郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件考 vol1

2009年02月06日 | 生麦事件
 生麦事件シリーズです。リンクをはるのが面倒になってきたので、生麦事件というカテゴリーを作ることにします。
 実は私、生麦事件を「大名行列の無礼討ち」と規定しながら、この「無礼討ち」について、きっちりと調べていませんでした。


武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち (角川叢書)
谷口 眞子
角川学芸出版

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 なんといううかつなことでしょう。
 上の本で、ちゃんと生麦事件が「無礼討ち」として、取りあげられているんです。そのしめくくりは、以下です。

 薩摩藩士が外国人を殺害した生麦事件は、攘夷運動の激しさを示す典型例として、紹介されるのが常である。しかし、これは相手が外国人だから生じた事件というわけではない。ここまで考察してきたことからわかるように、大名やそれに準ずる行列がきたとき、下馬下座することは、近世の日本において当然の行為であった。リチャードソンたち四人が、馬から下りて会釈をしさえすれば、この悲劇は防げたのではないだろうか。

 まったく、おっしゃる通りです。
 とはいえ、谷口眞子氏は生麦事件の詳細に立ち入っているわけではありませんので、主にこの本の他の例を参考にして、事件当事者だった薩摩藩士たちの意識のあり方を、考えてみたいと思います。

 その前に、まず無礼討ちとはなにか、つまりどういう法概念かということなんですが、これについては、高柳真三氏の「江戸時代の罪と刑罰抄説」も参考に、かんたんにまとめてみます。

 無礼討ちは、「名誉、あるいは秩序、威厳の侵害に対する正当防衛」と考えられています。
 西洋近代法においては、正当防衛は生命と身体に限られるわけなのですが、「名誉の防衛」という観念はあり、通常、名誉の回復は実力行使ではなく、裁判にゆだねられます。しかし、近代にいたるまで、慣習として「決闘による名誉の回復」は存在しましたし、決闘の合法性を要求する社会通念は、正当防衛と関連づけて論じられていました。

 これにくらべ、江戸時代において無礼討ちは、はっきり法によって正当防衛と認められていました。
 しかし、無礼討ちが無礼討ちとして成立するには、次のような要件を満たす必要があります。

 まず大前提として、「はっきり無礼があったと証明できること」です。
 例えば、狭い道で、武士と百姓・町人が出くわし、百姓・町人が道をゆずらず、武士の身体にあたったり、武士に悪口雑言をあびせたりすることは、無礼です。しかし武士の方も、はっきり武士だとわかる恰好をしていなければいけません。そもそも、きちんとした服装で、威儀を正してなければ、出会い頭に武士だと認識することもできませんから。
 さらに、無礼討ちが成立するには、以下の三つの条件があります。

 1.相手を斬り留める。無礼討ちの相手に逃げられることは、武士の恥なのです。

 2.事件を届ける。藩や幕府に届け出て、吟味の結果、はじめて、正当性が認められます。認められなければ、殺人です。

 3.現場に留まる。届け出た後、吟味を受ける必要がありますから、現場に留まらなければなりません。


 1の「相手を斬り留める」ですが、基本的には、無礼をはたらいたもの全員を斬り留める必要があります。それも、現場を離れて追いかけ、とめを刺すのではなく、その場で斬り留める必要があるのです。
 しかし、それがどこまで厳格に裁定されたかといいますと、仙台藩の無礼討ちの規定に「侍に慮外(無礼)いたし候者、他国御追放、慮外いたし、切り殺され候えば死に損」とあるそうですから、かならずしも全員を斬り留め損なったからといって、処罰を受けたわけでもなさそうです。
 とはいえ、やはり「斬り留め損なうことは武士の恥」であり、所払いになるのが通常で、恥じて切腹した例も多々あり、刀をぬいて無礼を咎める側も、命がけでした。

 でー、です。これがこのまま生麦事件にあてはまるか、といえば、それはちょっとちがうようです。
 まず相手が外国人ですし、個人対個人で無礼をとがめた、というわけではなく、大名行列の無礼討ちですから、主君に対する無礼を、お供の武士がとがめたわけです。

 というわけで、大名行列の無礼討ちについて見てみますと、まあ、大名行列に正面から馬で乗り入れる日本人は皆無ですから、あんまりふさわしい例はないのですが、駕籠の中の主君にも責任はあった、という例で、三万石を棒にふった大名の話を。

 元禄12年(1699)、江戸においてのことです。
 幕府御小姓組、400石の岡八郎兵衛が登城の途中、仙台藩主の弟で、三万石の大名・伊逹村和の行列の横合いに行きあわせました。伊逹家の家来が、八郎兵衛の行く手をさえぎったため、八郎兵衛は溝に足をつっこみ、刀をぬいたけれども奪われてしまいます。多勢に無勢、だったわけですね。八郎兵衛は「主人に対面したい」と申し入れましたが、無視され、行列は行ってしまいます。
 八郎兵衛は、登城できないわけを届け出て、村和の屋敷へ出かけて談判しているうちに、幕府の目付が現れ、事情聴取をします。
 伊逹村和は「駕籠の中で熟睡していて事件を知らなかった」と答えたのですが、「供先の狼藉を静止しなかった」咎により、逼塞。直参旗本に無礼をはたらいた供先の三人は成敗。八郎兵衛は、刀をとられた不覚によるものでしょうか、小普請入りとなりましたが、4年後に赦免されます。

