郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件考 vol2

2009年02月07日 | 生麦事件
  生麦事件考 vol1の続きです。

新釈 生麦事件物語
長岡 由秀
文藝春秋企画出版部

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 上が長岡さまのご著書です。2冊おありなんですが、私が読ませていただいた方を、ご紹介しています。
 長岡さまは、奈良原兄弟のご子孫が伝えてこられた話を追求しておいでで、それは、「生麦事件でリチャードソンに一太刀目をあびせたのは、実は兄の喜左衛門ではなく弟の繁だったが、薩摩藩がイギリスとの接近を強めた慶応元年、兄が弟の身代わりとなって、ひそかに京都の薩摩藩邸で切腹した」というものです。

 いろいろと史料を読んでみました結果、私の判断では、一太刀目が喜左衛門であったことは、まちがいがないと思います。
 前回、大久保の伝達書で見ましたように、薩摩藩は喜左衛門の無礼討ち、つまり名誉の正当防衛を認めて薩英戦争にまで至ったわけでして、喜左衛門はりっぱに職務を果たしたのであり、名誉でこそあれ、犯罪ではないのですから、一太刀目が弟だったのであれば、なにもその事実を隠す必要はないから、です。
 しかし、もしかすると通説とはちがい、リチャードソンは、一太刀目ではなく、落馬後、複数の藩士にめったぎりにされて死に、その藩士の中に奈良原弟がいたのではないか、と推理するに至りました。
 真説生麦事件 下がその部分ですが、これは、弁之助の語りと市来四郎の史談会速記録から、先供だったという海江田、奈良原弟の位置を、生麦村で久光が休憩予定だった藤屋の前の駕籠の中、としておりました。これを、他の資料によって検討し、さらに、落馬後のリチャードソンを多数で斬殺したとして、それは、ほんとうに武士道に反したのか、考えてみたいと思います。
 前回に見ました無礼討ちの定義を、当事者の薩摩藩士たちがが共有していたとすれば、あるいは、「喜左衛門が弟をかばって切腹」という線もありえたのではないか、と、ふと思ったからです。

 まず、多数が落馬後のリチャードソンを斬殺したことについては、弁の助の語りと史談会速記録、そしてウィリス医師の検死や関口日記などの傍証以外に、なにかないのか、という点なんですが、ありました! 明治29年、「太陽」という雑誌に、薩摩出身の春山育次郎(少年読本の桐野の伝記の著者で、桐野の甥の親友でもありました)が、郷土の先輩、海江田信義から聞いた事件の話を、「生麦駅」というエッセイにして載せているのです。話を聞いた時期は、これよりも12、3年前で、ちょうど、生麦村に事件の碑が建った前後、真説生麦事件 補足で書きました、関口次郎右衛門の資料が消え失せた明治16年前後のことです。

 まず、春山育次郎は、大きな勘違いをしています。
 どういう勘違いかといいますと、リチャードソンたちの一行が、川崎から神奈川方面へ向かっていて、久光の行列を背後から追い越そうとした、と思いこんでいるのです。実際には、神奈川方面から川崎へ向かい、正面から行列につっこんでいるわけなのですが、なぜこんな勘違いをしたのか、おそらくは、なんですが、大名行列の正面から馬でつっこむとは、春山の想像の域を超えた話だったんじゃないでしょうか。

(追記)
 すみません。読み返していて気づいたので、追記します。
 春山の大きな勘違いは「英人の記する所」に基づいています。事件当時の英字新聞か、あるいはそれ以降に書かれたものかわかりませんが、春山は、イギリス人が生麦事件について書いたものを読んで、その筋書きに、海江田の話をあてはめたのです。おそらく、海江田の回顧談は非常に断片的で、その話だけでは、事件の全体像をつかむことができなかったのでしょう。
 この「英人の記する所」については、次回でまた触れます。


 ともかく、そういうわけでして、春山の話では、「海江田は川崎宿で奈良原喜左衛門と供目付の当番を交代し、久光の行列より遅れて、ゆっくり煙草を吸いながら行った」となるんですが、「供目付の当番を交代」まではいいとして、海江田は行列の後を進んでいたのではなく、はるかに行列の先を進んでいた、ということになります。
 こう考えれば、海江田信義が明治24年に出した「維新前後実歴史伝」という口述本において、「時に海江田、轎(かご)に駕して儀仗の先導をなしつつあり」といっていることに、位置としては一致しますし、また、他の資料ともあわせて、話が生きてくるのです。
 他の資料というのは、当時、やはり行列の先を行っていた宮里孫八郎が、事件から十数日後に、薩摩の両親へ書き送った手紙です。鹿児島県史料収録のものだそうでして、長岡さまからコピーをいただきました。ありがとうございました。

 これらをあわせて見ますと、海江田も宮里も、当日の宿泊先へ先乗りするグループで、大名行列の一部というような整然とした隊列ではなく、三々五々、気ままに、生麦村での久光の休憩場所である藤屋より先へ、進んでいたのです。非番となった海江田は駕籠で、煙草を吸いながら気楽に。そして宮里は「六郎殿」という連れと二人、徒歩で。

