいますものの、です。
 前回のコメント欄でのkiiさまのご指摘があり、子細に検討してみましたところ、この不条理RPG、時系列がもう無茶苦茶で、不条理にみがきがかかっていた!ことがわかり、今回も楽しく勉強しましたので、みなさまもどうぞ、おつきあいくださいませね。

 
幕末維新の政治と天皇
高橋 秀直
吉川弘文館


 今回も高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」を主な参考書に書かせていただきます。

 前回、書き忘れたのですが、不気味な乃木坂46十福神登場の前に、西郷隆盛が出てきました。
 「幕府軍は総勢15万の兵で長州を取り囲み、総攻撃の機をうかがっていた」とか、ナレーションが入り、西郷隆盛が登場して、「幕府の長州征討の参謀であった西郷吉之助との話し合いが岩国で行われた」 ということだったんですが、史実ではこれは、元治元年(1864)11月4日のことです。

 しかも前回のこの場面で、西郷隆盛は幕府軍が攻撃をやめる条件として、「三家老の首+騒乱を煽った高杉晋作、桂小五郎などの処分を早急にしろ」と言っているのですが、これは大嘘です。
 史実として、このとき西郷が求めましたのは攻撃予定は18日なので、三家老と四参謀をはやく処分しろということで、高杉も桂も、まったく名を出していません。

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆28回「泣かない女」で書いたのですが、「正義党」の家老・清水清太郎と周布政之助が、すでにこの3ヶ月も前に、「三家老+四参謀の処分をする用意がある」と、周旋役の岩国藩主に伝えに行っていまして、当然、岩国藩主は長州征討軍総督側に、それを提示していたんですね。
 つまり西郷は、長州「正義党」でも呑めると提示されていた条件を出しただけでして、実は、戦いたくない気満々でした。
 幕府に使われる形で、薩摩が長州を攻めて、得することはなにもありませんから。

 なにしろ「正義党」のときから覚悟していたことですから、「俗論党」の長州藩庁は、11月12日、13日、ただちに三家老切腹、四参謀処刑を実行しまして、征討軍総督に知らせ、14日、総督は侵攻猶予を命じます。
 で、19日、総督が出しました征討軍解兵の条件は、藩主父子の書面での謝罪、山口政庁の破却、三条実美以下五卿の差し出しの三つで、一番もめましたのが五卿の差し出しですが、それ以外、きびしい条件ではないですし、もちろんここでも、高杉の名も桂の名も出ていません。

明治維新と国家形成
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏の「明治維新と国家形成」から引用しますと、「総督府側方針(西郷隆盛の方針)と毛利家側の恭順方針とがあいまって、征長は当初から、毛利家領内への侵攻を、実際にはどのようにして回避するか、という点を焦点に展開されることになった」 ということなのです。

 前回、この不条理RPGは、西郷隆盛にありえへん高杉処分要請をさせたあげくに、いるはずもないグリフォン・椋梨藤太を同席させ、「承りました」なんぞと言わせて、「こののち長州藩内に粛正の嵐が吹き荒れることになる」とシャアのナレーションを入れ、まるで、「俗論党」による「正義党」粛正が、西郷隆盛の命令で椋梨藤太がやったことであるかのようなありえへん印象をふりまき、その直後に、三月うさぎ高下駄晋作君が生まれて間もない長男と妻を残して行方が知れなくなった、としています。
 ここでもう、相当に時間軸が狂ってしまっています!