 生麦事件においても、当然、幕府が無礼討ちの認定をするはずなのですが、すでに幕府の権威が落ちていたこと、相手が外国人であり、幕府の頭越しに戦闘状態になる可能性があったことなどから、薩摩藩は幕府を無視しきっています。
 事件に対する薩摩藩の公式見解は、大久保利通が、久光の意を受けて、佐土原藩の側役に書いたという、伝達書に見ることができます。
 岡野新助という架空の人物が異人を斬って逃げたのだと、人を食った届け出をして、「幕府が外国人と交渉できないのなら、直接薩摩にやってこいと伝えろ」と言い放った、その理由なのですが、簡単にいえば、こういうことです。

だいたい、大名之行列は作法が厳密で、日本人でも無礼があれば斬り捨てにするのが習いである。まして外国人であれば、久光は朝廷の勅使の警護だったのだから、日本の威光にもかかわる問題で、なおさらのことだが、外国人には日本の習慣も言葉もわからないだろうからと、当日は薩摩の行列が通るので外国人は通行するなと通達したはずだ。ところが、その通達をものともせず、東海道へ繰り出して、あろうことか無体にも行列に馬で乗り込んできた。外国人は日本の作法を知らないからというが、こちらの言い分をいうならば、主君の安全を守る職分の者(奈良原兄)が、礼儀を知らない外国人が主君の身に危険を及ぼすことを案じて斬り捨てたのであり、それを咎めたのでは、日本の気風に反する。

 幕府もそうですが、薩摩藩もまた、これを無礼討ちととらえ、その場に留まり、幕府の調べを受けることが通常の手続きであることは、わかっていたのです。
 しかし、薩摩藩としては、朝廷の勅使の護衛であったこと、また幕府が外国人の無法に対してとがめ立てする力がないことから、幕藩体制そのものを疑ってかかっています。そして、その薩摩藩の立場においては、最初の一太刀目をあびせた奈良原喜左衛門は、当番供目付として当然の職務を果たした、と認めていたことがわかります。
 なお、一太刀目が奈良原喜左衛門、兄の方であったことは、久光の近くにいて、一太刀目を目撃した松方正義の認識では、そうです。後世、事件直後沙汰書を整理した文言に以下のようにあり、また薩藩海軍史のもととなった、松方からの聞き書きノートにも、そうあります。

「三郎様江戸より御上京の節、生麦市中において、奈良原喜左衛門、異人を殺害いたし候事件、異人ども色々難題の事など申し出候につき」


 そもそも、日本の街道は狭く、住宅が密集した市中では、17世紀から、武士といえども乗馬で駆けることは禁じられていました。しかし、来日した外国人は平気で馬を乗り回しましたので、すでにさまざまなトラブルが起こっていたのです。
 外国人の乗馬による事故が頻発したのは函館で、この文久2年には、ロシア人の馬に蹴られた町人があばら骨を折り、眼球破裂で、危篤状態になりましたが、ロシア人が賠償に応えるわけではなく、幕府が治療費を払っています。
 横浜近辺でも、大事にはいたらなくとも、類似の事故は起こっていたのです。

 また、翌文久3年のことですが、一人の武士が、三人のイギリス人から悪口をあびせられ、近寄ると、小銃を向けられたので、刀に手をかけると、発砲された事件もあり、イギリス人に打たれた同心が刀で斬りつけた事件とか、日本人にとっての耐えられない無礼の感覚が、外国人には理解されず、無数に事件は起こっていたのです。

 まして、これは個人の面子の問題ではなく、久光と薩摩藩の面子の問題であると同時に、薩摩藩の見解では、日本の面子の問題でもあったのです。

 長くなりましたので、次に続きます。


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2 コメント

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無礼打ち (イデちん)
2009-02-06 14:39:13
はじめまして、イデちんともうします。
愛媛出身です。
無礼打ちの失敗について、氏家幹人先生の本にも書かれていますね。
江戸中期以降、武士といえども簡単には無礼打ちにできなくなってきた、というようなことでしたが、武士の実態って調べれば調べるほど面白いですよね!

ネットを検索していると、このブログがヒットすることが多いので、これからもときどきお邪魔したいと思います。
返信する
ようこそ。 (郎女)
2009-02-07 01:37:44
おこしくださいました。
氏家幹人先生も書いておられたんですか。
先生の本は好きで、気がついたら読むんですけど、それは読んでおりませんでした。載っていそうなのを、注文いたしました。

愛媛の話題は少ないんですが、今年はたしか、坂の上の雲が放映されるはずで、楽しみにしているんです。
どうぞ、またいらしてください。
返信する

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