少年事件の裁判に当たる少年審判は、非公開で行われます。
これは、ひとつには少年が未熟で、公開法廷で裁かれることで萎縮し、緊張して法廷での裁判官のことばを十分に聞けず、また自分のことが話せない、ということをさけるためです。
また、少年は育つ途中にあります。養分を吸ってぐんぐん育つ若木のようなもので、すべてがその子どもの成長に影響をあたえます。今後の二度と罪を犯さないという更生を考えれば「責任のとりかた」を考えるより、責任を受け止められる人間をつくることが先になります。つまり、どう育て直したらいいかを考えなければならないわけですが、そのためには、起こした事件やその背景のほか、少年のおかれた環境、家庭や友人関係などを丁寧に聞かなければその糸口がつかめません。非常に多くのプライバシーが開披される場になります。これらが、公開法廷で外に漏れることになれば少年は今後のやり直しが難しくなりますし、プライバシーが漏れることが怖ければ、審判廷で話さないことになって、審判廷での再犯の防止にも役立つはずの意義、更生への方途が、大きく害されます。
今、この少年審判の非公開の原則に、被害者の傍聴という例外が認められそうな状況になっています。
審判は学校の教室ほどもない6~7メートル四方程度の小さな部屋で行います。
事件を起こした少年とその被害者の遺族(死亡事件か、それに匹敵するような事件に限られます)が、互いの息づかいが聞こえるような空間で、共存するとき、審判廷で少年が何をどのように話せるでしょうか。また子どものしたことには,ただただ、詫びるしかない立場の加害少年の保護者が、家庭環境の至らなさについての様々な思いや親としての少年への詫びを語ることができるでしょうか。
また、いじめの事件では、実際、どちらが被害者とも加害者ともいいようのない事件も多いのですが、最後の結果が被害者と加害者になったときに、審判廷はそれでも、加害者が「悪」で被害者が「非悪」として対置されます。最後の段階での加害少年は、「だけど被害者も・・・」という真相も弁解にすぎない扱いになりはしないか。
そして、このような状況におかれる加害少年は11才や12才、小学校高学年の子でも同じなのです(触法少年といって14才未満も同様に扱われるという案が出されています)。
こんな問題について、ある裁判官書かれている文章を見つけました。
『少年をほめる 某家庭裁判所裁判官
非行を犯した少年をほめなければならないときもある。
審判の場に来る少年たちは,普段から自分は何の取り柄のないだめな人間と思い込み,喧嘩に強いことやバイクで突っ走るとき以外に自信が持てない。裁判官から叱責されて少年院に送られることを予想している少年にとって,希望は何も見えない。更生への意欲は,未来に明るい光が見える時に芽生えるものだ。
学校で,授業を妨害し,廊下をわがもの顔で徘徊し,注意する教師には暴力を振るい,荒れ出すと手当たり次第器物を壊す中学生がいた。もう学校では手に負えない。家庭裁判所に送られてきた。鑑別所にも入れられた。審判に向けてそれなりに神妙にはなってきた。しかし,「あんなことしなければよかった」と後悔の言葉はでるが,内省というにはほど遠い。
彼の行状には,叱りつける材料は沢山あっても,ほめるべき材料は少ない。それでも,彼は全ての教師と対立しているわけではない。彼のことを少しでも理解しようとしてくれる教師には柔らかい対応も見せる。友達が他校生からいじめられていると,その学校に乗り込んで仕返しをしたこともある。
審判の場で,彼の数々の悪しき行状を確認していくと,彼は縮こまるばかりである。そんなとき,「本当は先生方とも仲良くしたかったんだね」,「友達思いなんだね」と短い言葉で彼の善意を指摘すると,もうそれだけで,彼は必死にうなずいて号泣を始める。白い目で見られ叱られてばかりいる少年にとり,こうした言葉は,暗闇に光明を見出す思いかも知れない。
わずかであっても,彼の良き面をほめてやらなくて,どうして更生の意欲をかきたてることができよう。自分にもいいところがあり,これを伸ばして悪い面を少なくしていけば更生できる,そんな気持ちにさせることが立ち直りへの第一歩である。
これまで非公開できた少年審判への被害者傍聴が議論になりかけている。 非公開の密室で少年に「甘い」処分が下されることを警戒する一部被害者の声が後押ししている。少年審判に携わる者は,その声をしっかり受け止め,自らを省みることは必要であろう。