 さて、まず本隊の行列です。
 リチャードソンたち4人が、生麦の商店が密集した市中で、行列の前駆につっこんだとき、弁之助は、「禁令が出ていたため、前駆の人々は怒りにふるえながらも刀がぬけず、左右にわかれた」といっているんですが、実際、すでに往路で久光の行列は騎馬の外国人と接触していて、「少々のことはがまんするようにと藩士にも達しているが」と幕府に訴えを出しており、本当のことだったと思えます。
 だいたい、大名行列が他藩領や幕府の支配地を通るとき、無礼討ちにおよべば、裁定は幕府がすることになりますので、どの藩もそれをいやがり、相手が外国人ではなくとも、例えば江戸や街道筋では少々のことは我慢をする、という通念が、もともとあったのです。
 そして、この前駆の人たちとは、槍を持った足軽など、身分が軽い人たちだったようで、禁制を破る権限を、もちあわせてはいなかったのです。

 しかし、リチャードソンたちが、鉄砲儀仗対の脇をすりぬけ、駕籠前の最後の侍集団(中小姓たち)に突入して、久光の駕籠を脅かす勢いだったとなれば、これはもう、少々のこととは言い難い事態です。
 弁之助による生麦村住人の目撃談では、無礼に耐えに耐えていた久光の命令で、中小姓集団がいっせいに抜刀し、その中の一人がリチャードソンを斬って深手を負わせ、久光の駕籠の近侍の一人がマーシャルに浅手をおわせた、ということなのですが、マーシャルの宣誓口述書では、「自分はリチャードソンを斬ったと同じ人物に斬られた」となります。
 宮里書簡によれば、どうも、マーシャルの口述の方があたっていて、宮里は、「奈良原喜左衛門が二人斬った」と聞いているんです。
 そして、当番共目付だった喜左衛門は、久光の駕籠脇にいた、という話ですから、外部から見れば「近侍の一人」であり、それが中小姓集団の中へ出ていって斬った、ということで、いいのではないか、という気がします。
 中古小集団も刀を抜きながら、なぜ、まずは喜左衛門一人が刀をふるったかといえば、職掌柄先に立つべきだったことと、同士討ちをさけた、ということがあるでしょう。
 市中であり、狭い場所に騎馬の外国人が乗り込んできて、それを多数の藩士がとりまいていたのです。弁之助は、喜左衛門の最初の動きを「混雑でままならず」といっていますし、前方、鉄砲隊にいて、おそらくクラークを斬ったのだと思える久木村治休は、はるか後年のいいかげんな回顧談で、「刀をふるった際に、隣にいた同僚のあご先を傷つけた」と言っています。ほとんどが大ぼらだったにしても、この部分は、非常に実感のこもった回顧です。

 大名行列に正面から騎乗の人物がつっこむなどと、前代未聞の事態です。
 このとき、つっこまれた側の薩摩藩士たちの頭にあった無礼討ちの概念は、個人対個人の場合の鉄則で、「斬り留め損なうことは武士の恥」ということだったのではないでしょうか。
 しかし、馬上の人物を、それも無礼をはたらいた4人全員を斬り留めることは、至難でしょう。
 喜左衛門は、切腹覚悟で斬りかかったことになります。
 なぜ馬を狙わなかったか、ということについては、これは私の憶測ですが、日本の在来馬は去勢していないんです。したがって、非常な暴れ馬であることが多く、市中で暴れると下手をすると人が死にます。斬られて断末魔の苦痛に暴れる馬となれば、なおさらでしょう。無意識のうちに、馬が行列の中で暴れる事態はさけたい、という思いが、藩士たちを支配していたのではないでしょうか。

 最初に馬首をめぐらして逃げ出したのは、クラークでしょう。
 そのクラークが前方から向かってきた藩士は30人だったといい、一方、浅手を負い、遅れて逃げ出したマーシャルは、6人くらいだった、といっています。

 これには、理由があるのではないでしょうか。
 個人対個人の無礼討ちにおいて、なのですが、斬り留め損なって逃げられた場合、その武士の身内や同輩が加勢して、ともに追いかけて討ち果たす、ということは、あります。しかしそれは、その旨を藩に届け出て、しかも「暇乞いをして」、つまりいったん藩籍を捨てて、実行する必要があったのです。その上で討ち果たし、藩が無礼討ちを認め、助太刀も正当なものだと認められると、藩籍が回復する、というわけです。
 しかも、身内などが助太刀している事例は、無礼討ちをして斬り留め損なった本人が幼少である場合がほとんどのようでして、本来は、斬り留め損なったからといって、現場を離れ、追いかけていってとめを刺す、ということは、許されてなかったような感じを受けます。

