風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

浜田晃

2016-04-18 06:20:13 | 名バイプレーヤー








上手い人なんですよこの方は。以上。



……って、おいおい(笑)



数えきれない程のドラマや映画に出演し、出演シーンはそんなに多くない場合が多いのだけれど、なんだか強烈な印象を残していく。


どの作品のどのシーンに出演していたか、そんなにはっきり覚えているわけじゃないのだけれど、その存在感だけは強烈に頭に残っている。

凶悪な役は本当に凶悪そうだし、人の好い役は本当に人が好さそうに見えるし、したたかな役の時は本当に下心ありそうだし。

まあ、役者なんだから当たり前っちゃ当たり前なんだけど(笑)、なんというか、この方の演技の「かたち」が好きなんですよね。そういうの、ありません?


なんだかよくわからないけど、この人の演技好きだ~、みたいな。そういうのって、ないですか?



凶悪な人間がひょんなときに見せる愛嬌だとか、したたかな人間が隠している下心がチラッと見えるときの表情の作り方とか、本当に上手いなあと思っちゃう。



確か『踊る大走査線』だったと思うんだけど、警察官僚の一人で出演したことがあって、上の命令には従順に従いながらも、室井(柳葉敏郎)さんのことをさりげなく気遣っている。その時の本当に心配げな表情とか、本当に上手いなあと思うんですよね。



「上手い」俳優、浜田晃。


是非とも注目してほしい役者さんです。

永遠の聖母 ~クラリスと星泉~

2016-04-17 12:27:24 | 雑論










ルパン達が何故、命がけでクラリスという少女を守ろうとしたのか。以前にも書いたかとおもいますが、それは一言でいえば、クラリスの中に「聖母」を見たからなのだろう、と思う。


「性」を超越した「聖」なる母性。男の中には永遠の「聖母崇拝」がある、なんてことをおっしゃる方もおられます。なるほどクラリスはアニメであるがゆえに、永遠に変わらない「聖少女」の姿をした「永遠の聖母」たりえた。


少女の「聖性」と母の「聖性」と。両方を持ちえたクラリスは、ある意味アニメ史上最強のキャラクターであり、永遠に崇拝され続ける、と言っていいのかも知れない。



ルパン一味は、聖母である聖少女を守るために、その聖性を奪い、犯そうとする邪悪な存在、カリオストロ伯爵に命がけで立ち向かっていく。

そのクラリスの存在を強調するためか、この作品ではいつもならフェロモン過剰気味の峰不二子は、その色っぽさを抑えられ、「女戦士」としての面を思いっきり強調されて描かれています。そして他の男どもとは微妙に目的が違うとはいえ、クラリスに対しては含むところなく、素直に味方になっていく。


過剰な「性」は排除され、ひたすらクラリスの「聖母性」「聖少女性」を強調し、その魅力を徹底的に描いていく。


宮崎駿の理想が、ある意味もっとも素直に表現されたのが、クラリスという聖少女なのでしょう。



アニメであるがゆえに、クラリスは永遠の理想像足り得た。



しかし、現実にはそうはいかない。




少女は必ず、大人になっていきます。










突然父を交通事故で失い、一人ぼっちとなってしまった女子高生、星泉(薬師丸ひろ子)に舞い込んできた、ヤクザの組長の跡目。

たった4人の「目高組」組員たちは、先代組長の「血縁の者に後を継がせる」という遺言を頑なに守ろうとし、たった一人の血縁者である泉に、組長襲名を要請しますが、当然ながら断られます。

もはやこれまでと、組員たちは対立する組に殴り込みを掛けて死のうとします。

このバカな男たちを放っておけなくなった泉は、やむなく目高組組長を襲名してしまいます。



このときから、泉は4人の組員たちの「母」になるんですね。


『セーラー服と機関銃』という映画は、この少女から大人の女への階段を登ろうとしている、揺れ動く世代の少女の中にある「母性」を描こうとした映画なんじゃないかと、私にはそんな風に思えるんです。







さて、クラリスと星泉の最大の違いは、当然ながら一方はアニメ、一方は実写ということです。


クラリスはアニメであるがゆえに、永遠に変わらずにいられる。しかし星泉は違う。星泉というより、薬師丸ひろ子ですね。薬師丸ひろ子という少女は、確実に成長していくわけです。