クロニクル高杉晋作の29年 (クロニクルシリーズ)
クリエーター情報なし
新人物往来社


 一坂太郎氏の「高杉晋作の29年」の年譜で高杉を見て、そこへ上記二冊および「防長回天史 6」(マツノ書店版)から他の出来事をはさみますと、以下のようです。

 10月 5日 高杉晋作長男梅之進誕生
 10月 6日 「正義党」の藩官僚中枢全員罷免。俗論党政権樹立 
 10月16日 晋作、病気を理由に現職(政務役)を退く
 10月25日 晋作、萩の自宅を出て山口へ行き聞多を見舞う
 10月27日 晋作、親戚から、藩庁に捕縛の企てがあることを知らされ山口を出る
      徳地の奇兵隊陣営を訪ね、野村靖、山県有朋らと談論

 10月29日 晋作、下関の白石正一郎宅に潜伏
 11月 1日 晋作、下関より海路、筑前へ亡命
 11月 4日 西郷隆盛、岩国を訪れ、攻撃猶予の条件に三家老、四参謀の処分を求める 
 11月12日 前日の国司信濃切腹とあわせて、この日二家老切腹、四参謀斬首
 11月13日 都美姫、山口宮野御殿を出て萩へ向かう
      銀姫は懐妊していて、この日、山口五十鈴御殿で着帯の内式

 11月15日、銀姫懐妊を口実に、諸隊(750余人)、五卿を奉じて山口を出る
      (万が一兵火が山口に及んでは、銀姫のためにならないと理由立て) 
 
 11月22日 銀姫、山口五十鈴御殿を出て萩へ向かう


 わかっていただけたでしょうか。
 高杉晋作の筑前亡命は、西郷隆盛の岩国談判よりも、銀姫さまの萩移動よりも、先なんです。

 ところがところが。
 この不条理RPG、西郷隆盛の岩国談判があり、都美姫さまも銀姫さまも萩へ引き移り、にもかかわらず、三月うさぎ高下駄晋作くんは、まだまだ萩をうろちょろしているようでして、あろうことか野山獄に姿を現す!わけなんです。
  西郷が11月4日に「早急に三家老、四参謀を処分しなければ18日には幕府軍侵攻!」と宣言していますのに、三家老四参謀の処分もしないで、いまにも征長軍が攻め込もうとしております中、世子がのんきにお菓子を食べて子作りにはげむ不条理には、お笑いにもならないばかばかしさ、しか感じられません。

 で、言いたくもないのですが、野山獄にぶちこまれたという小田村です。
 史実を言いますならば、10月 6日に「正義党」藩官僚中枢(松島剛蔵を含みます)が罷免され、「俗論党」に政権を奪われて以来、諸隊(奇兵隊を含みます)は、「正義党」の政権復帰を求めていて、三家老四参謀の処分で幕府軍侵攻がなくなったために、一方で戦闘をちらつかせながら「俗論党」政権と交渉していたのですが、高杉が長州に帰って、12月15日に挙兵したことで、さらに諸隊の動きが活発になり、拘束しています「正義党」中枢を奪われることを怖れた「俗論党」が、18日に松島剛蔵を含む中枢メンバー7人を野山獄に入れ、翌19日に斬り、それと同時に小田村ほか二人を野山獄に入れたわけでして、この不条理RPG、チェシャ猫小田村と三月ウサギ高下駄晋作くんとぼた餅美和さんで無理矢理ストーリーをひねりだそうとしたあげくに、タイムトラベラーも顔負けなほど、時間軸を無茶苦茶にしてしまっています。
 この「正義党」七人の処刑、西郷隆盛は止めようとしたのですけれど、間に合わず、そこらへんの事情は次回にまわします。

 さらに言えば、ですね。
 野村靖は奇兵隊の客分になっていまして、幾度も藩庁に上書して「正義党」復帰を画策していますし、亡命前の高杉とも一晩、親しく語り合っています。
 品川弥二郎は、まだ二十歳そこそこで、高杉より四つ年下ですから、御楯隊に属してはいましたが、その代表者は、乃木希典の従兄弟の御堀耕助でした。
 つまり、ですね。二人とも諸隊の中にいて、「正義党」復権に懸命の働きかけをしていましたのに、この不条理RPGでは、「正義党」中枢の高杉の命を狙うキチガイにされてしまい、気の毒なかぎりです。

