郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆26回「夫の約束」

2015年07月05日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実◆25回「風になる友」の続きです。

花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 何度も申しますが、文も小田村も高杉もその嫁も、見るもうざったいので、すっとばします。 

 辰路さんです。臨月で出てきましたね。
 薩摩の愛人とやらに捨てられ、久坂とできて以来、つきものが落ちたように化け物風を脱した辰路さんですが、愛人の薩摩藩士に頼まれて久坂玄瑞をスパイしていた、といいますこの最初の設定が、ありえなさすぎの上に、久坂玄瑞を、どこまで馬鹿にするつもりなのっ!!!という代物でしたので、まずは、さかのぼってそこらへんの解説から、いきます。
 このドラマが貶めました、久坂玄瑞の実像をさぐる、という意味からも振り返りたいと思いますので、まわりみちにはなるんですけれども、おつきあいください。

王政復古への道 (原口清著作集)
原口 清
岩田書院


 原口清氏の論文「禁門の変の一考察」は、 一年前の8月18日の政変から始まります。
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆23回「夫の告白」で書いたのですが、原口清氏は、「大和行幸の企画意図はあくまでも攘夷で討幕ではなかった」としておられます。
 その理由として、クーデターに動きました中川宮朝彦親王と会津藩は、長州と三条侯たちが討幕を企てたと明確に認識していなかったことをあげておられるのですが、一方、薩摩藩は、長州が討幕に動こうとしていると見ていたことも述べておられます。
 その根拠の一つが、文久3年(1863)8月15日付け、薩摩藩大阪留守居木場伝内から大久保利通宛の手紙に、「土佐藩士の話では、行幸先の大和で錦の御旗をかかげて、帝に討幕の命をくだしていただこう、という策略もあるという」(「忠義公史料」「玉里島津家史料」)と書いていることです。

 この土佐藩士が誰であるかは、容易に推測できます。
 英国へ渡った土佐郷士の流離英国へ渡った土佐郷士の流離 2に書いております、大石団蔵(高見弥一)です。
 つまり、芸者をつかって久坂をさぐるなどといいますまわりくどいまねをしなくても、政変直前、京の薩摩屋敷には、重役吉田東洋を暗殺して国へ帰ることはできない大石団蔵、那須信吾、安岡嘉助の三人の土佐藩士が、かくまわれていて、しかも彼らは、一年余り前、久坂を頼って京の長州藩邸にかくまわれ、土佐からの追っ手がそれを突き止めたため、久坂が薩摩藩士に頼んで預かってもらっていたわけでして、当然、久坂とは連絡がありました。

 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書いたのですが、久坂が中心となっていました馬関攘夷戦の光明寺党は、「中山の狂人」中山忠光卿を頭領に迎えていました。
 孝明天皇の侍従で、祐宮(後の明治帝)の母方の叔父です。
 倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族と続けて読んでいただければわかるのですが、幕末の中山家は、祐宮に傷がつきませんよう、外祖父・中山忠能卿は、一応、慎重に身を処し、しかしその息子たちは、家司・田中河内介の影響もあってか、かなり早くから、諸藩の志士とつきあい、反幕的な動きを見せています。

維新への胎動〈上〉寺田屋事件 (講談社学術文庫―近世日本国民史)
徳富 蘇峰,平泉 澄
講談社


 前回も書いたのですが、薩摩藩の率兵上京が、いかに衝撃的な出来事であったか、このドラマに限らず、最近、語られなさすぎ、だと思うんですね。
 坂本龍馬の脱藩も、あきらかに、これに誘発されたものですのに、無視していることが多いですし。
  以下、主には「防長回天史 4」「久坂玄瑞全集」(ともにマツノ書店本) を参考にしますが、上、「維新への胎動〈上〉寺田屋事件 」は、わかりやすくまとめられています。