大人の女性へ、確実に成長していく。



その成長していく過程で、この世の穢さや、人間の穢いサガを知っていく。

そうして自分自身も、少しづつその穢れを受け入れていく。



目高組若頭、佐久間(渡瀬恒彦)と謎の女マユミ(風祭ゆき)がセックスをしているところを目撃してしまう泉。

「汚いよ、まるでケダモノじゃない!」といいながらも、佐久間の中に言い知れぬ切なさを見る泉。

父を亡くした泉にとって、佐久間は父のような存在であり、組員としては子のような存在となっており、そんな佐久間に、なんともいえぬ愛おしさ、本当の母のように慈しむ思いが芽生えていたのでしょう。


遥か年上の男性の「母」となった泉が、そこにいました。




この映画に登場する男どもは皆、この泉の持つ「母性」に惹かれていきます。

一番年少の組員メイ(酒井敏也)は、「かあちゃんの匂いがする」といって、母親にすがる幼子のように泉に抱き着きます。そこに性的な欲望はなく、ただただ母に甘える幼児のように、泉の胸の中に抱かれるのです。

その直後、メイは敵対する三大寺組の組員に射殺されてしまう。


三大寺組組長(三国連太郎)は、人が苦しむ姿に快感を覚えるという変質者。子を慈しむ母にとっては憎むべき相手。

もう一つの敵対するヤクザの組長、浜口(北村和夫)は泉の処女を奪うことに執心し、その聖少女性を犯そうとする狒狒爺。やはり憎むべき相手。


自らの聖性を守り、共に成長していくために


泉は、怒りの機関銃をぶっ放す。











この作品の監督、相米慎二氏の膝にちょこんと座って、無邪気な笑顔をこちらに向けている薬師丸さんの写真をみたことがあります。


その膝に乗られた監督の、恥ずかしいようでうれしいようで、それでいて、どこか切なげな目が印象に残っています。



この無邪気な少女の中に見る、大人の女性の萌芽。

どうかこのまま、まっすぐに育ちながら、大人の女性としての母性を開花させてほしい。


そんな思いが、その目線の中に、あったのかもしれません。









現在、母親を演じることの多くなった薬師丸さんですが、あの星泉の可憐さはそのままに、見事に母親になっている、そんな印象を受けます。



バカな男どもの永遠のあこがれ、永遠の聖母。


どうか薬師丸さんには、「日本一の母親女優」になってほしいね。



聖少女はこうして聖母となった。




はて?私は一体、なにを言っているのやら……(笑)









でも本当は、母性というのはすべての人間一人一人の中にあるものなんだよね。


バカな男どもの中にも、母性はちゃんとある。


誰かの中に見出そうとするんじゃなく、自分の中にある母性をこそ、大切に育てなきゃ。



己の外側に母性を追い求める限り、バカな男どもは




永遠に救われないんだよね。








己の中の母性を大切に。

LIGHT BRINGER [Dream!] 2011

2016-04-16 04:48:40 | 今日のメタル










不世出の女性ヴォーカリスト、FUKIを擁したバンド、ライトブリンガー。

この曲は東日本大震災応援プロジェクト、【PRAY FOR JAPAN】に供された曲。ポジティブな歌詞が涙を誘います。

この曲を、今、大変な目に遭われているすべての方々に捧げます。


どうか、負けないで。


がんばれ!

ついに公開!

2016-04-15 07:02:29 | ゴジラ




シン・ゴジラ、ついに全身ヴィジュアル公開!







怪獣とは、生物を超越した存在だということを、見事に表現しているヴィジュアルだと思います。


生物というより妖怪、いや、これは「怨霊」ですね。大地の怒りが生んだ怨霊です。



どうやらオールCGで描かれているようですが、適度な着ぐるみ感を残しているところがgood!



第1作目のゴジラのイメージを踏襲しつつ、現代的な怒りと怨念のイメージを加えた、古くて新しいゴジラのヴィジュアルに出来上がっていますね。



良いですね、気に入りました。




さて、あとはドラマだ。これが一番の心配……(苦笑)



出演俳優は300人以上。確かにゴジラは言ってみれば国家的規模の災厄ですから、多数の人間たちが右往左往するわけです。わかっていても今までは、それを映像でそのまま見せることは難しかった。