 さて、これまでなんども書いてきましたように、文さんが御殿勤めをはじめ、名を久坂美和と改めましたのは、慶応元年(1865年)9月のことでして、「正義党」が復権し、久坂家を道明が継ぐのを見届け、父百合之助を看取った後の話です。
 だから、もう、この架空の毛利家奥は、どうでもいいといえばどうにもいいのですが、あんまりといえばあんまりなことばかりで、おはぎを作って子宝祈願って、どこの田舎の成金の家の年中行事よっ!!!と、おもしろくもない笑劇に、目をそむけたくなりました。
 おはぎは、東海道の宿場に名物店があったりしますし、かなり庶民的な食べ物です。もちろん、おいしいですから、大名家の奥でも食べなくはなかったでしょうけれど。
 だいたい、春の彼岸に作ったときはぼた餅、秋の彼岸に作った時はおはぎ、と呼んで、普通の家で仏様にお供えしてきたものだったと思うのですが。

隠居大名の江戸暮らし―年中行事と食生活 (歴史文化ライブラリー)
江後 迪子
吉川弘文館


 江後迪子氏の「隠居大名の江戸暮らし」は、臼杵藩5万石の奥の暮らしが、日記に基づいて描かれていまして、なかなかにおもしろいものです。
 江戸時代、和菓子が日本全国にひろまっていったのですが、それは、旧暦6月16日、お菓子を食べて疫病を払う、嘉祥という行事を、幕府が制度化していたから、です。
 大名が江戸城に登城し、将軍から高級和菓子(饅頭、羊羹など)を賜った行事なのですが、大名がお国入りしていますときには、将軍家をまねて、家臣にお菓子を配ったりしまして、そもそも幕府には、御用達菓子司・大久保主水という幕臣が、代々嘉祥を采配していましたし、全国の城下町にも、大名家御用達の格式高い菓子屋が誕生しまして、奥の行事で使いますお菓子は、大方、そういう名店が承って入れていたわけです。
 この不条理RPG、毛利家の奥を馬鹿にしすぎ!!!でしょう。

 もっとも、ですね。文久の改革で、幕府におきましても、江戸に大名はいなくなりますし、贅沢だというので、嘉祥は中止になりました。
 それほどに、黒船来航が平和だった日本を変え、奥の暮らしを激変させましたことは、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書きました。
 都美姫さまも銀姫さまも、生まれ育ちました花のお江戸を離れ、見も知らない草深い長州へ、移住するしかなかったわけですし、江戸での大名の奥や大奥との優雅なつきあいも、あきらめるしかありませんでした。

 で、コメント欄で書いたのですが、この元治元年7月23日、禁門の変によりまして長州は朝敵となり、幕府に追討令が下ります。
 江戸、京都、伏見、長崎、大阪と、各地の長州藩邸が幕府に没収されましたが、とりわけ江戸藩邸の場合は酷かったと、「防長回天史」は記しています。
 都美姫が生まれ育ち、銀姫も9歳から住んでいた桜田藩邸(上屋敷)と麻布龍土(下屋敷)、あわせて男118人、女3人が拘禁され、一人は、帯刀を奪われようとしたのであらがって、自刃したといいます。拘禁は慶応2年(1866年)6月までのおよそ2年間におよび、拘禁中の死亡者は、51人にのぼった、そうなんですね。
 そして、江戸の長州屋敷はみんな、跡形もなく取り壊されました。

 スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETALに書きましたように、都美姫さまも、そして園山も、長年江戸の長州藩邸に住んでいました、皇妹にして将軍御台所・和宮さまの大叔母、姉小路と、大きなパイプがあるはずなんです。
 ふつうでしたら、奥のルートを使って、拘禁されました藩士たちを救い、少しでも長州の立場をよくしようと、必死の嘆願をするでしょう!!! なんなんでしょうか? この不条理RPGのスイーツまみれののんきな奥の化け物のような人々は!!!

 姉小路について、もう少し書きたいのですが、長くなりましたので、次回にまわします。
 
クリックのほどを! お願い申し上げます。

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コメント (10)
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