荻野洋一 映画等覚書ブログ

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スーザン・ソンタグ 著『サラエボで、ゴドーを待ちながら』

2013-01-12 00:21:53 | 
 『サラエボで、ゴドーを待ちながら』(みすず書房 刊)は、スーザン・ソンタグ(1933-2004)の単行本に入っていない批評を集めたアンソロジーの第2弾。紛争下のボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで芝居の演出を依頼されたソンタグがサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を選んだのは、しごく直感的な結果だった。救いの日、解放の日がいつ来るとも知れぬ灯火管制下の無防備都市で、それこそロウソクの火も惜しみながら稽古を続ける毎日が語られる。
 前段としてダンスについて、バレエについて、オペラについて、そしてメイプルソープやアニー・リーボヴィッツなどの写真について、さまざまな媒体に書き残したレビューが収録されている。そして、そこにはつねにアメリカとヨーロッパの距離が介在している。ロラン・バルトについて熱心に書くいっぽうで、ヘンリー・ジェイムズもフォークナーも論じようとせず、シェイクスピアやヴァージニア・ウルフは好きだと言いつつ正面から批評しようとしない。にもかかわらず彼女は正真正銘のアメリカのライターなのだ。ニューヨークの匂いを濃厚に漂わせた文体は現代の読者に、落ち着き払った狂気とアンビバレンスを体験させる。
 サラエボで過ごした苛酷な日々を、ソンタグはいささか得意げな調子で書きつらねる。『ゴドー』の演者たちは本来才能豊かな俳優であるようだが、生存のための日常の闘い──風呂には何ヶ月も入れず、飲料水の配給を求めて何時間も行列に並ぶ日々──に追い立てられて、堆積した疲労が稽古に暗い影を落としていることを、演出者は記録せざるを得ない。「われわが待っているのはゴドーでも、クリントンでもないと思うこともあった。われわれが待っていたのは小道具であった。」 窮乏の中でゆっくりとだが研ぎ澄まされた果てに生まれた『ゴドーを待ちながら』は、演出者たる著者の魂を揺さぶる。
 「8月18日、午後2時からの上演の終わり近く、ゴドーはきょうは来ない、しかし明日には来るだろうという使いの言葉に続くウラディミールとエストラゴンの長い悲劇的な沈黙のとき、私の眼は涙で痛みはじめていた。観客のだれ一人として音を立てる者はいなかった。聞こえてくるのは、劇場の外から来る音だけであった。国連軍の武装した人員輸送車が轟音を立てて通りを走る音と、狙撃兵の銃声だけであった。」


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