それをやっちゃおうってんだから、かなり本気だ、ということはわかりますね。



それにしても、やっぱりドラマだ……。


一番心配なのが、石原さとみの演じる役。アメリカ大統領の特使とかで、日系アメリカ人なんでしょうね。

樋口監督の悪い癖で、変に無駄に意味なくカッコつけた演出しなきゃいいけどなあ……。


やめてくれよお、樋口さ~ん。

頼むよおおおぉぉぉぉおおお……。





映画『シン・ゴジラ』最新予告編


出演者は竹野内豊。長谷川博己。石原さとみ。

高良健吾。市川実日子。大杉漣。國村隼。柄本明。津田寛治。浜田晃。平泉成。嶋田久作。斉藤工。余貴美子。片桐はいり。古田新太。前田敦子。ピエール瀧。その他その他その他、豪華出演陣。


特撮映像もかなり高レベルの仕上がりですね。抑々が日本は技術大国なわけで、映像技術だって本当は凄いものを持っているはずなんです。ただ諸々の事情により、それを遺憾なく発揮できる機会がなかっただけ。


この作品をもって、日本の特撮映画の復権を目指す!そんな意気込みが伝わってくるような、気合のこもった見事な特撮映像が仕上がっているように思えます。




映像的な部分は、かなりの期待大。あとは、やはりストーリー。

そしてなんといっても、本編演出。



樋口さん!お願いしますよ!!!

変な演出、


しないでよおおおおぉぉぉぉぉおおおおおおっ!!!!!!

フェルナンド・サンチョ

2016-04-14 05:06:37 | 名バイプレーヤー









『セーラー服と機関銃』で三国連太郎さんが演じていた、残虐趣味を持つヤクザ親分が「ふとっちょ」と呼ばれているのを見て思い出したのが、フェルナンド・サンチョという俳優さんです。

マカロニ・ウェスタンの悪役として有名な方で、マカロニ・ウェスタンだけで40本以上も出演されており、そのほとんどが悪役。

その太った身体でどことなくユーモラスでありながら、しかし残虐なことを平気でする。そのギャップに怖さと可笑しみと、ある意味哀しみさえ感じさせる方で、大好きな役者さんでした。

マカロニ・ウェスタン以外にも、様々な映画に端役でちょこっと出ていたりしいて、マカロニ・ウェスタンのイメージが強いので、よく見ないと見逃してしまいそうになるところに出ていたりします。

マカロニ・ウェスタン・ファンみんなに愛された、名悪役でした。







『南から来た用心棒』

主演はマカロニ・ウェスタンの大スター、ジュリアーノ・ジェンマ。赤いシャツを着て真ん中に立っているメキシコ人風の太った男が、今日の記事の主役、フェルナンド・サンチョ。ラスト・シーンで棺桶に落っこちる人も同じです。

スペイン出身。91年他界。





誰も興味を持たなくても、私は憶えてるよ。


知る人ぞ知る名優に、惜しみない拍手を!

映画『セーラー服と機関銃 [完璧版]』 昭和57年(1982)

2016-04-13 11:46:41 | 映画










映画『セーラー服と機関銃』は、1981年の12月、東映配給みよる正月映画第1弾として公開されました。

その時点では二本立て公開(真田広之主演『燃える勇者』)だったということもあり、上映時間は1時間半程度にまとめられていました。

その半年後の82年7月、カットされたシーンを追加して、2時間ちょっとの上映時間で改めて公開し直されたヴァージョンが、この完璧版です。


最初の公開時では、元々が荒唐無稽な内容であって、ストーリーの重要な要素が、上映時間の関係でカットされていたため、よくわからないない部分があったのですが、この完璧版の公開で、ある程度物語が分かりやすくなった部分はあります。

まあそれでも、「荒唐無稽」であるという点は変わりありませんが。




抑々、女子高生にヤクザの組長を継がせられるわけがないのだし、結構派手に暴れまわっても警察がほとんど出てこない、出てくるのは柄本明演じる悪徳刑事ただ一人ってのはどういうわけ!?

