脳死移植が適正に行われたかどうかを調べる厚生労働省の「検証会議」(座長・藤原研司横浜労災病院名誉院長)が、2009年3月から、1年以上も開かれておらず、2007年5月以降に国内で実施された計32例の検証作業が宙に浮いていることが17日、分かった、という報道がありました。このうち2例は臓器提供日から3年以上放置されているというのです。
脳死については、そもそも人の死といえるか、について社会一般に与えている印象と脳死患者の現実にギャップがあることは、以前にも書いたことがありますし、日弁連も再三、訴えてきたところでした。http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/2004_01.html
脳死移植後の検証は、せめても、人の命の前倒し死亡判定の砦になる制度であるにもかかわらず、この検証がすでに1年以上機能していないというのです。
今後、脳死臓器移植のハードルを下げていったときに、どのようにおこなわれていくのか、空恐ろしい気がします。
強い需要があり、それを押し切る力関係があるときに、結局、弱者がまさに「命」を差し出すことになるような運用にだけはならないようにしなければならないと思います。
脳死を前提とする改正移植法が施行となります。
小児の脳死臓器移植については、法律化されても現場がためらうという現状があることも、ここのところ報道されています。子どもの脳死は判定が困難で、大人の判定方法と同じ基準で命に見切りをつけてしまっていいのか、というところに、医学的に問題があるからです。
小児医療の物理的な多忙さが、はからずも、子どもの脳死判定にかかわっていられない状況を作っていることも原因だと思いますが、それでも、根底には医の倫理が機能しているのだと思っています。
命の問題に、いったん間違ったラインを引いてしまうことで、社会の意識が形作られることのないようにすべきです。
検証会議を軽んじることは、すでに、脳死に対する問題意識が希薄になっているのだといわざるを得ません。
少なくとも、この検証会議が機能しない限りは、新法は実施すべきではないし、現在の脳死臓器移植も中断すべきだと思います。
脳死については、そもそも人の死といえるか、について社会一般に与えている印象と脳死患者の現実にギャップがあることは、以前にも書いたことがありますし、日弁連も再三、訴えてきたところでした。http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/2004_01.html
脳死移植後の検証は、せめても、人の命の前倒し死亡判定の砦になる制度であるにもかかわらず、この検証がすでに1年以上機能していないというのです。
今後、脳死臓器移植のハードルを下げていったときに、どのようにおこなわれていくのか、空恐ろしい気がします。
強い需要があり、それを押し切る力関係があるときに、結局、弱者がまさに「命」を差し出すことになるような運用にだけはならないようにしなければならないと思います。
脳死を前提とする改正移植法が施行となります。
小児の脳死臓器移植については、法律化されても現場がためらうという現状があることも、ここのところ報道されています。子どもの脳死は判定が困難で、大人の判定方法と同じ基準で命に見切りをつけてしまっていいのか、というところに、医学的に問題があるからです。
小児医療の物理的な多忙さが、はからずも、子どもの脳死判定にかかわっていられない状況を作っていることも原因だと思いますが、それでも、根底には医の倫理が機能しているのだと思っています。
命の問題に、いったん間違ったラインを引いてしまうことで、社会の意識が形作られることのないようにすべきです。
検証会議を軽んじることは、すでに、脳死に対する問題意識が希薄になっているのだといわざるを得ません。
少なくとも、この検証会議が機能しない限りは、新法は実施すべきではないし、現在の脳死臓器移植も中断すべきだと思います。
臓器売買の為だったそうです。
中国発のニュースだけに注意は必要ですが。
この微妙な問題のプロセスをないがしろにすると、一方で営利目的の臓器売買が走り出します。インドにもそんな噂があったりしますし。
格差社会の問題も絡んできます。貧困層を作り出せば富裕層は命さえも買う事ができてしまう。
opponentさんご紹介の福岡伸一さんは「生物と無生物のあいだ」で話題の方ですよね。おもしろいテーマだと思っていましたが。
臓器移植についても書かれているのですね。
第一点は、脳死が人間の死亡であると判断できないこと。一般に心臓の鼓動が停止すると医師が死亡宣告をしてきた経緯がありましたが心臓の機能を人為的に補うことによって延命が可能となっています。そこで脳死が焦点となったわけですね。臓器移植を計る目的で脳死を持ち出したという無視できない恣意性があまりにも顕著だということです。ヒトの死を定義することはできません。心臓停止・脳死ののちに全身の細胞が徐々に死んでいくのですが、どの点で死亡と言えるのか…。「脳死」を基準とするのはあまりにも粗雑だし、脳死が判定されてなお回復する可能性ないし実例を無視していると考えざるを得ません。そういったケースについて政府は故意に隠蔽しているだろうと私は判断しています。
二点目。臓器移植は人体の機能を無視しているということです。一般的に拒絶反応が生じますが、それを避けるため免疫機能を人為的に低下させて拒絶反応を緩和するのですが、そもそも臓器というのはユニットとして取り換えできないものだと福岡伸一さんは指摘しておられます。
福岡さんの主張は「動的平衡」という名前で様々な問題を説明され、多くの部分で同意できました。農民運動にも参加したことがあったため、その思いをどのようにお伝えできるか不安ですが、是非とも福岡さんの文章に接していただきたいと思い、このような拙文を認めた次第です。