風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

「百姓は生かさぬよう殺さぬよう……」なんて言ってない!?

2018-06-28 09:23:40 | 歴史・民俗





江戸幕藩体制における農民政策を表現した言葉に、


【百姓は生かさぬよう殺さぬよう……】


というのがありますね。


死なない程度に徹底的に搾り取れ!という意味だとして、江戸時代がいかに農民や庶民に対して過酷であったか、江戸時代が暗黒時代であったことを証明する言葉であるとして、折あるごとに取り上げられてきた言葉です。




しかしこれは、本来の意味ではないらしい。








この言葉の元になっているのは、徳川家康の重臣であった本多正信が云ったとされる次の言葉



【百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也】


であるようです。



意味としては「贅沢はできないが、日々の暮らしに困らない程度の財は残せるような政策に務めることが、百姓を治めるには最良の道である」ということです。


決して「死なない程度に搾り取れ!」なんて言ってないわけです。




これは華美で贅沢な暮らしを戒め、質素倹約を奨励する、ある種道徳的な意味合いをもった政策で世を治めようというもので、これは農民、庶民に限らず、武士においても例外ではありません。質素倹約は武士においてこそ重要な生活信条として意識されていました。



幕府の重要ポスト、老中や若年寄などの役職を務められるのは、10万石以下の譜代大名に決められており、同じ譜代でも、10万石より多い石高の大身、つまり「金持ち」の大名はこうした役職に就くことは出来ず、外様大名はもちろん、御三家などの親藩大名も幕政に参画することはできませんでした。



幕政に参画できるのは基本、決して金持ちとは言えない10万石以下の譜代大名に限られていたわけです。


これは富と権力が一か所に集中するのを避けるという意味もあったようです。金の無い奴に政治権力を持たせ、金のある奴には政治権力を持たせないように調節していた。これで全体的にある程度のバランスがとれるように配慮をしていたらしいんです。


これを見るに、徳川幕府の政治信条は基本、「中庸」にあった、といえるかもしれませんね。



もちろん、この「中庸」がすべて上手く行っていたわけではありません。苛斂誅求とならざるを得ない状況も多々あったであろうし、田沼意次のように、富と権力が一個人に集中した例は少なからずあります。


もっとも田沼意次の場合、貨幣経済を発展させるなど政治的手腕には相当高い者が有り、必ずしも悪徳政治家とは言えない側面もあって、その評価そのものはまた別の話なのですが、


それは置いといて。



ともかくも、徳川幕府には、百姓に対する苛斂誅求をはじめから是とする意図などなかったわけですよ。むしろみんなで一丸となって、質素倹約、慎ましく囁かな生活に務めましょうという、道徳心の強い政策を行おうとしていたことが見えるわけです。



そうした意味合いを持った言葉が、いつの間にか意味合いを曲げられて伝えられてきた。


この、「生かさぬよう殺さぬよう……」云々は、歴史の教科書に載っていました。あたかも江戸時代が暗黒時代であるかのように曲げられた言葉が、教育現場で教えられ、江戸時代の曲げられたイメージというものが国民に植え付けられてきた。



まるで、誰かが「意図」したかのように。



徳川幕藩体制の時代が、暗黒時代であるとした方が都合の良い人たちとは誰でしょうね?そりゃあやっぱり、幕藩体制を潰した人たち


でしょうねえ。




富と権力が一か所に集中するのが当たり前のようにされたのは、明治以降のことです。なるほど、やはり


そういうこと、なんでしょうかねえ。




分かりませんけどね……(笑)