リアリティという部分を追及していったら、この映画には成り立つ要素がほとんどないんです。



この映画はたぶん、薬師丸ひろ子という「素材」がなければ成り立たない映画だったのじゃなかろうか。



この世の「毒」を知らなかった少女が、その毒に触れていく過程で、少女からほんのちょっとだけ、大人の女性に近づいていく。

この映画は、そんな揺れ動く年頃の少女の不安定だとか、モヤモヤだとか、憂いとか、そうしたものに惹かれ、翻弄され、守ろうとする大人たちの寓話でもあるのだな、なんてことを

感じさせる映画であります。



少女はいずれ、大人の女性へと脱皮していく。それはもちろん祝福すべきことなのですが、それとともに感じる、一抹の「寂しさ」のようなもの。



ラストシーン、セーラー服姿の星泉(薬師丸ひろ子)が、町中で無垢なる子供たちと戯れ遊ぶ。

そのとき、地下鉄の通風孔から吹き上がる風で、セーラー服のスカートが、マリリン・モンローのようにふわりとまくれ上がる。



少女から大人へ、その過程を見守る「大人」たちの寂しさと戸惑い。

このラストシーンに、そんな「大人」たちの思いが集約されているような、そんな気がしましたねえ。



薬師丸ひろ子という「少女」が持つ、古風であり、凛とした強さを持つ佇まいが、そんな大人たちの思いを一層際立たせる。



だからこの映画は、薬師丸ひろ子でなければ成り立たなかったのだね。



高校生の頃は、そんなこと、まったく感じませんでしたけどね(笑)

私もそんな齢になっちまったんだねえ……(笑)





















『セーラー服と機関銃』
制作 角川春樹
   多賀英典
プロデューサー 伊地知啓
原作 赤川次郎
脚本 田中陽造
音楽 星勝
撮影 仙元誠三
監督 相米慎二

出演

薬師丸ひろ子

渡瀬恒彦

風祭ゆき
大門正明

酒井敏也
光石研

柄本明

柳沢慎吾
斉藤洋介

佐藤允
寺田農

奥村公延
藤原鎌足

北村和夫


三国連太郎


昭和57年 角川春樹事務所
      キティ・フィルム
      東映映画

GALNERYUS [Angel Of Salvation] 2012

2016-04-12 07:49:08 | 今日のメタル










めちゃめちゃパワフルで、テクニカルでクラシカル。


起承転結もしっかりとあるし、激哀美も正しく表現されているし、様式美の現代的発展形の一つのかたちとみてよいでしょう。



J-メタルの雄、最終兵器。なんでもいいけど、とにかくガルネリウスは素晴らしいバンドですよ。もっと評価されてしかるべき……って、以前にも書きましたね(笑)でも本当にそう思う。



好きだなあ、ガルネ。

エンタテインメントの「毒」

2016-04-11 06:18:56 | 雑感





ていうか、「毒」のないエンタテインメントなど面白いのか?ていう話。






この場合の「毒」というのは、必ずしも悪いものとは限りません。



例えば病気の時に処方される薬ですが、あれは量を間違えるとたちまち毒に代わります。


つまりは、もともと毒になり得るものを、量を調節することで、半ば無理矢理、薬にしているようなもの薬なんてのは、抑々が毒なのです。


なーんて、薬剤師でもない私が、偉そうに言うことではありませんが。





「毒」と「薬」は表裏一体。まあ、毒といって悪ければ、料理に使う「スパイス」とでも言いかえれば良いですかね。適度な量ならばピリッと味を引き締めますが、量を間違えるととても食えたものではなくなる。


このスパイスの量、まあ、辛さですね。辛さの好みというのは、人それぞれです。


某カレー専門店では、カレーの辛さを客の好みで指定できます。私などは、せいぜい1辛が限界ですが、人によっては5辛なんてのを平気で食する猛者がいる。

ホントに人それぞれです。



病気の中身によって、薬の処方は違ってくるし、カレーでもラーメンでも、人によって辛さの好み、スパイスの量の好みは違ってくる。


いずれにしろ、適度に調節された「毒」が病から人を守り、人それぞれの「辛さ」の好みによって調整されたスパイスが、味を引き締めているわけです。





人は呼吸することで、酸素を体内に入れています。

でも酸素というのはもともとは有害なものだったそうですね。

今だって、空気中の酸素量は適度に調節されているからこそ、地球上の生物は生きていられるわけで、酸素量が過多になれば、忽ち人体に有害な影響を及ぼすことになる。


そういう意味でこの世界は、適度な「毒」に満たされているのです。





酸素に限らず、この3次元世界、夢の浮世を生きるということは、毒の中を渡っていくようなものではないでしょうか。わかりますよね?

