荻野洋一 映画等覚書ブログ

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もうひとつの「サウダーヂ」

2012-02-10 01:00:13 | 映画
 矢口史靖と山崎貴のそれぞれの新作『ロボジー』『ALWAYS 三丁目の夕日'64』には、似たような人々、似たような心情が写っている。ようするに、日本産業社会および日本型ハイテクノロジーの斜陽、終焉に対するノスタルジーである。『ロボジー』は、人型ロボットの開発に失敗したメーカー担当者たちが、苦しまぎれにロボットの筐体サイズにぴったりの老人を臨時に雇って着ぐるみとし、いったいいつまでこの子ども騙しのトリックで世間を欺き続けられるか、というナンセンスなギャグ喜劇。一方、『三丁目の夕日'64』は戦後復興色の濃かった前2作から一転し、著しい経済成長とオリンピック開催を背景に、勢いづく庶民生活と若者の台頭を、例によって「あの頃は良かった」式の懐古調で扱っている。
 これもひとつの「サウダーヂ」であろう。日本人の幸福はあたかも、『モテキ』の大根仁のようにライナーノーツ的イメージとして提示するか、「いまはもう消えてしまった」ことへの懐古においてしか見せることができないかのようである(それにしても、ライナーノーツというジャンルもまた、無茶苦茶に懐古を掻きたてるものではないか?)。フランス人の幸福をアニエス・ヴァルダがその名も『幸福』の中で、冷淡なるクリシェとして提示したことを思い出させる。そして矢口、山崎両者によるそうした方法は、見当外れではいない。誰もが現代日本の直面する、雪崩を打ったような急激な衰退ぶりを肌で感じており、人間という動物には結局のところ、懐古は生きる上での必需品であるからだ。
 それでも「まだ諦めない」と粘りを誇示しつつV字回復を期したり、ごくわずかな風穴を突破口にして新たなオルタナティヴ性をもって世界を出し抜く、ということが大事であるのは論を俟たない。だが、その広大な背後には、だらしなく子ども騙しのトリックで事態をごまかしたり、ノスタルジーに耽溺しつつリアルに対して偏狭になったりする精神性が広がっている。そして、その広がりを見るにつけ、ある社会、ある文明の斜陽、終焉の始まりが本当のことであることが確認できる。コンスタンティノープルで胚胎されたビザンツ文化であるとか、ポルトガル人のサウダーデ(ブラジルではサウダーヂ)は、このように生成していったのだろうか。出来がいいとか悪いとかということではなく、『ロボジー』も『三丁目の夕日'64』も健全な社会で生まれる作品であるとは思えない。そしてその不健全のゆくえも、私は見ていきたいと思っている。


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