郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

新撰組と伊予松山

2006年01月06日 | 伊予松山
伊予松山の人で、新撰組の主要メンバーだった原田左之助について書こうと思いまして、久しぶりに子母澤寛の『新撰組遺聞』を開いて、ちょっとびっくり。
読んだのがずいぶん前なので忘れていたのですが、左之助さんも蘭式銃隊の太鼓を、肩にさげてうち鳴らしていたんですね。
桂小五郎の妹の夫だった来原良蔵が、同じことをしていたんですよね。
来原良蔵の場合、どこで蘭式銃隊について学んだかといえば、桂小五郎とともに中島三郎助からなのだろうな、と思うのですが、左之助さんはどうなのでしょうね。

中島三郎助は、幕府浦賀奉行所与力で、ペリー来航のときに応対した人です。
吉田松陰が、熊本藩の宮部鼎蔵とともに中島三郎助を訪ねたことがあり、桂小五郎に、西洋軍学を学ぶならばこの人だと、中島三郎助を紹介した、というのですね。
ずらずらと名前を並べましたが、松陰と宮部鼎蔵が、中島三郎助に出会ったときには、後のそれぞれの運命の変転は、想像もつかなかったことですよねえ。
吉田松陰は安政の大獄で刑死し、宮部鼎蔵は池田屋事変で死に、中島三郎助は函館戦争で壮絶な最後を遂げています。
桂小五郎は、かつての師だった中島三郎助の身を案じていて、遺族を援助したのだそうです。

あー、宮部鼎蔵は池田屋事変で、原田左之助と刃をまじえた可能性だって、あるんですよね。
話はそれますが、池田屋事変で死んだ浪士の側に、伊予松山人がいるのです。
私は最初、京都の霊山で、伊予松山・福岡祐次郎、という墓標を見つけて、?????となったんです。
伊予松山藩は幕府の親藩でして、維新の殉難者、つまり勤王方で幕末に死んだ人物、というのは、聞いたことがなかったんです。
もちろん、勤王方がまったくいなかったわけではなく、足利木像梟首事件の主犯格だった三輪田元綱は日尾八幡の神官の息子で、平田国学の門人です。兄の米山が有名な書家でして、幕末の日記を残していますし、日尾八幡はわが家から遠くないですから、よく知っています。でも、この元綱さんは幽閉されただけで、維新まで生きのびているんですね。
福岡裕次郎の名は、長州関係者が作った幕末殉難者名簿に載っていました。池田屋事変で死んでいたんです。慌てて、池田屋事変のことを書いた書物をひっくりかえしてみますと、確かに、死者の中にはかならず、福岡祐次郎の名前があるんですね。
ところが、なにを見ても、伊予松山の人、というだけで、どういう人であったのか、さっぱりわからないんです。
郷土史に詳しい方などに聞いてみたのですが、どなたも、わからないとおっしゃいます。
脱藩士であれば、松山藩の記録に残らないわけもなさそうですので、士族ではなさそうな気がします。
お一人、伊予市の福岡という家は大きな庄屋さんで、もしかするとそこの人物では? といわれた方がいたのですが、結局、わかりませんでした。
霊山のお墓には、それぞれのファンが花をささげたりしているのですが、福岡裕次郎のお墓には、訪れる人もないようで、それからは、行くたびに手をあわせるようになりました。
同郷の原田左之助と福岡裕次郎が刃をまじえた可能性も、もちろんあります。

子母澤寛の『新撰組遺聞』によれば、史談会速記録で、原田左之助について語り残しているのは、俳人の内藤鳴雪です。元藩士で、正岡子規ともつながりが深く、地元ではよく知られた人物ですので、これも、最初に読んだときには、ちょっとした驚きでした。
同じく子母澤寛の『新撰組遺聞』の方では、原田左之助は日清戦争で軍夫になっていた、という伝聞が載っています。
一方、松山の甥たちが語った話として、満州で馬賊になり、一度松山へ帰って来たことがある、というような記事をどこかで見たのですが、なにで見たのか、本棚でさがしても出てこないんです。たしかこの記事で、左之助の実家が、忽那列島だったと知った記憶があるのですが。

松山と新撰組といえば、一時新撰組に席を置いた、佐久間象山が妾に生ませた息子、三浦啓之助の墓が、わが家のごく近くにあるはずなのですけれど、これは、さがしたことがないんです。洋学者だった佐久間象山は、京で暗殺されましたけれども、門下に勝海舟、吉田松陰がいて、勝海舟の妹が、象山の後妻になっていたりしました。そんな関係で、勝海舟が三浦啓之助を、新撰組に押し込んだりしたのですが、粗暴なのでもてあまされ、脱走しましたが放っておかれた人です。
なにしろ象山の息子ですから、明治になって司法省に入れてもらい、しかしまた粗暴なふるまいでもてあまされ、松山の裁判所にとばされたんです。
あー、もてあまし者でも、中央から地方にくれば威張れたらしくて、評判は悪かったようなのですが、明治10年、食中毒で死に、松山に葬られました。
勝海舟も、身内のこととなると、ろくなことをなさいませんね。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新撰組と自由民権運動 | トップ | 池田屋で闘死した郷土の男 »

コメントを投稿

伊予松山」カテゴリの最新記事