 クラークが先に駆けてきた、ということがまずなによりの理由ではあったのでしょうけれども、無意識のうちに、無傷のクラークを狙うことが先決、と判断した藩士が、多かったのではないでしょうか。

 そして、藤屋より先を、のんびり神奈川宿に向かっていた、海江田と宮里です。
 宮里は「六郎殿」とともに、リチャードソンが落馬した地点よりも先に進んでいましたし、海江田はさらに先、神奈川宿の領域にまで行っていたようです。
 当然、海江田も宮里も、リチャードソンたち4人が、馬で行列本隊の方向へ、まっしぐらに駆けていくのとすれ違い、見送っています。
 宮里は、4人にすれちがってしばらくすると、まずはボロデール夫人とクラークが、必死の形相で引き返してくるのを見送り、「なにごとが起こったのだろうか」と振り返って見ると、マーシャルが、これまたすごい形相で駆けてきて、その後を乗り手のいない放れ馬が駆けてきた、といっています。マーシャルは、左脇腹下から、おびただしい血を流していました。
 「これはどうも、大変なことが起こったようだ。お駕籠のもとに駆けつけなければ」と、二人は引き返しはじめました。久光は、藤屋で休憩する予定でしたから、ともかく藤屋まで引き返して事態を把握しなければ、ということだったんでしょう。

 と、まもなく、4人を追いかけてきた黒田良助(清隆)と本多源五に出会います。二人はどうも、駕籠直前の中小姓集団のメンバーで、逃げた4人がどうなったかを、確かめようとしていたようです。落馬したリチャードソンは追い越してきていますし、騎馬の3人に徒歩で追いつくわけはないですから、結局、そういうことだったんでしょう。
 同時に、先行していた藩士たちに、とりあえず事態を伝えることも役目だったようで、宮里たちが、「なにが起こったんだ?」とたずねると、「奈良原喜左衛門が供目付だったので、外国人を一人斬り殺し、一人に傷を負わせた」といったというのですが、この直後、宮里たちは、まだ生きているリチャードソンを目撃しています。

 そうです。宮里たちは、黒田たちと出会ってまもなく、リチャードソン落馬地点を通りかかります。

  引き返す途中の草原にて仰のけに倒れ居もうし候につき、立ち寄り見申し候處、いまた殺きり申さず候につき、六郎殿にらみ居られ候處、手を合せて断らしきことを申様にこれあり候えども、一向決まり申さず候。

 えーと、いいかげんに現代語訳しますと、「引き返す途中の草むらで、仰向けに倒れたリチャードソンを見かけたので、六郎殿と二人で立ち寄ってみたら、いまだ死んではいず、六郎殿がにらんでいると、手を合わせて断りらしきことをいっているようだったが、どうしていいやらわからなかった」ということでしょうか。
 この「断りらしきこと」をどう解釈すればいいのか、命乞いしているように見えたのか、介錯を求めているように見えたのか、ちょっと私には判断がつかないのですが、ともかく宮里たちは、どうしていいかわからなかったのです。

 これはやはり、個人対個人の無礼討ちで、助太刀するものではない、という観念が働いて、自分たちが手を出していいものなのかどうか、判断がつかなかったのではないでしょうか。
 しかし、その後に続く言葉は、彼らがどうしていいかわからないまま、リチャードソンを置いて藤屋まで引き返した後、リチャードソンの身に起こったことと、関係しているように思われます。

 ついては一人も残さず打ちはたすべきの處に、たまたま我々共御先に行ながらケ様の事とは存ぜず候につき、無覚をとり残念の至りに存じ奉り候

 つまり、「実のところ、我々は無礼をはたらいた4人をすべて打ちはたすべきだったわけで、しかし我々は行列の先に行きながら、そんなこととはわからず、不覚をとってなにもせず、残念でたまらない」というんですね。

 薩摩藩の行列への無礼ですから、最初に刀をぬいた喜左衛門一人ではなく、本隊の全員が「斬り留め損なうことは武士の恥」意識を共有し、弁之助のいう「前駆の人たち」、実際には鉄砲儀仗隊が主だったようですが、ともかく本隊前方の人々も刀をぬき、久木村は、おそらく無傷だったクラークに、重傷を負わせたわけです。
 しかし、無礼討ちは本来、現場を離れて追いかけてとめを刺すものではなく、助太刀をえてそれをするには、届け出た上で、藩籍から放れることが必要なほどのものなのです。
 本隊ではなく、三々五々、のんびりと神奈川宿に向かっていた宮里たちにとっては、どうしていいかわからない、手を出すべきではないように思われる、という当初の感覚の方が、実は、まっとうだったのではないでしょうか。
 落馬して、拝むような様子のリチャードソンは、おそらくは哀れにも見えたのでしょうし。

 それが、俺たち不覚をとったんだ!!!に変わったについて、彼らよりさらに神奈川よりにいた海江田がかかわっていたのではないか、ということで、次回、春山育次郎のエッセイに基づいて、海江田を追います。


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