しかしながら,少年審判の場で,被害者(あるいはその遺族)が,もしひたすら厳罰を求めて傍聴するとすれば,裁判官の少年への語りかけに影響が出ないであろうか。少年を叱り弾劾することが主となり,少年の善意指摘しほめることで更生の意欲を高めるという審判手法がとり難くなりはしないだろうか。処分も重き方向に流れないであろうか。つまるところ,少年の「健全育成」を理念とする少年審判の性格を大きく揺るがすことになりはしないだろうか。』
教育もそうですが、子どもの問題は長い目で真剣に考えないと、そのツケは、20年後、30年後に必ず巡ってきます。
昨日今日の話に例をとれば、即効性の毒餃子は、すぐ結果が出るので、被害が比較的短く終わりますが、毒を与えられた子どもが成長して、「あっ、毒だったんだ」と気づいたときには、取り返しがつかないほどの大規模の被害が出ているし、さらに被災した親に次の世代が育てられているということです。
これは、ひとつには少年が未熟で、公開法廷で裁かれることで萎縮し、緊張して法廷での裁判官のことばを十分に聞けず、また自分のことが話せない、ということをさけるためです。
また、少年は育つ途中にあります。養分を吸ってぐんぐん育つ若木のようなもので、すべてがその子どもの成長に影響をあたえます。今後の二度と罪を犯さないという更生を考えれば「責任のとりかた」を考えるより、責任を受け止められる人間をつくることが先になります。つまり、どう育て直したらいいかを考えなければならないわけですが、そのためには、起こした事件やその背景のほか、少年のおかれた環境、家庭や友人関係などを丁寧に聞かなければその糸口がつかめません。非常に多くのプライバシーが開披される場になります。これらが、公開法廷で外に漏れることになれば少年は今後のやり直しが難しくなりますし、プライバシーが漏れることが怖ければ、審判廷で話さないことになって、審判廷での再犯の防止にも役立つはずの意義、更生への方途が、大きく害されます。
今、この少年審判の非公開の原則に、被害者の傍聴という例外が認められそうな状況になっています。
審判は学校の教室ほどもない6~7メートル四方程度の小さな部屋で行います。
事件を起こした少年とその被害者の遺族(死亡事件か、それに匹敵するような事件に限られます)が、互いの息づかいが聞こえるような空間で、共存するとき、審判廷で少年が何をどのように話せるでしょうか。また子どものしたことには,ただただ、詫びるしかない立場の加害少年の保護者が、家庭環境の至らなさについての様々な思いや親としての少年への詫びを語ることができるでしょうか。
また、いじめの事件では、実際、どちらが被害者とも加害者ともいいようのない事件も多いのですが、最後の結果が被害者と加害者になったときに、審判廷はそれでも、加害者が「悪」で被害者が「非悪」として対置されます。最後の段階での加害少年は、「だけど被害者も・・・」という真相も弁解にすぎない扱いになりはしないか。
そして、このような状況におかれる加害少年は11才や12才、小学校高学年の子でも同じなのです(触法少年といって14才未満も同様に扱われるという案が出されています)。
こんな問題について、ある裁判官書かれている文章を見つけました。
『少年をほめる 某家庭裁判所裁判官
非行を犯した少年をほめなければならないときもある。
審判の場に来る少年たちは,普段から自分は何の取り柄のないだめな人間と思い込み,喧嘩に強いことやバイクで突っ走るとき以外に自信が持てない。裁判官から叱責されて少年院に送られることを予想している少年にとって,希望は何も見えない。更生への意欲は,未来に明るい光が見える時に芽生えるものだ。
学校で,授業を妨害し,廊下をわがもの顔で徘徊し,注意する教師には暴力を振るい,荒れ出すと手当たり次第器物を壊す中学生がいた。もう学校では手に負えない。家庭裁判所に送られてきた。鑑別所にも入れられた。審判に向けてそれなりに神妙にはなってきた。しかし,「あんなことしなければよかった」と後悔の言葉はでるが,内省というにはほど遠い。
彼の行状には,叱りつける材料は沢山あっても,ほめるべき材料は少ない。それでも,彼は全ての教師と対立しているわけではない。彼のことを少しでも理解しようとしてくれる教師には柔らかい対応も見せる。友達が他校生からいじめられていると,その学校に乗り込んで仕返しをしたこともある。
審判の場で,彼の数々の悪しき行状を確認していくと,彼は縮こまるばかりである。そんなとき,「本当は先生方とも仲良くしたかったんだね」,「友達思いなんだね」と短い言葉で彼の善意を指摘すると,もうそれだけで,彼は必死にうなずいて号泣を始める。白い目で見られ叱られてばかりいる少年にとり,こうした言葉は,暗闇に光明を見出す思いかも知れない。