 久坂玄瑞という人は、非常に社交的な人で、松下村塾生の中で、他藩士ともっともよくつきあっていたといえます。そこが、高杉との大きな違いでして、高杉はわりに内弁慶、といいますか、中途まで、他藩人とはあまりつきあわない人でした。
 久坂の社交性はどこからきているのかと、つらつら考えてみたのですが、母親の実家が交通の要所・長門国阿武郡生雲村(現山口市)の名字帯刀を許された大庄屋だったことが、大きく関係しているのではないでしょうか。
 早くに両親、兄を亡くして、久坂の一家の位牌もこの母の実家にあり、かなり世話になっていて、結婚後は、文さんも何度も訪れたようです。
 
 大庄屋には、相当な財力がありますし(もちろん、中下級の士族よりはるかに金持ちです)、大方、その地方の文化を担ってもいて、詩歌俳諧、茶の湯などをたしなむ文人である場合が多いんですね。8.18政変の後、天誅組の変、生野挙兵、に担がれていました中山忠光卿、澤宣嘉卿は、ともに一時、久坂の世話で大谷家にかくまわれていまして、大庄屋の当主には、公卿とつきあうだけの教養がありました。
 久坂の教養と社交性は、母方の実家から受け継いだもの、と私は思います。

 久坂は、17歳で九州へ旅行に出て、19歳、結婚の二ヶ月後、江戸に遊学。以降、京阪、江戸へはたびたび出て、社交性を発揮し、諸藩に知友を得ます。
 薩摩の率兵上京は、突然起こったわけではありませんで、桜田門外の変以来、全国で志士の活動が活発になり、そんな中で、薩摩は注目の的でした。
 なにしろ先代藩主・島津斉彬は、安政の大獄の最中に、抗議の出兵を計画しながら急死していまして、この当時、まとまった数の歩兵部隊をもっていたのは、士族の数が桁違いに多い薩摩藩だけだったんです。

 文久元年、長州藩は長井雅楽の航海遠略策(開国公武一和論)を藩論として、朝幕間の周旋に乗り出します。
 航海遠略策自体は、要するに、「すでに国際条約を結んでしまったのだから鎖国には戻れません。朝幕一体となって国力を増強し、むしろこちらから海外に乗り出しましょう」という、当時、積極的開国論者が唱えていました一般論で、国力増強の具体策がさっぱりありませんから、空論にすぎないのですが、「国威を損なわず、従って朝廷の威信も損なわれない開国論」ということで、雄藩が斡旋に乗り出すというのですし、朝廷は一応受け入れます。幕府は幕府で、皇妹和宮降嫁が実現し、この際、多少下出に出ても、朝廷と一体であることを天下に示すことができると、乗り気でした。

 ところが、ですね。安政の大獄で藩主が謹慎したり、また藩士の犠牲者を出したりしました水戸、薩摩、土佐の一部藩士たちを中心に、尊皇攘夷派の諸国の志士たちが、この長州の動きを、非常に憎むんですね。
 もちろん、長州藩内でも、松陰に近かった松島剛蔵、桂小五郎、久坂玄瑞たちは、他藩志士と結んで策動を続ける一方、周布政之助に長井排斥を訴えるんです。
 実際、このときまだ、安政の大獄時の処分はそのままで、有志大名も松陰も復権していませんし、井伊大老本人は暗殺されましたが、その専横は、否定されていないんです。
 しかも、このとき、ロシア軍艦ポサドニック号が、対馬に勝手に上陸して占拠し、不法行為を働きながら、港の租借を要求して動かなかったんですが、対馬藩に助けを求められながら幕府は、ほとんどなにもできない有様です。結局、幕府はイギリス東洋艦隊の力を借りて、ようやくロシアを追い出すんですが、海軍増強は、非常に時間も金もかかる問題でして、航海遠略策は絵に描いた餅でしかありませんでした。

 松島剛蔵はオランダ海軍伝習を受け、長州藩の古い体質と戦いながら、なんとか近代海軍を作ろうと奮闘の最中だったわけですが、幕藩体制をひっくり返さないかぎり、それは不可能なのだと、身にしみていたことでしょう。
 松島剛蔵は元医者で、桂小五郎も実家が医家(士分の桂家へ養子に入りました)。久坂玄瑞はこのとき、現職の医家です。
 生粋の士分よりも、医家であった方が、あるいは簡単に、藩の壁を越えることができたのかもしれないですね。
 