まったく「毒」に触れることなく生きてきた人など、いるわけがない。



我々は毒とうまく渡り合うために、この世に生まれてきたようなもの、この夢の浮世を生きているのですよ。好むと好まざるとに関わらず、


「毒」はあるものなのです。






エンタテインメントは、それがどのような内容のものであれ、結局はこの世を写す鏡のようなものです。

だから、「毒」があるのは当たり前なのですよ。ただその量が、作品によって違うというだけのこと。



だから、エンタメの「毒」に関してとやかく言いたがる人というのは、抑々この世の本質を理解しとらんのじゃないかと、私などは思ってしまいますねえ……と、毒を吐いたところで(笑)



人によって好みは違うのも当たり前。スプラッターが好きだからといって、イコール異常な人とはならない。そんな単純なものではない。

私なんぞは、幼少のころから永井豪などの残酷マンガを読んで育ってきましたが、「人殺し」にはなりませんでしたよ。若いころはゾンビ映画が大好きでしたが(今は興味がなくなりましたが)、人をバラバラにしたことなどありませんよ。

あるわけないでしょーに。




人が生きてく上では、適度な「毒」は必要なのです。そういう風になっているのですよ、この世は。

それも、人によって適度な量はそれぞれ違うのです。



「毒」のないエンタメなど、辛くもななんともないカレーみたいなもの、美味くも面白くもなんともない。


まあ、辛くないカレーが好きな人もいるでしょうが、それはそれがその人の適度だというだけのこと。絶対的基準とはなりえないことを知るべきです。



適度な毒は必要なのです。


この夢の浮世が



そういう風にできているのですから。














一人一人、毒の適量は違う。

自分にとっての適量を見極めるには、やはり自分を見つめる努力を続けていくしかないのでしょう。


そうして、その適量を少しづつでも減らしていけたらいいですね。



病気が快復していけば、薬の量も減っていく。それと同じように、


「毒」の適量も、減らしていけたら




良いですねえ。

『未来惑星ザルドス』の記憶

2016-04-10 11:48:25 | 映画









中学生の頃に、懐かしの「水曜ロードショー」で観て以来、一度も観たことがない映画です。


いろいろ調べてみますと、かなりの低予算で作られた映画のようです。知る人ぞ知る。カルトSF映画ですね。


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永遠の命を持った人々、死なない人々が暮らす隔絶された世界があって、その外側には、戦争ばかりをしている獣のような人々がいる。


その「死なない」人々と獣のような人々との間を媒介するのは、空を飛ぶ巨大な人面の石像で、獣人たちはその石像を神のように崇めている。


そしてその石像から供与される銃などの武器をてにして、獣人たちは戦争を繰り返す。

そしてその殺し合いの映像を、「死なない」人々が観て楽しむ、というわけです。


その獣人の一人に、ショーン・コネリー演じる男がいて、彼は石像の中に忍び込んで、死なない人々の世界に潜入するんです。そうやって秘密を知っていくショーンコネリーは、最後にその「死なない」人々を殺していくんです。

死なないはずの人々をどうやって殺したのか、その辺の記憶がまったくないので、よくわかりませんが、とにかく殺していくんです。で、彼らはむしろ、嬉々として死を受け入れていくんです。



そうしてその世界は滅びていき、ショーン・コネリーは、その死ななかったはずの人々のひとりである女性と結婚し、子供を作り、老いて、死んでいく。



そんな映画でした。



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中坊だった私にはよくわからないところのある映画ではありましたが、妙に印象に残った映画でしたねえ。



ショーン・コネリーはひたすら荒々しく、生命の躍動に溢れ、永遠の生に閉じ込められ、「生ける屍」と化した人々と対比されて描かれていく。



「生と死」というテーマを大前提に、様々な要素をごった煮のようにぶち込んでいった映画、とでも申せましょうか。



決して綺麗な映画ではありません。チープなところもあるし、万人にお勧めできるような映画ではないことは確かです。


でもなんでしょう。こうして何10年もたった後でも、その強烈な印象をマジマジと思い出させる、強烈なインパクトをもった映画であるといえるでしょう。






エンタテインメントには、一定の「毒」があるように思います。


その「毒」はときに人に何かを気づかせ、考えさせるきっかけともなりますが、

はまりすぎると、人を奈落の底に突き落とす危険性をも合わせ持つ。




この映画も、私にとってはそんな「毒」の一つ。どんなきっかけを私に与えたのか、わかるようでわからないところもありますが、


ともかくも、強烈な「毒」として、私の中に残っている、と言えるでしょう。





いずれにしろ、「毒」にはあまり、はまりすぎないよう、

ご用心のほど。




なんのこっちゃ(笑)





『未来惑星ザルドス』予告編