わずかであっても,彼の良き面をほめてやらなくて,どうして更生の意欲をかきたてることができよう。自分にもいいところがあり,これを伸ばして悪い面を少なくしていけば更生できる,そんな気持ちにさせることが立ち直りへの第一歩である。
これまで非公開できた少年審判への被害者傍聴が議論になりかけている。 非公開の密室で少年に「甘い」処分が下されることを警戒する一部被害者の声が後押ししている。少年審判に携わる者は,その声をしっかり受け止め,自らを省みることは必要であろう。
しかしながら,少年審判の場で,被害者(あるいはその遺族)が,もしひたすら厳罰を求めて傍聴するとすれば,裁判官の少年への語りかけに影響が出ないであろうか。少年を叱り弾劾することが主となり,少年の善意指摘しほめることで更生の意欲を高めるという審判手法がとり難くなりはしないだろうか。処分も重き方向に流れないであろうか。つまるところ,少年の「健全育成」を理念とする少年審判の性格を大きく揺るがすことになりはしないだろうか。』
教育もそうですが、子どもの問題は長い目で真剣に考えないと、そのツケは、20年後、30年後に必ず巡ってきます。
昨日今日の話に例をとれば、即効性の毒餃子は、すぐ結果が出るので、被害が比較的短く終わりますが、毒を与えられた子どもが成長して、「あっ、毒だったんだ」と気づいたときには、取り返しがつかないほどの大規模の被害が出ているし、さらに被災した親に次の世代が育てられているということです。
少年審判が非公開で行われる理由が、読んで良くわかりました。
ただ、文中の少年のプライバシーが外に漏れた時、少年の更生が難しくなるというのはわかりますが、それだけの事を起こしているのだから、少年だからといってもそれは自業自得では?とどうしても思ってしまいます。まして、被害者の方が亡くなったような事件であれば、尚更思ってしまいます。
もちろん、加害者の少年だけが絶対悪とは思えない場合もあると思います。まわりの環境、親等、いろんな要素が絡み合っていることをしっかりと把握しないといけないことは良くわかりました。
私は加害者にも被害者にもなったことがない、法律のことも良く知らない一般人なので、どうしても杉浦さんみたいに冷静に物事を考えられずに、被害者の味方になる傾向があります。悲惨なニュースを見た時に、私はいつも、私の家族がこんな目にあったら、私は絶対に犯人を殺しに行くだろうなとよく思います。
被害者の立場に立つと、それは憤りしかありません。家族、ましてや子どもを殺されたりしたら、その思いは想像に絶するものがあります。子どもさんを亡くされた方にもたくさんお目にかかっていますので、その思いは、本当に痛いほどわかりますが、でも、ご本人の苦しみは片時も逃れられない、そして永劫に続くもので、想像を絶するものだと思っています。
私が、このような難しい問題について、あえて意見を言うのは、逆に、両方の方を比較的近くにいながら、それでも第三者でいられるからだと思います。
被害者になったら、相手を殺しても納得できません。子どもを元の通りにして返してくれて、自分と子どもとの将来をもう一度戻してくれなければ許せません。
でも、どうしようもないのです。
その中で、何がよりよいか。
それは申し訳ないことですが、当面の被害者の方だけの思いを優先すること(もし、優先するなら加害者に同じ思いをさせることまで認めてほしいという声もあるでしょう)よりも、どれほど悪いことをしたかがわかるようになった少年に、被害者に対して謝罪をさせたいのです。痛みを思い知らせたいのです。そして、同じことを二度と繰り返させたくはないのです。
ただ、私が被害者の立場に立つときには、被害者の方の意見は100%伝えます。これまでも審判官に意見を言いたい、審判に立ち会いたいという意見は裁判所に伝えて来ました。
それに対する異論を伝えてくるのは、加害者側のやることですから。
少年審判は、少年の起こした事件を公正に審査し、少年に罪を自覚させ、公正へと導く場だと思います。
もし被害者が傍聴すれば、審判が被害者による少年への報復の場となりかねず、被害者が厳罰を求めそれによって処分が重い方向に流れるなどいったことになったらそれは公正な審判とはいえないように思います。公正な審判の崩壊を意味するのではないでしょうか。
現に刑事裁判で被害者参加人制度なるものが認められてから裁判の場が被害者が加害者に報復する場と化し、異様とも思えるほど重罰化が進んでいることを見ても明らかなように思います。
早い段階で懲りさせ、根本的に考えを改めさせないと、同様なことを繰り返すでしょう。
被害者や遺族も、加害者が反省もせずに生き続けるのは耐えられないでしょう。心から反省させるよう、被害者も協力していけるような形が必要ではないでしょうか。