 薩摩もまた、長井雅楽を中心とします長州の政治策動に不満で、あるいはだからこそ国父久光は、率兵上京を決意したのでしょう。
 しかし、久光は藩主の父というだけの身分ですし、薩摩藩内はともかく、対外的には藩主である息子の臣下にすぎないんです。
 文久元年の秋ころから、京都、江戸で薩摩藩士が盛んに工作していておりまして、噂がひろまっていきます。
 久光のつもりがどうであれ、前代未聞の率兵上京です。体制をひっくり返すことにつなげようと、もくろむ薩摩藩士、諸藩の志士が、多数現れました。

 久坂は萩の杉家に帰っていたのですが、文久2年の正月、まずは薩摩藩士の来訪があり、次いで土佐の坂本龍馬が、武市半平太の手紙を持って現れ、そこへまた薩摩藩士もやってきます。2月になってからは、土佐の吉村虎太郎、久留米藩士ほか、千客万来でして、このときこそ、文さんがもてなした可能性が非常に高く、なんであのくだらないニート龍馬の意味不明フレヘードに終わってしまったのか、まったくもって、わけのわからないドラマです。

 長州に人々が集まってきましたのは、一つには、下関の清末藩(萩藩の支藩・長府藩のそのまた支藩)飛地の豪商、白石正一郎が、薩摩の御用商人となって、糧食の世話などをしていまして、下関には情報が入ってきていたからです。
 前藩主・島津斉彬の信頼を受け、京、江戸で活躍しておりました西郷隆盛は、安政の大獄時、幕府に遠慮しました藩庁によって、島流しにされていました。
 久光はそれを呼び返し、情勢の探索係として、下関へ先行させます。
 久光に幕藩体制をゆるがすつもりがなかったことは確かですが、外様のただの藩主の父親が、一千名の兵を率いて上京すれば、ゆるがない方がおかしいでしょう。

 当然、長州藩当局もそう思いますし、3月、西郷隆盛が下関の白石正一郎宅に入ったとき、公式の応接役を出すんですね。
 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きました、軍制改革の責任者・山田亦介(松陰の師、村田清風の甥)です。
 西郷に会った亦介は、「久光がどんなつもりでも、西郷が戦争にする気まんまんだから、大乱になる恐れがある。江戸の藩公をお救いし、長州も朝廷守護に立ち上がらねばっ!!!」と、届け捨てて、京へ向かうんですね。

 結局、長州は、改革派の老臣・浦靱負に手勢をつけ、兵庫警備の名目で京都藩邸に派遣し、薩摩が志士たちに引きずられて戦争になった場合、荷担する用意を固めるんですね。
 浦靱負の領地・阿月は柳井にありまして、その重臣・秋良敦之助は、松陰の父・百合之助の親友ですし、スイーツ大河『花燃ゆ』と西本願寺で書きました月性の後ろ盾となっていたのが、この浦靱負なんです。
 そもそも久坂は、最初、兄と親しかった月性に師事し、月性の勧めで、吉田松陰の元を訪れたんです。
 当然ですが、久坂ほか、元松下村塾門下のこのときの京への派遣は、浦靱負配下、ということで、正式なものでした。
 長井暗殺のためだけにこそこそしているかのような、このドラマの描き方は、いったいなんだったんでしょうか。

 長くなりましたので、最後に、原口清氏の「禁門の変の一考察」から、同感しました一文をぬき、辰路さんにつきましては、またまた次回へまわします。

「長州藩攘夷派指導者たちは、攘夷の意義を説くなかで、国家の栄辱は戦いの勝敗にはなく国体の立つか否かにあるとか、西洋列強の富強を例にして、日本の将来の富強は攘夷戦による臥薪嘗胆の苦難を経てはじめて達成できると説いていた。彼らが持っている封建排外主義的心情(これは確認されなければならないが)とともに、彼らが右のような認識で死中に活を求める道を選んだことは認めなければならないと思う」 

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コメント (8)
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